|
古代女性の願い 蔵王町宮の前廃寺と文字瓦
福山市蔵王町といえば、かつては郊外の田園地帯としてのどかな風景が広がっていまし
たが、近年は急速な都市化によって変貌いちじるしいところです。
こんなところにも、”おや〟と思うような史跡が残っています。深津の随道を抜け、国道一入二号線を北に向かいますと、山陽自動車道〝福山東インター“の手前右に、こんもりと
した丘が見えて来ます。
宮の前廃寺跡「塔跡」
周囲の現代的な景観の中で、とり残されたようなこの丘に、千二百年前の奈良時代、宋ぬりの柱も美しい五重の塔がそびえていたことを誰が想像したでしょうか。
この丘にはいつのころよりか八幡神社が建立され村の鎮守として人々に親しまれてきましたが、かつてこの地に壮麗な古代寺院が存在したことがわかったのは昭和二十五年
のことです。
同 金堂跡
以前より、神社の境内から古瓦が出土し、古代寺院の存在が予想されていたのですが、この年、村上正名先生を中心とした調査団が組織され、向かって右に五重の塔、左に金堂が配置された〝法起寺式″プランの古代寺院であったことが明らかにされたのです。出土瓦からこの寺は七世紀末から九世紀ごろまで栄え、土地の伝承に因んで”海蔵寺址″、あるいは地名を取って〝宮の前廃寺〟と命名されました。
この発掘で、一つの貴重な発見がありました。
〝紀臣和古女〟”紀臣石女“と刻まれた古瓦が見つかったのです。名前から推定します
と、この文字瓦の主は古代の身分ある女性と想像されます。
はるか千余年の歳月をへて突然地上に姿を現した古代寺院。地中から現代の私たちに語
りかけてくれた古代の女たち。 ま
宮の前廃寺跡「塔中心礎石」
私は春の一目、宮の前廃寺の塔跡に立ち、はるかなる古代に想いを馳せてみました。
丘の前面には、穏やかな入海が広がり、振り返れば緑の木立の中、寺院の建築が進んで
います。
真新しい木の香と騒々しい吼噺の中、二人の若い女性が家人に寄進の瓦を持たせ、坂道
を登って来ます。二人の顔は人々の視線をあびて何かはじかんでいるように見えます。
彼女たちはこの瓦に何を託そうとしたのでしょうか…。
〝みちのしり、深津島山しまくしも、君が目見ずば苦ししかりけり“
『万葉集』に収められたこの恋の歌は、もしかして彼女たちに向けられたものでは…。
ふと我に帰ると、周囲は自動車の騒音もかまびすしい現代。
残念ながら夢の中でも、彼女たちの面影はぼんやりとしたままでした。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊より) |
備後の人物と史跡
[ リスト | 詳細 ]
|
古代人の祈り 三次市寺町廃寺と三谷郡の大領の先祖
戦乱はいつの世でも人々をほんろうします。古代備後北部の豪族、三谷郡の大領の先祖もそうでした。
三次市寺町の景観
三谷郡とは、現在の三次市の東南部を領域としたかつての郡で、後に三次
郡と合併し双三郡となり、さらに平成の大合併で三次市となりました。
大領とは、郡の長官、現在でいえば、さしあたり市長さんといったところでしょうか。
時は、西暦662年のこと、朝鮮半島から日本列島にかけては、黒い戦雲におおわれていました。当時朝鮮半島に存在した新羅国が、大陸の新興帝国〝唐“と結んで、同じく朝鮮半島に栄えた百済国を攻撃、百済の要請をいれた日本の天智天皇は、全国に動員令を発し、朝鮮半島に出兵、百済を救援しょうとしたのです。
これが有名な〝白村江の戦い〟の起こりで、この時、渡海した日本軍の中に名は伝わっていませんが、三谷郡の大領の先祖もいたのです。
寺町廃寺跡
