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義昭余話
義昭という人は、ドラマなどではお公家顔をした情けない人物、と描かれることが多い。が、残された史料から見ると、義昭の実像は、そんなものではない。なかなかどうして、現実的な乱世の武将である。
津之郷町の「御殿山」
福山とのかかわりで言うと、「料所」の問題がある。料所とは将軍の直轄領の事で、江戸時代の「天領」にあたる。なぜ、このことが問題になるかというと、備後に「動座」した義昭は、毛利氏に料所の進上を強く要求、実現させているからだ。
全く実力を持たなかった義昭は、それを「征夷大将軍」という権威のみで押し通した。
足利義昭御内書(常国寺文書)
「態と染筆候、当所(鞆)にながながと逗留候、余りに窮屈に候、然らば津郷(津之郷)然るべきの由に候の条、彼の地に至り移座したく候、きっと輝元に対し意見加うべし…」(吉川元春宛義昭御内書)
「輝元に対し、御座所の儀仰せ出され候条、この節津郷儀、ご進上候様、申し達せらるべきの段、尤も御祝着たるべく候、よって御内書をなされ候、誠に御面目の至り…」(三浦元忠宛真木島昭光添状)
いずれも、将軍たる自分に忠節を尽くし、奉公することは名誉なことで、料所の進上も当然とする高飛車なものだ。受け取った輝元や元春がどんな顔をしたか、困惑の表情が目に浮かぶようである。
足利義昭所用の肩衣(常国寺蔵)
義昭は将軍の権威を振りかざすだけでなく、料所の獲得には異常なほど執念を燃やした。義昭が長和(瀬戸町)を料所として要求した際の話である。義昭の使者として輝元の下を訪れた小林家孝は、「この段すます候はば罷り戻らず(要求を受け入れてくれるまでは帰らない)」などと、喧嘩腰で言い張り、遂に「長和二百貫」の進上を認めさせている(譜録二宮太郎右衛門)。
『信長公記』によると、信長は、義昭が蓄財ばかりに熱心な「悪将軍」だと弾劾したとあるが、或いは、それは義昭の一面を正確に言い当てたものであったかもしれない。
津之郷、長和が将軍義昭の「料所」であったことは、地元に残された資料からも確認できる。
江戸時代の中ごろ水野氏の遺臣によって編纂された最も古い郷土史書である『水野記』によると、津之郷の田辺寺、和光寺、艮神社は義昭から寺社領の寄進を受けたとされ、長和の福井八幡神社(瀬戸町)も天正年間、義昭が再興し、社領を寄進したと伝える。
義昭を」祀る三島(そうどう)神社
(福山市津之郷町)
この義昭の「料所」は、義昭が帰京した後も維持され、天正十九年(一五九一)の、『毛利家八ヶ国御配置絵図』備後国にも、沼隈郡のところに、「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が黒々と記入されている。
福山市内にあるはずが無いとされ、「誤伝」と切り捨てられる義昭の石塔(赤坂町のイコーカ山や、熊野町常国寺の裏山に残っている)も、こうした事実を検証していくと、決して架空のものではない。料所管理のために、備後に在国した義昭の奉公衆(家臣)が、主君の菩提を弔うために建立した可能性もあるのである。(大陽新聞連載「新びんご今昔物語」より)
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備後の人物と史跡
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足利義満と尾道
足利三代将軍義満も、備後に足跡を残した人物の一人です。
足利義満といえば、テレビアニメの「一休さん」で、いつも一休さんのとんちに負ける
間の抜けた将軍さんとして知られていますが、歴史上の人物としても、室町幕府の黄金時代を築いた将軍として有名な人物です。
足利義満像(京都・等持院蔵)
この義満が備後に来たのは康応元年(一三八九)三月、彼が三十二歳の時です。
義満は、十二歳で将軍職を継ぎましたが、当時はまだ南北朝の内乱の最中で、室町幕府の力は弱いものでした。その原因は色いろありましたが、一つには、諸国に割拠した有力大名が幕府に従順でなかったためです。特に、山陰を中心に勢力を持った山名氏の存在は、義満の頭痛の種でした。山名氏は、備後を含めて、十一カ国の守護職を独占し、将軍の命令を無視しがちだったのです。
将軍就任以来、二十年間、幕府の基礎を固めることに専念してきた義満は、この年、厳
