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神社にある仏像

神石郡神石高原町の上村八幡神社には、今も「阿弥陀堂」があり、阿弥陀如来像が安置されている。
 
「この境内には、他の神社にはあまり例を見ないかつての神仏習合時代をしのぶ仏堂が残されており、その中には容姿端麗の阿弥陀如来立像が一体残されている」として町指定の重文に指定されている。
 
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神仏習合時代の残滓というより、付近にあった仏堂がたまたま神社の境内に取り込まれたに過ぎないと思うのだが…。
 
神仏分離令を免れた例があるのだろうか?
また、この阿弥陀如来の制作年代は…。
 
ご存知の方があれば教えていただきたい。
窪田次郎と小田県蛙鳴群 
 私と窪田次郎の出会いは、30年あまり前にさかのぼる。神辺に光蓮寺という寺があって、ここで彼の書いた「奉矢野権令書」の写しを見たのが始まりである。
 
窪田次郎肖像(広島県立歴史博物館蔵)
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 最初手に取ったときは、正直言ってその価値がわからなかった。「大して古くない文書だな、明治時代のものかな」とただ漠然と思っただけである。その後、窪田次郎のことに関心を持つようになってその価値と、何故神辺の光蓮寺にその写しがあったのかわかるようになった。
 
 「奉矢野権令書」は、明治7年【1874】7月、窪田次郎が時の小田県権令矢野光儀に宛てて「小田県議会」の開催を要請した建白書であり、その開催運動の中心になった「小田県蛙鳴群【あめいぐん】」の学習会の会場が、神辺の光蓮寺であったのだ。
 
蛙鳴群の会場になった神辺光蓮寺
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 窪田次郎は、民主的な議会制度に関しても先覚者であった。明治4年【1871】と言う、全国的に見ても早い時期に、次郎の提唱によって彼の住む粟根村では「民会」が開催され、村の収支決算が討議されている。また、翌年には、「下院議員結構の議案」が彼の手によって書き上げられている。
 
 彼の構想した議会制度は、男女に関わらず「一家に一票」という極めて民主的な選挙で選ばれた議員が、「村会」「郡会」「県会」「国会」の4段階にわたって国政を議すという極めて斬新なもので、その県会開設の要望書が最初に述べた「奉矢野権令書」であったのだ。
 
 「衛生・資産・品性」の獲得こそ人間の人間たる所以と考えた彼にとって、明治新政府の「富国強兵」政策は我慢のならないものであった。彼はその手紙でいっている、「いわゆる富国と申すは、政府に金穀の集まり候者にては決してこれなく、国中皆富候を誠の富国と申し候・・・・」
 
小田県庁の跡(岡山県笠岡市)
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 次郎が明治新政府の政策と真っ向から対立したのは明治6年から始まった「地租改正」である。地租改正は江戸時代までの現物年貢を改め、土地の地価を定め、その3パーセントを税金として徴収しようとした税制改革で、明治大正と多くの農民が小作農に転落して、苦労するもとになった政策である。現物年貢時代は、凶作の場合年貢がある程度減免された、しかし、金納になれば豊凶にかかわらず税金は納めなければならない。日本が近代国家に脱皮するために必要とされた税制改革であったとは言え、これでどれだけの勤勉な農民が呻吟したことか。
 
粟根の窪田邸に建つ供養塔
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 しかし、窪田次郎の地租改正反対闘争は、列強に追いつけ追い越せの富国強兵政策を強行する明治新政府の容れるところではなかった。「錦の御旗」を掲げる政府によって次郎の運動は弾圧され、彼自身も医師の免許を取り上げられ、岡山の偶居で寂しく客死することになるのである。(田口義之「クローズアップ備陽史」)

窪田次郎と啓蒙所

窪田次郎と啓蒙所
 文久2年(1862)、父亮貞の引退によって故郷に帰った次郎は、明治維新を迎えると、堰を切ったように活動を開始した。そのはじめが小学校の前身として知られる「啓蒙所」の開設運動である。
 
彼には独特の信念があった。それは人間が人間らしくあるためには、「衛生」「資産」「品性」の三つが必要であるということである。「衛生」とは、現在で言えば「健康」のことである。医師であった次郎は健康の大切さを痛切に感じていた。そして、その獲得には何よりも「資産」つまり、「お金」が必要であると考えた。
 
窪田次郎肖像
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この辺りがこの時期の思想家として彼独自の考えで、医師を出発点とした窪田次郎らしい思想と言える。では「資産」の獲得には何が必要か。「品性」、すなわち「教育」が必要だと、彼は主張する。ここが儒教イデオロギーのみを教育の目的として主張した前代の儒学者と大いに違う点である。
 
次郎は自らの信念である教育の普及を最初福山藩の藩校である「誠之館」の改革で果たそうとした。しかし、彼の考えは藩当局に容れられなかった。
 
そこで彼が考え出したのが民間で「啓蒙社」を組織し、その資金によって「啓蒙所」を開設しようとする運動であった。彼は言う、「貧富を分たず、男女七歳以上十歳に至る迄尽く此の啓蒙所に入れ、容儀を教え、其才知を実地に培養せば、【略】其中必ず国家有用の材もこれ有るべし、【略】朝に英俊満ち、野に遺材なく、賢者位に有り、能者職に有り、また、何ぞ外侮を患へんや」(啓蒙社大意)、言うまでもなくこれは明治新政府の「国民皆教育」の理念を先取りしたものである。
 
そして、次郎は人々に訴えかけた。「志有る人は、或いは古衣一枚を売り、或いは寝酒一勺を減じ」子弟の教育に当たろうではないかと…。彼の努力は広範な民衆の支持を得て、実を結んでいった。
 
啓蒙所第一号が開設された長尾寺
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明治4年(1871)2月6日、深津郡深津村長尾寺(現福山市西深津町)に最初の啓蒙所が開かれたのを手始めに、各地でその開設が相次ぎ、明治5年(1872)8月3日のいわゆる「学制発布」の時点では、83カ所、通学生5,095人。明治新政府の役人をして、「啓蒙所は文部省も聊か先手をうたれた」とうならせることになるのである。
 
試みに、ご自分の出身小学校の歴史を紐解いて欲しい。昭和四十年代の新設校でなかったなら、例外なく窪田次郎の提唱した「啓蒙所」に突き当たるはずである。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)

窪田次郎の人と生涯

窪田次郎の人と生涯
その生い立ち
 福山を代表する明治の啓蒙思想家窪田次郎は、天保6年(1835)4月24日、備後国安那郡粟根村(現福山市加茂町粟根)で生まれた。今を去ること160年前のことである。父は、蘭方を業とする医師窪田亮貞。幼少の頃、病弱であったという次郎は、この父から大きな影響を受けたようである。
 
窪田邸の石垣
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次郎の父亮貞は、家運の傾いた窪田家に養子として入って家を継いだ人物である。かつては粟根村の庄屋として繁栄していた窪田家は、この頃ほとんど家産を失い、家屋敷を残すのみとなっていた。亮貞はこの窪田家を医師として再興しようとした。そして、その師に選んだのが、当時長崎鳴滝で塾を開いていたドイツ人医師シーボルトである。シーボルトについては、言うまでもないことであるが、日本に初めて体系的な西洋医学を紹介した人物である。その弟子には、後に日本の医学界はおろか、各界で活躍した人物は多い。
 
窪田次郎(広島県立歴史博物館蔵)
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次郎の先見性は、シーボルトの鳴滝塾という、当時日本で唯一開かれていた近代科学の「窓」で学んだ父亮貞の存在が大きいのである。幼少から西洋の学問や思想に触れていた次郎は、少年期から師を求めて各地を遊学している。
 
窪田邸の説明版
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「窪田次郎履歴書」によると、漢学の師は、有名な阪谷朗慮。備中簗瀬の出身で後に井原に興譲館を開いた人物である。近代思想を啓蒙した思想家の最初の師が漢学者というのも妙な話だが、これは当時一般的なことで驚くにあたらない。明治の偉大な思想家は、皆有名な漢学者について学問を始めており、かつ、当時西洋の書物は皆漢文に翻訳されて日本に紹介されており、漢学の素養が無ければ西洋の学問に触れるのはほとんど不可能であったためだ。
 
