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元弘の変と備後桜山入道
福山市の北西、芦品郡新市町宮内に「桜山城跡」と呼ばれる低い丘があります。
丘の上に立つと北に備後一宮として崇敬された吉備津神社が指呼の間に望まれ、西側は切通しをへて急峻な吉備津神社裏山に続いています。ふと足元を見ますと、赤い素焼の破片が散らばっています。城があったころの生活の名残でしょうか、土をはらうと黒いススがついています。
この城が史上に現れるのは今から六百年前の鎌倉時代も末のこと。当時この附近に勢力をもっていた桜山四郎入道が、「元弘の変」に際してこの地に挙兵した時のことです。
桜山城址
元弘元年(一三三一)八月、後醍醐天皇は京都南郊の笠置山に脱出、鎌倉幕府打倒の兵を募ります。(元弘の変)。
この時、天皇の召に応じて兵を挙げたのが、河内赤坂城に拠った楠木正成であり、わが備後の桜山四郎入道でした。
『太平記』は言います。
「備後国より早馬到来して桜山四郎入道、同一族等御所方に参て旗を揚、当国の二呂を城郭として楯籠る間、近国の逆徒等少々馳加り、其勢既七百余騎」と。
もちろん、ここで「城郭」とあるのが桜山城のことです。
鎌倉幕府のあわてふためく様が目に浮かびますが、残念ながら桜山一族の挙兵は時期早
尚でした。間もなく後醍醐天皇はとらえられ、楠木正成の赤坂城も関東の大軍の前にあえなく落城したのです。
元々寄り合い所帯だったのか桜山四郎人道の軍勢はたちまち離散し、入道も今はこれま
でと、吉備津神社に火をかけ、紅蓮の炎の中最愛の妻子ともども切腹して果てました。
時に元弘二年(一三三二)正月二十一日のことと伝わっています。
今残る吉備津神社の社殿は、江戸時代初期、福山藩主水野氏の手によって再建されたも
のです。『太平記』によりますと、入道は吉備津神社の再建を悲願とし、自分の手で焼けば、必ず後の人が再建してくれるだろうと火をかけて果てたとのこと、彼も以って瞑すべきでしょう。
桜山四郎入道木像(新市町中興寺)
南北朝内乱のさきがけをなした桜山入道ですが、その正体ははつきりとしません。一説
には備後の雄族宮氏の一族で桜山城に住んだため「桜山」を名乗ったといいますがいかが
でしょうか。
吉備津神社に歩を進めてみましょう。大駐車場の反対側に敷地の割りには小さな社殿が
見えます。これが桜山四郎入道を祭る「桜山神社」です。
南朝忠臣から無視同然、敗戦をはさんで一変した彼に対する評価ですが、もうこの辺り
で落ち着かせてあげては、と思うのは私だけでしょうか。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊) |
備後の人物と史跡
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福山の地頭 長和荘の長井一族
福山市街地の西郊、瀬戸町は奇妙な町です。のどかな田園風景が広がっているかと思え
ば、突然目の前に近代的な団地が現れる。古い日本と新しい日本が雑居している町、と言
えましょう。
しかし、瀬戸町の歴史は古く、福山市では最も早く史料に出てくる町の一つです。
瀬戸町が歴史に顔をのぞかせるのは鎌倉時代のこと、町内の大字名として名を残す「長和荘」としてでした。
瀬戸町長和の的場山城址
長和荘は、現在の瀬戸町から佐波、草戸町、さらには水呑、田尻町までを含んだ相当広大な荘園で、有名な「草戸千軒町遺跡」は、この荘園の市場町として発展したものと言えばうなずかれる方も多いと思います。
そして、鎌倉時代、この荘園の地頭に任命されたのが長井一族でした。
長井氏というのは、鎌倉幕府の創設に大きな功績のあった大江広元の子孫にあたり、貞応二年(一二二三) 広元の次男長井時広が備後の守護に任命され、その子孫が備後に入ってきて各地の地頭となったものです。
長和荘の地頭として名が見えるのは、時広の子泰経、および孫の頼秀、重広の子孫たち
です。特に頼秀の系統と、重広の系続は備後に土着して勢力を持ち、頼秀の子孫は「福原
