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実在した穴の海
穴の海は実在したに違いない。
明治初年、町村制が施行された時、現福山市は安那・深津・品治・芦田・沼隈の五郡(現在安那・芦田・沼隈郡の一部は府中市と神辺町に所属)で構成されていた。いずれも奈良時代以来の由緒ある郡名である。
蛇円山から見た神辺平野
中でも、安那郡は穴の海の「穴」が郡名の由来となった郡として重要である。現在の行政区画で言えは、現深安郡神辺町を中心に、福山市加茂町、同山野町がかつての安那郡にあたる。
では、この旧安那郡内に伝説の穴の海を求めるべきかと言えば、ことはそう簡単ではない。西暦645年、大化の改新が断行され、国・郡・里制が施行された当初は、南に接する深津郡は安那郡に含まれていた。すなわち、『続日本紀』養老5年(721)4月の条に、「備後国安那郡を分けて、深津郡を置く」とあり、旧福山市の芦田川左岸にあたる深津郡が、かつては安那郡の一部だったことが判明する。
上空から見た神辺平野(服部付近)
安那・深津の両郡は明治の町村制の際に合併して「深安郡」となっているから、伝説の穴の海は、この旧深安郡域に存在したことになる。この点は重要である、今まで穴の海を論ずる研究者は、養老5年以後の安那郡を以って穴の海の故地と考えてきたが、それは誤りなのである。
2000年前の福山(赤線が当時の海岸線)
穴の海の候補地を旧福山湾岸まで広げると、その比定地は落ちつくべきところに落ちつく。それは引野と箕島を湾口とするかつての「福山湾」だ。この地は近世初頭まで穴の海の名残を残していた。元和五年(一六一九)八月、備後十万石の大名となった水野勝成は、この湾の中心に新城を築き、眼下に広がる海原を埋め立てて、城下町を建設し、新田を造成していった。試みに地図を広げて、水野氏によって造成された地域を塗りつぶしてみるとどうなるか、見事な「穴の海」が広がるではないか。
旧福山湾が穴の海であったことは、考古学的にも立証できる。今まで穴の海だと言われてきた神辺平野には、入海の証拠貝塚遺跡は存在しない。
木之庄町の木之庄貝塚の碑
これに対し、この旧福山湾岸には、旧海岸線に沿って貝塚が点々と分布する。引野町の長浜貝塚(奈良・平安)、大門町の大門貝塚(縄文)、蔵王町の仁吾貝塚(古墳〜平安)、木之庄町の木之庄貝塚(縄文)、水呑町の洗谷貝塚(縄文)…。これらの貝塚遺跡を結ぶとどうなるか。立派な穴の海が復元できる。
伝説の穴の海は確かに存在した。しかし、それは今まで言われてきた神辺平野にではなく、芦田川の河口に広る現在の福山市街地の地下に存在したのである。(田口義之「新びんご今昔物語」) |
新びんご今昔物語
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大田貝塚の発見―備後発掘物語(2)―
縄文時代の石器や土器が人々の関心を引くようになったのは、江戸時代後期のことだ。だが、それがどんな人々によって使われたものかはわからなかった。当時の人は、それを天狗や神々の残したものだと考えた。
大田貝塚の標柱
これらの土器や石器が、太古の人々の使った道具だとわかって、考古学の研究対象になったのは明治時代のことである。明治10年(1877)、東大に招聘された米国人モースは、東京大森貝塚を発掘、これらの土器を縄紋(文)土器と命名した。縄文文化の発見だ。
しかし、縄文土器を使用した人々の素性は永らく不明であった。明治時代の人々は、古事記・日本書紀に書かれていたことを疑わず、日本人は高天原から天下った「大和」民族であり、縄文文化を残した人々を異民族だと考えていたからだ。
大田貝塚公園
ここに有名なコロボックル・アイヌ論争が始まる。人類学の坪井正五郎が縄文文化を残したのはアイヌの伝説にある「コロボックル」人だと主張すれば、解剖学の小金井良精は縄文人はアイヌ人だと主張した。
論争は、坪井の死去(1913)によって自然に終息し、アイヌ説が優位にたった。しかし、現アイヌは土器を作らない。京大の清野謙次は、この謎を貝塚から出土する人骨を研究することによって解明しようとした。そして、縄文人がアイヌではなく、日本人の直接の祖先で、現日本人は縄文人が弥生時代以降の渡来人と混血することによって誕生したと主張した。現在の学説の出発点となった清野の『日本原人論』だ。