窪田邸の築山
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蘭方医学の方は、初め同じく備中簗瀬の山成好斎に学ぴ、後には京都・大阪方面に遊学して、有名な緒方洪庵門下の俊才、緒方郁蔵・赤沢寛輔・村上代三郎といった著名な蘭学者について修行、大いに見聞を広めている。緒方洪庵については、シーボルトの鳴滝塾同様、言うまでもないであろう。彼の開いた適塾からは、福沢諭吉・大村益次郎を始め、後の日本を背負って立った人物を輩出した所である。
 
窪田邸の土蔵
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窪田次郎は、後年、その履歴書のなかで、「都合八年五ケ月間医術に従事すといえども、数々窮乏を以て研究の時間は僅々五分の一に足らず」と言って謙遜しているが、彼の思想を理解するためには、次郎が適塾の流れを汲む人物について、西洋の学問・思想を学んだことを忘れてはならない。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)
青年の父、山本滝之助(2)
 彼の生家は、沼隈町の中心からやや東北に入った谷あいに、今も往事そのままの姿を残している。ごく一般の農家の作りで、正面に母屋があり、向かって右手に納屋、周囲は生け垣に囲まれ、簡素な門がしつらえてある。山本滝之助はこの家で維新間もない明治6年【1873】11月15日、孫次郎・サタ夫妻の長男として生まれた。
 
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今も残る滝之助の生家
 
 明治19年、14歳で村の小学校を卒業した彼に最初の試練が訪れる。言わずと知れた「進学問題」だ。向学心に燃える滝之助は熱心に進学を希望する。だが父は許さない。結局彼は郷里に残り戸長役場に就職することとなった。
 
 向上心に燃える青年にとって「田舎」の現実は目を背けたくなるようなものであった。村の青年達は小学校を卒業すると「若連中」と言うグループに入り、喫煙や夜遊び等の悪習に耽り、先の希望のない怠惰な生活を送っているではないか。彼はまずこの現実から逃避を考えた。丁度このころ「戸長役場」が廃止され【明治22年】、失職した滝之助はこれを機会に改めて上京し勉学の志を遂げようとしたのだ。だが孝行息子であった滝之助はどうしても両親を残して上京する決心が付かず断念。同年10月、沼隈郡第十四小学校(現千年小学校)の教師に就任、この現実に立ち向かうこととなった。
 
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滝之助の書
「一歩退いて人を待ち、一歩進んで以って事にあたる」
 
 彼の手段は、まず徹底的に討論することであった。「自分達はこれでいいのか」、『好友会』という青年達のグループを組織した滝之助は、村の若者達と膝詰めで話し合うことから始めた。
 
 身近な問題を話し合う中で、運動は次第に形を整えていった。明治27年には、「若連中」の改善はまず少年からと、尋常小学校の卒業生を中心として「千年村少年会」を結成、同36年には「千年青年会」を組織し、ここに日本青年団運動は滝之助の首唱のもと、沼隈地方で最初の産声をあげたのである。
 
 滝之助の活動は全国に大きな波紋を投げかけた。青年の生活改善、修養を目指して、全国各地で青年団、青年会の結成が相次ぎ、滝之助の運動は大きな盛り上がりを見せ、ついには大日本連合青年団の結成、財団法人日本青年館の建設へと突き進んで行くことになるのだ。滝之助が「青年の父」と呼ばれる所以である。
 
 ただ、彼の運動は当時の国策に利用された面もないとは言えない。大正デモクラシー以後、日本は急速に右傾化し、大陸に帝国主義の矛先を向けていく。青年団運動も昭和に入ると、ご承知の通り軍隊の予備軍的存在と化していった。
 
 だが、滝之助の思想自体は後の軍国主義とは無縁のものである。彼は純粋に農村青年の救済を考えた。それは青年団の活動が一番盛りを見せたのは戦後のことであったことを見ればよくわかる。昭和6年、59歳で亡くなった滝之助は自ら育てた青年達が戦場で散っていくのを見ることはなかった。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)

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