氏」として、重広の子孫は「田総氏」として永く栄えました。また、時広の子泰経は「長和」を名字としたと伝わり、自ら荘園に乗り込んで在地の支配にあたったものと想像されます。
今はもう忘れ去られた長井一族ですが、意外なところに影を落としています。
また、国宝の寺と呼ばれる草戸明王院も長井一族の援助があったからこそ、あんな立派
な塔が建ったのだと言われますし、日本のポンペイ「草戸千軒」も長井一族の保護下に栄
えたのだという人もいます。
長井一族のように、今は忘れられた人物は多いはず。私の人物発掘はまだまだ続きます。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊)
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和智氏と『とはずがたり』
鎌倉時代も終わりに近い嘉元元年(一三〇三)の冬、備後国三谷郡和智庄(三次市和知町)の和智氏の館に一人の貴婦人が滞在していました。
貴婦人の名は「二条」、京都の公家中院雅忠の娘で、宮廷の才女として数々の浮名を流し、後に中世女流文学の傑作『とはずがたり』の作者として有名になつた女性です。
二条が備後にやってきたのは偶然と言ってよいでしょう。
彼女は、厳島参詣の帰途、船中でたまたま備後和智氏の妻女と知り合い、誘われるままに奥備後まで足をのばしたのです。
三次市和知町の館跡
京下りの貴婦人ということで和智館では下にも置かぬもてなしでしたが、彼女が和智氏の兄江田氏の妻に誘われて西隣りの江田庄(三次市向江田町)の江田館に赴くと、事件が起こりました。
和智氏は二条のことを「年来の下人」と呼び、「また兄貴のやつに俺の下人をかどわかされた、殺してやる」と激怒し、今にも江田館を襲撃しようかという剣幕になったのです。
ただちょっと自分の館に滞在しただけの二条を「年来の下人」と呼ぶのもひどい話ですが、自分のことが原因で兄弟げんかが始まったことに二条もさぞ驚いたことでしょう。
二条ば、江田氏の妻が「ほっとけばいいわよ」と言うのでしばらく江田館に滞在しました。
「もう京都には帰れないかしら」と思ったかどうか。さいわい翌年春、二条の知人で和智、江田兄弟の本家にあたる広沢入道が備後に来て、兄弟げんかの仲裁をしてくれ、無事京都に戻ることが出来ました。
和智氏実肖像(三次市大慈寺蔵)
たぶん、和智兄弟は何とか二条を自分のものにしようと強引な手段を取ったものでしょう。二条の目に映った彼らの生活は、京都の女から見れば荒々しく粗暴なものでした。
『とはずがたり』によりますと、和智館の主人は、気に入らなければ「下人を打ち苛む」暴君のような人物で「狩りとて獣もてくる悪業深重な武士」だったそうですが、それもそのはず、彼は元々荒々しいことで有名な「東国武士」だったのです。
鎌倉幕府は、東国武士を全国の守護地頭に派遣しましたが、和智氏もその一人、備後国三谷郡の地頭に任命された広沢氏(本拠は武蔵国)の一族。和知庄に土着したため「和智氏」を称したものです。
二条が滞在したであろう和智館の跡は、国道一人三号線によって分断されてしまいましたが、今も三次市和智町にこんもりとした丘として残っています。
ここでどんなドラマが展開されたのでしょうか…。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊)
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後鳥羽伝説―承久の乱と備後
後鳥羽上皇といえば『承久の乱』が思い出されます。
承久の乱は、一二二一年、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府との間に起こつた戦乱で、政治の実
権を幕府の手から取り戻そうとした念願もむなしく、上皇の軍勢は破れ去り、上皇は隠岐
へ流されてしまいました。
上皇が一冬過ごしたという高野町の功徳寺
「備後と関わり(ゆかり)のある歴史人物」というのが私に課せられたテーマですが、
いつも、その関わりのあり方について考えさせられてしまいます。