大田貝塚出土品
(尾道市教育委員会蔵)
清野の収集した縄文人骨は500体に達した。この中に尾道市高須町の大田貝塚から出土した69体が含まれていた。
この地に貝塚遺跡が存在することがわかったのは、大正15年(1926)春のことである。大阪から徒歩で帰省中の九州佐世保考古学会の佐藤真穂は、沼隈郡高須村大田(現尾道市)で田圃に縄文土器の破片や貝殻が広く散布しているのを見つけた。
大田貝塚出土品(同上)
佐藤氏はさっそく地権者の了解を得て発掘を実施した。当時の新聞は報じている、「貝塚の広さは五町歩乃至は六町歩位に及んでいる。そのうち一町歩位は原形のままである、二坪ほどの地域を一尺程掘り下げたところ驚くなかれ純アイヌ式の土器の破片についでやや完全な人骨三体を発見した…」(大正15年4月14日付大阪朝日新聞)
現在広島県の史跡に指定されている大田貝塚の発見だ。(田口義之「新びんご今昔物語」)
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備後発掘物語 宮脇遺跡―福山市新市町常―
戦後間もない昭和二四年九月、日本考古学史に残る発掘が群馬県の赤城山麓で行なわれた。納豆売りの青年相沢忠洋の発見した「岩宿遺跡」の発掘だ。それまで日本には一万年以上前の旧石器時代は存在しないと考えられていた。日本の人類史は土器を伴う縄文時代から始まると信じられていた。それをこの無名の貧しい青年の情熱が覆したのだ。
しかし、この「旧石器時代」の発見の栄誉は、備後の一考古学者に与えられるべきかも知れない。
品治別神社(福山市新市町常)
今は福山市の一部となった新市町、この町の北部大字常に品治別神社という古い神社がある。この東に開けたなだらかな山麓の神社の境内から、土器や石器が出土することが知られたのは戦時中のことだ。当時府中中学で国史を教えていた豊元国氏はこの遺跡に興味を持った。
この遺跡(宮脇石器時代遺跡と呼ぶ)の発掘調査は、戦時中の昭和一七年と終戦直後の昭和二一年の二回実施された。何れの調査でも土層の堆積は明瞭ではないものの、上層から弥生式土器、下層からは縄文式土器が出土し、この地が古くから人々の生活の場であることが明らかになった。
豊氏が注目したのは、縄文式土器と共に出土した「細石器」と呼ばれる小さな石器であった。細石器は、大陸の旧石器時代の末期から新石器時代の初期に見られる特徴的な石器で、棒の先端に彫られた溝に、アスファルトなどの接着剤で埋め込まれ、鑓やナイフとして使用された。
県史跡「宮脇遺跡」
豊元国氏は、この事実をもとに、昭和22年に「日本の細石器文化」なる論文を発表し、日本にも一万年以上前の「旧石器時代」が存在したと主張した。岩宿遺跡の発掘の、2年前のことだ。だが、何故か豊氏のこの論文は学界から黙殺された。一つには、この発掘で出土した細石器が、層位学的にみて明確でなかったことが挙げられる。後世の撹乱によって、細石器は縄文土器と共に出土し、その上下関係が明瞭でなかったからだ。
また、学閥の差も大きかった。岩宿の発見が納豆売りの一青年によるとはいえ、正式の発掘は明治大学の考古学研究室が行なった。それに対して、宮脇遺跡の発掘は、地方の中学校の教師によって実施された。この差は大きい。当時は今とは比較にならないほど中央と地方の格差は大きかった。(田口義之「新びんご今昔物語」)
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福山最古の古墳か、新市町の潮崎山古墳
最近の新聞には発掘や発見などの考古学に関連したニュースが多い。過去からのメッセ−ジにはそれだけ関心が深いということだろう。
これは昔の人も変わらない。古くは『続日本紀』に銅鐸出土の記録がある。備後の人も同じだ。江戸時代後期の文政十(一八二七)年春、芦田郡相方村(現福山市新市町相方)の潮崎神社境内で古墳が発掘され、話題を呼んだ。
潮崎山古墳登り口