郡の大領は、かつての国造級の地方豪族が任ぜられるのがきまりでしたから、彼も三谷郡の豪族として、在地では人々の間に君臨する王者だったのでしょう。
しかし、彼も人の子、戦陣に向かう身として、前途の幸運を祈らずにはいられませんでした。
彼は当時ようやく地方に波及してきた仏教の信者の一人として、戦いを前にしたある日、
仏様の前にぬかずきました。
「もし生きて再び故郷の地を踏むことができましたら、あなたのために寺院を建立しま
しょう。」‘
戦いは、残念ながら日本軍の大敗に終わりました。663年8月、朝鮮半島南部の白村
江で唐、新羅の連合軍に決戦をいどんだ日本軍は、
「須臾の際に官軍敗績し、水に赴きて溺死する者多し(日本書紀)」
と伝えられるような大敗北を喫し、生き残った者は生命からがら日本に逃げ帰ったのでし
た。もちろん、日本と永く同盟関係にあった百済は滅亡し、日本は半島の足場を失いました。
「煙と炎天に漲り、海水赤し」と伝えられたこの戦いの中、三谷郡の大領の先祖は幸い
生命を全うして故郷に帰ることができました。
寺町廃寺の塔中心礎石
彼が身の幸運を仏様に感謝したことはいうまでもありません。彼は誓約通り、故郷に三 谷寺と呼ばれる立派皇寸院を建立しました。(日本霊異記による)
時は移り、千三百年後の昭和54年、彼の建立した三谷寺の跡は、発掘によって私たちの前に姿を現しました。
「寺町廃寺」と呼ばれる三谷寺の跡は、今も三次市向江田町寺町の田跡の下に静かに眠っています。古代人の祈りとともに…。(田口義之「備後ゆかりの歴史人物伝」福山リビング新聞社刊)
|
|
小早川隆景【前編】
毛利の両川【りょうせん】
毛利元就の「三矢の教え」はサッカーの「サンフレッチェ」の名の由来になったことでも有名だが、最近では中国の故事を元にした作り話とする説が有力である。しかし、元就が3人の息子に一致団結を説いたことは事実で、現に3人の息子に宛てた長文の「三子教訓状」が現存している。確かに、一時期戦国最強を誇った毛利軍団の強さの秘密は元就の息子達の「団結」にあった。毛利本家を中心にして吉川元春【元就の次男】が山陰方面の前線司令官となり、小早川隆景が山陽方面の前線司令官となり、中国地方を支配したのだ。これが有名な「毛利の両川」である。 吉田郡山城跡に建つ「百万一心」の碑
徳寿丸と呼ばれた少年時代
三原城を築いたことで知られる小早川隆景は、天文2年【1533】、毛利元就の3男として、安芸高田郡の吉田郡山城内で生まれた。母は吉川国経の娘妙玖夫人である。他の群雄と比べてみると織田信長より1歳、秀吉より3歳年上のお兄さんということになる。少年時代の逸話としては雪合戦で策略を用いて兄の元春を負かしたことが知られている。とにかく兄たちと比べて利発な子供であったようだ。 毛利氏の居城「郡山城跡」
安芸の名門小早川家の養子となる
この徳寿丸が「小早川隆景」となったのは、父元就の政略で小早川家の養子となった為である。初めに入ったのは小早川家の分家の竹原の小早川氏である。竹原小早川氏の当主興景は天文10年、陣中で病死し、跡継ぎが居なかった。その妻が元就の姪であったため、望まれて竹原の小早川家を嗣いだ。そして、続けて本家の当主正平が戦死し、その子が失明したため、望まれて本家の高山城に入った。小早川隆景の誕生である。しかし、その陰には元就の陰謀があった。隆景が高山城に入った直後に、反対派が粛正されているのである。(田口義之「備後歴史人物伝」より) 小早川氏の居城「高山城跡」
|
|
謎の巨城「青ヶ城」と皆内出雲守
謎の巨城