例えば、今回取り上げた後鳥羽上皇。承久の乱の立役者であった上皇は、二つの意味で、備後地方に関わりをもっています。
一つは、承久の乱の結果、鎌倉幕府の勢力が拡大し、備後地方にも新しく地頭が任命され、彼等が地方政治の主役になっていくことです。
もう一つは、後鳥羽上皇伝説とも呼ばれますが、上皇が隠岐に流される途中、備後を通過されたという伝承です。
この場合、政治家後鳥羽上皇としてではなく、流人後鳥羽上皇として備後に足跡を残された、ということになります。
考えてみますと、日本歴史に大きな足跡を残した政治的、文化的な巨人たちは、備後に
来た、来ないは別にして、いずれも私たちの郷土の歴史に大きな影響を与えています。
つまり、備後ゆかりの歴史上の人物という場合、。二通りの考え方があるということです。
このシリーズでは、一応「実際に備後に足跡を残した人物」という意味で人物を連載し
ているのですが、もう一つの関わり方も、歴史を読まれる場合、ぜひ念頭に置いてもらい
たいと思います。
上皇が立ち寄られたという王居神社
さて、後鳥羽上皇伝説ですが、古書によりますと、京都を出発された上皇は、警護の武
士に守られながら、船で竹原市忠海(三原市糸崎町ともいう)に上陸され、三次市吉舎町
を通って庄原市に出、同市高野町でひと冬過ごされ、ここから出雲に入り、隠岐に渡ら
れたといいます。
吉舎の地名は、上皇がこの地に宿られた時、「吉き舎かな」と言われたことから地名と
なったといいますし、高野町には御所の跡と伝わる地も残っています。
史実は、岡山県北部を通って隠岐に向かわれたことになっていますが、真実はどちらで
しょうか。真相はえてして伝説の中にあるといいますが…。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊より) |
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天明の大一揆と才人遠藤弁蔵
彼の墓石を探すのはこれで二度目です。
一度目は墓地に直行せずお寺の庫裏を尋ね、「わかりません」とのご返事であっさり引
き返したのですが、今度は改めて資料を確認のうえ、思い切って墓地に歩をすすめてみました。
山の斜面の墓地を徘徊すること約十五分、上から下へ、下から上へ、「確か○○家の墓石近くにあるはずだが」と探してみると、ありました。
そこは墓地の中程の西のきわで、墓石は高さ約一メートル、正面に「自信院本応帰源居士」と刻んであります。
龍興寺の墓地にある遠藤弁蔵の墓石
お寺の名は北吉津町の竜輿寺。墓石の主は遠藤本政。あの全国的にも有名な天明六、七年(1786・1787)の「福山藩天明の一揆」の元凶とされ、全責任を負わされて悲惨な末路を遂げた遠藤弁蔵その人です。
彼の一生を回顧みる時、彼もまた封建社会の犠牲者の一人に過ぎないことが痛感されま
す。
弁蔵は福山藩の下級武士切米十石取りの遠藤元右ヱ門の子として生まれました。その抜群の才能はやがて藩主阿部正倫の認めるところとなり、異例の出世を遂げます。しかし、
彼の「出世欲」は藩主ばかりに目を向けたもの。それがかえって「天明の大一揆」を誘発
し、自分の身を滅ぼすことになったのです。
藩主が弁蔵に期待したのは彼の財政手腕でした。藩財政は大きく傾いており、藩は借金によってようやく成り立っている状態でした。また、藩主正倫は阿部歴代の願望である「老中」就任を熱望しており、そのための政治資金はいくらあっても足りない状態でした。
弁蔵は天明三年(一七八三)、勝手向取締役という藩の大蔵大臣に就任、主君のため、
自分の出世のため、あらゆる名目の新税を設け、金を集めようとしました。
これでは農民たちはたまったものではありません。時あたかも「天明の大飢饉」の真最
中です。
弁蔵の苛政に農民は立ち止がりました。天明六年十二月十六日の夜半、遂に一揆の早鐘
は福山地方にひびきわたったのです。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊より) |