島神社に参詣することを名目にして、山名氏に村する一大示威行動を試みました。
数百隻の大船団は、山名氏の割拠する備後の沖合を、西へ悠々と進んで行きます。
三月十日、厳島神社に参詣した義満の一行は、さらに西進し、周防(山口県)の大名大
内氏の歓迎を受けます。
ちょうどこの時です。備後から山名時煕が駆けつけ、「父時義が病気のため、お迎えで
きませんでしたが、帰りにはぜひ尾道にお立ち寄り下さい」と、義満に言上したのは。
義満の無言の圧力に、山名氏は遂に頭を下げたのです。義満は内心、ほつとしたことで
しょう。
義満は、山名氏の要請を容れ、帰路、三月二十一日、尾道に寄港しました。
義満が宿所とした尾道天寧寺の三重塔(当時は五重)
山名氏は一族を挙げて、義満を歓待しました。義満の御座船から宿所となった天寧寺ま
での間には「浮橋」をかけ、莫大な財宝を献上して、義満の機嫌を取っています。
しかし、義満は、山名氏を許しませんでした。翌々明徳二年(一三九一)、山名一族の
内紛に乗じた義満は、京都内野の合戦で山名氏を倒し、さらに明徳三年(一三九二)南北
朝の合体を実現し、祖父尊氏、父義詮の果たしえなかった夢、天下統一を実現するのです。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊)
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父子相剋 運命の人足利直冬と備後
足利尊氏の庶長子直冬は生まれながらに影を背負った人でした。遊女を母としたため父
尊氏に長く認知されず、見かねた叔父直義が自分の養子とし、晴れて足利を名乗ることを
許されたのです。
しかし、運命は過酷でした。足利幕府の武将として大道をかっ歩したのもつかの間、養
父直義と実父尊氏の争いに巻き込まれた彼は、遂に実の父に戦いをいどむことになるので
す。(これを観応の擾乱といいます)
この直冬が備後に来たのは貞和五年(1349)四月のこと。このころすでに尊氏と直義の村立は抜きさしならぬところまで来ており、表向きは「中国探題」としての赴任でしたが、内実は直義の密命で地盤固めにやってきたに違いなく、京都で「観応の擾乱」が勃発すると、さっそく直冬にも実父尊氏の魔の手が延びてきます。
直冬が拠った鞆大可島
備後での直冬は鞆の大可島に本拠を置いていましたが、尊氏の執事高師直の命を受けた備後の武士杉原又四郎は、同年九月、二百余騎の手勢を率いて大可島を急襲、直冬は間一髪で逃れ、九州の味方を頼って落ち延びて行きました。貞和五年九月十三日のことです(「太平記」巻二十七。)
直冬はこの後、勢力を盛り返し、実父尊氏と血みどろの闘いを繰り広げることになりま
すが、『太平記』が伝えるように、直冬の心の中には常に父尊氏に対する「あこがれ」があ
り、最後の一線をどうしても踏み越えることが出来ず、これが彼の弱点として、遂には敗
者としての道を歩んで行くのです。
直冬が最後の光芒を見せたのは貞治元年(三一六二)のこと。ところも同じ備後でした。
この年、彼は石見(島根県)で再起をはかり、大軍を備後に進めました。
宮入道が拠った亀寿山城址
しかし、ここでも一人の備後武士が直冬の前に立ちはだかります。福山市新市町の亀
寿山城に拠った宮下野人道々山です。
宮入道は、直冬の来攻をうけても、「もし直冬殿が一人でこの入道に助けを求めて来ら
れるならばご助力もしようが、多くの味方を率いてこの入道を攻められるとはもってのほ
か、存分にお相手致そう」とうそぶき、最後には宮内に陣した直冬の軍勢に猛攻を加え、
彼を備後から追っ払ってしまうのです。時に貞治二年九月のことでした。
その後、直冬は身の置きどころを失ったのでしょうか。消息は不明です。
直冬の最後の「壁」となつた亀寿山城址は、今も福塩線新市駅の北に黒々とそびえていま
亀寿山城址に残る柱穴 す。山上には建物の柱穴をども残り、往時をしのばせてくれます。
(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊) |
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尊氏と尾道浄土寺
「足利氏鞆に興り鞆に亡ぶ」の鞆に興った理由をお話しましたが、もう少し詳しく、尊
氏の備後地方に残した足跡を探ってみましょう。
鞆とならんで有名なのが、尾道浄土寺と尊氏の関係です。