「地をならしけるに、其丘に老小松十文字に植えたるようにて、いと古くかせたるあり。是を穿ち捨て地をならしけるに、自然石の長五尺はかり、横三尺余もある岩あり、是をかへしみれば、下は石槨なり。割ままの石を石灰にて詰めたり。其の中に石を置き、石の上に差し渡し八九寸の円鏡あり…」(『西備名区』芦田郡相方村の条)
意味不明の個所もあるが、要するに神社の背後の丘を掘ったら石室が現れ、蓋を開けたら直径二〇センチほどの青銅の鏡が出て来たと言うわけだ。
潮崎山古墳後円部を望む
石塔のあたりから石室が発見された
これが備後南部最古の古墳と言われる新市町の潮崎山古墳発見の経緯である。
現地を訪ねてみると、潮崎山は、芦田川南岸に聳える比高五〇㍍程の円錐形の丘で、山頂に墓地があり、一段低くなったところに潮崎神社の小さな祠が建っている。近年の測量調査で、全長三〇㍍ほどの前方後円墳と考えられているが、埴輪やはっきりした「前方部」はなく、断定は出来ない。
潮崎山古墳前方部
神社の造営で削平されている
潮崎山古墳が備後南部最古の古墳として注目されるのは、文政十年に出土した「円鏡」にある。この円鏡は、永く民家に秘蔵されていたが、村上正名先生が実見され、直径二十二㌢の三角縁神獣鏡であることが確認された。
「三角縁神獣鏡」は謎の鏡だ。前期古墳から大量に出土し、有名な邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚」と言われているが、中国大陸からは、現在まで一枚も出土していない。
潮崎山古墳出土三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡を持つ古墳は、各地で一番古い古墳であることが多い。これが、潮崎山古墳が注目される理由だ。ただし、古墳の立地や内容など考えなければならない点も多い。なぜ、神辺平野西端に築かれたのか…。果たして前方後円墳だったのか、等などである。(田口義之「新びんご今昔物語」)
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尾上古墳
平成十一年六月十九日付の中国新聞は、驚くべき事実を告げた。加茂町粟根で前方後円墳が発見され、数々の貴重な遺物が発見されたと言うのだ。その日、私はさっそく加茂町の現場を訪ねた。現場では、雨の中ブルドーザーがうなりをあげ、古墳を壊している。これが尾上古墳と私の最初で最後の出会いであった。
破壊される尾上古墳 尾上古墳の調査は、福山市教育委員会の手によって、かろうじて実施された。だが、その全貌をつかむことはできなかった。業者の土採り工事によって、古墳の六割が消滅していたからだ。
狭い範囲の調査ながら、成果は予想以上のものだった。墳丘は推定全長六〇メートルで、三段に築造され、それぞれの段には埴輪がめぐり、斜面には葺き石が敷き詰められていた。出土した埴輪は、壷形と円筒埴輪の二種類があり、四世紀か或いは三世紀にさかのぼるものと考えられた。石室や石棺は既に破壊されていたが、撹乱された埋土の中からバラバラに割れた虁鳳鏡が発見された。虁鳳鏡(きほうきょう)は大変珍しい銅鏡で、尾上古墳から出土したものは福岡県の沖ノ島遺跡から発見されたものとほぼ同形であった。
残っていた葺石
尾上古墳の発見は、研究者に衝撃をあたえた。今まで、備後南部には潮崎山古墳以後百年間ほど前方後円墳の築造は途絶えると考えられてきた。古墳時代前期から中期にかけて、この地方は吉備の大首長の支配下にあって、在地の首長は「円墳」や「前方後方墳」に甘んじていた、と考えられていたのだ(註①)。
この古墳の発見は、この通説を見事にぶち壊した。潮崎山古墳の被葬者以後も、備後南部には前方後円墳を築くような有力な豪族が存在したことを立証したのである。
尾上古墳の存在が明らかになったことから、福山地方の古代史は書き換えられた。しかし、その「証拠」尾上古墳は、永久に地上から消滅した。あってはならない出来事であった。尾上古墳は「文化財の保護」という観点からも我々に大きな課題を残した。
(註①)最近の学説では、円墳や方墳・前方後円墳を築いた被葬者は前方後円墳を築いた者よりも地位が低かったと考えられている(都出比呂志「前方後円墳体制」)
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