郷分に青ヶ城と呼ばれる中世の山城跡がある。山陽自動車道を広島方面へ向かって行くと、芦田川を渡って直ぐトンネルに入るが、その上の山と言えばご存じの方も多いだろう。この山に巨大な中世の山城跡が眠っていることが判明したのはつい最近のことだ。以前からこの山に山城が存在したことは知られていたが、記録もなく、たいした遺跡は残っていないと思われていた(その証拠に最近出た県教委の報告には「遺跡不明」と記してある)。ところが、探訪の会で2年前に出した「山城探訪」出版のためにこの山を訪れてみると、そこには福山周辺では屈指の立派な山城の遺跡が存在していたのだ。それも半端な城跡ではない、東西400メートル、南北200メートルに渡って曲輪や空堀の跡が残っていたのだ。 芦田川の河原から望む青ヶ城山
城主皆内出雲守【かいちいずものかみ】の素性
この城について書かれた文献を紐解くと、城主として「皆内出雲守」の名が挙げられている。一説に出雲守はもと神辺町下竹田の「大内山城」の城主で、大内氏の郡代として郷分に青ヶ城を築いたと言う。しかし、その名は一級の歴史史料には一切現れず、その伝えがどこまで真実を伝えたものなのかは分からない。考えられるのは、今まで福山周辺には杉原・宮・渡辺・古志といった豪族の存在が知られていたが、或いは皆内氏も彼らと並ぶ豪族であったのではないか、と言うことである。城の規模も福山有数のものだし、伝承では中津原の茶臼山城、本庄の九日ヶ峰城は皆内氏の出城であったという。歴史の史料で現存するものはほんの僅かである。埋もれてしまった史実や人物はたくさんあるはずなのだ。 南の萱野山から見た青ヶ城山
大蛇伝説の残る山
また、青ヶ城は「大蛇」伝説が残る山でもある。この種の伝説には背後に隠された史実がある場合が多い。この山でどんな歴史が展開されたのか、調べてみたい山城の一つである。(田口義之「備後歴史人物伝」より) |
|
古志清左衛門暗殺の謎
福山地方の代表的山城「大場山城跡」
松永市街地から本郷川に沿って来たに進むと、やがて視界が開け、中世「新庄本郷」と呼ばれた本郷の平野に出る。ここで北を眺めると、左手に、本郷川に覆い被さるような険しい山が見える。これが戦国時代松永一帯を支配した古志氏の居城として有名な大場山城跡である。山頂に登ると松永一帯は一望の下で、曲輪・空堀・土塁・石垣の跡も各所に残り、正に福山を代表する戦国山城のひとつである。 大場山城跡
古志氏滅亡の謎
ところで、この大場山城に居城した古志一族に関しては大きな謎がある。それは天正19年【1591】、最後の城主と伝えられる古志清左衛門は、吉田【一説に三原】で毛利氏に殺され、古志氏は滅亡したと言われるが、実はその理由が不明なのである。一般に言われるのは、この事件を有地元盛の策謀によるとする説である。すなわち、本郷から東北の芦田一帯領主であった元盛は、日頃から領地のことで古志氏と争い、毛利氏に清左衛門の「謀反」というあらぬ讒言を行い、元盛の言葉を信じた毛利氏は、清左衛門を吉田に呼び出し、宴席で元盛によって殺させたと言うのだ。 古志清左衛門駒繋の松(東蔵坊)
古志氏の存在を嫌った毛利氏
しかし、最近あらたな史料が発見され、この事件を毛利氏による強引な備後の豪族「取りつぶし」策の一環とみる見方が浮上している。萩で発見された史料によると、古志氏は事前に毛利氏の魔の手を嗅ぎ取り、直接豊臣秀吉に仕えようと運動していたと言うのだ。そして、結果的にこの企ては毛利氏に探知され、逆にその取り潰しの格好な口実にされ、古志氏は滅ぼされてしまったと言う。これは信憑性の高い伝承である。古志氏も元々は毛利氏と同格の国衆で、権力の確立に狂奔する毛利氏にとってはじゃまな存在で、いずれは消される運命にあったのだ。(田口義之「備後歴史人物伝」) 古志清左衛門位牌(昌源寺)
|