建武三年五月、上洛を目指した尊氏は、まず尾道に到着、浄土寺で法楽の和歌会を催しています。 法楽の和歌会とは、観音経にちなんだ和歌を詠み、前途の幸運を祈ったものです。「陣中閑あり」と申せましょうか、これから天下取りの大博打を打とうという尊氏の人物の大きさを彷彿とさせてくれる出来事です。
尊氏が浄土寺に立ち寄ったのはこの時だけですが、よほど感銘が深かったようで、将軍となってからも所領を寄進するなどして手厚く保護しています。また、この後、尊氏は元弘以来の戦死者を供養するため、諸国に安国寺、利生塔を建立していますが、備後では鞆に安国寺が置かれたのに対し、利生塔は浄土寺に建立されています。これなども尊氏の浄土寺に寄せる信仰心の厚さを物語るものでしょう。
浄土寺山門に刻まれた足利氏の家紋
かつて尊氏の末裔足利淳氏さん(故人)は、尾道浄土寺を訪れた時、山門に刻まれた足 利氏の紋章を見て、思わず目頭が熱くなったそうです。
戦前、尊氏は逆賊中の逆賊として、子供達まで彼をはづかしめることが国民の義務だと
教えられたものでした。
その逆境の時代でも足利氏の家紋を削らなかった浄土寺、淳氏さんならずとも、六百年
の歳月を越えた両者の結びつきの探さには感動を覚えます。
鞆安国寺釈迦堂
浄土寺に建立された利生塔は、その後の戦乱で亡んでしまいましたが、鞆の安国寺は現
在も国の重要文化財に指定されて残っています。もっとも重文の釈迦堂は、鎌倉時代の創
建で、尊氏が建立したものではありませんが、それにしても尊氏の手厚い保護がなければ
現在まで残ったかどうか。
逆賊から英雄へと、尊氏像は昭和二十年を境に一変しました。しかし、現在でも戦前の
逆賊観が残っているのでしょう、尊氏の遺跡はどこもあまり脚光を浴びません。
福山はいわば、尊氏にとって開運の地、地元の我々はもっと尊氏に関心を持つべきでは
ないでしょうか。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊) |
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「足利尊氏と備後」(1) 足利氏、鞆に起る
建武三年(一三三六)五月五日の夕方、鞆の港は、続々と入港してくる軍船でごったが
えしていました。一度は敗れ、九州まで落ちのびた足利尊氏が、再び大軍を率いて攻め上がって来たのです。
足利尊氏(京都・等持院)
鞆に着いた足利軍は、ここで軍を陸海二手に分け、海上は尊氏自ら将となって兵庫湊川
を目指し、陸上は、尊氏の弟直義を大将として、山陽道を、京を目指しました。
話は、三カ月前に逆上ります。鎌倉から攻め上って一度は京を制した足利軍でしたが、奥州から上洛してきた北畠軍と戦って敗れてしまい、軍をまとめて、九州へ落ちのびることとなりました。足利軍には、「名分」(錦の御旗)がなく、後醍醐天皇に弓を引くことが、将兵にとっては大きな負い目となり、意気が上がらなかったためです。
尊氏も同様でした。源氏の名門に生まれた彼にとって、朝敵の汚名だけは何としても避けたかったのです。そこで彼の取った戦略が、戦いを天皇と天皇の戦いとすることでした。
「天皇と天皇の戦い?」、というと奇妙に感じられるかも知れませんが、このころ天皇家は、御醍醐天皇の大覚寺統と、光厳上皇の持明院統の二つに分裂していて、尊氏は、持明院統の光厳上皇を奉ずることによって天下を取る名分にしようとしたのです。
鞆大可島城址
光厳上皇側も、ライバルの後醍醐天皇に押さえられていた時なので、尊氏の要請に渡り
に船と飛び乗り、「諸国の朝敵を退治すべし」という院宣(命令)を尊氏の密使三宝院賢俊
に渡しました。賢俊は、北畠軍や新田軍の充満する敵地を命がけで突破し、当時、鞆にい
た尊氏のもとに光厳上皇の院宣をもたらしました。
時に、建武三年二月十五日のこと。
錦の御旗を得た足利軍の意気は大いに上がりました。尊氏もさっそく、「新院(光厳上
皇)の御気色により、鎮西に発向候なり」と、九州の味方に手紙を送り、錦旗を得たこと
を誇示しています。
意気上がった足利軍は、九州多々良浜の合戦で、菊池の大軍を破ると、またたく間に九
州を平定、はじめに述べたように三カ月後には再び鞆に集結、天下取りの軍を進めるのです。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊) |







