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森下仁丹と鞆

森下仁丹と鞆                                 
 現代では隔世の感があるが、戦前、日本が世界に誇れるものとして、「貿易の三井」と「海軍」が挙げられていた。海軍は別にして、「貿易の三井」とは意外に思われるかも知れない。しかし、日本の商人の活躍は、明治以来目覚ましいものがあったのだ。中でも、鞆出身の森下博が、製造販売した『仁丹』は有名である。モンゴル高原の奥地から、東南アジアのジャングル地帯まで『仁丹』を知らない人はなく、『仁丹』さえ土産に持っていけば土地の人々は喜んで歓迎してくれたという。
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沼名前神社境内に建つ森下博の銅像
 『仁丹』で有名な森下博は、明治2年【1869】鞆で煙草製造業を営む佐野右衛門の長男として生まれている。少年時代から商売に志していたようで、12歳で父を亡くした彼は15歳で上阪、舶来品を取り扱う店に奉公する。だが「舶来品」の商いは彼の望むところではなかった。
 
 明治26年【1893】、「輸入贅沢品は済世利民の趣旨に副わず」として独立、「薬種商」を開業、ここから森下博の縦横無尽の活躍が始まる。
 特に明治38年【1905】に発売した『懐中要薬仁丹』は、彼の広告上手と相俟って日本はもとより、初めに述べたように全世界的なヒット商品となり、森下の名を不動のものとした。
 
 仁丹と言うと、あの『仁丹服』と軽快なメロディーを思い浮かべるように、森下博は日本最初の『広告王』と呼ばれた人である。しかし、彼の偉さは広告を単に広告だけに終わらせなかったところにある。彼の商人としての理念が「済世利民」であったように、広告も、彼によれば「広告自体が世に益するもの」でなければならなかった。こうして生まれたのが、『名言広告』と呼ばれる、格言や名言を入れた仁丹の広告である。
 
 「済世利民」をモットーとした森下博は、また愛郷家でもあった。今日では余り知られていないが、鞆の『鯛網』を全国に紹介したのは彼であり、昭和18年【1943】、74歳で死去するまで、地元に寄付した金額は、当時のお金で十万円に及んだという。
 
 猶、森下家の墓地は鞆大可島の円福寺境内にあり、昭和13年、地元の人々によって建立されたのが、現在沼名前神社境内に立つ森下博の胸像である。
今も発電機がうなる「山野発電所」
 以前から気になっていたことだが、今回改めて調べてみて驚いた。それは、全国的にも珍しい、地方小企業設立の発電所だったのである。
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山野発電所
 福山の中心部から北へ約20キロ、山野町の小田川沿いにその発電所はある。木造2階建ての建物の内部には、現在も昭和5年【1930】設立当初の発電機がうなりをあげている。
 
 福山地方に初めて「電灯」がともったのは、この発電所の建設に先立つこと20年あまり前の、明治43年【1910】3月のこと。「産業革命」の波は、福山地方にも確実に押し寄せていたのだ。
 
 歴史を紐解くと、この近代文明の象徴は、意外なところからもたらされた。福塩線の前身「両備軽便鉄道」の起源は、府中の豪商延藤吉兵衛の設立した「備後鉄道株式会社」にある。この会社は鉄道を敷設することには失敗したが、明治40年【1907】社名を「備後電気鉄道株式会社」に変更、先に述べたように福山地方に初めて「文明の火」を灯すことに成功したのである(同社は後に中国電力と合併)。
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今もうなりをあげる東京芝浦電気製の発電機
 なお、当時はまだ戦時政策として実施された電力会社の合同が行われる前で、各地で地方有力者による電力会社の設立が相次いでいた。初めに述べた山野の発電所は、福山の豪商藤井与一右衛門が設立した「福山電気株式会社」が建設したもので、現在でも発電した電力を中国電力に供給している。
 
 戦前、福山地方最大の規模を誇った「福山紡績」の工場が建設されたのもこの頃である。
 
 福山紡績は、この地方で最初の近代的な紡績工場で、明治26年【1893】5月、やはり藤井与一右衛門を「頭取」として、現在の福山駅南側一帯に建設された。工場は煉瓦づくり建坪1605坪の規模を持ち、明治30年【1897】の従業員数は895人と、近隣ではずば抜けてた規模を誇っていた【福山市史】。
 
 残念ながら、この工場は明治30年代の不況によって福島紡績に買収されてしまったが、延藤吉兵衛といい、藤井与一右衛門といい江戸時代以来の豪商である。福山地方の近代産業は、まず、彼ら江戸期以来の豪商達によって興されたのである。

鞆鉄道の軌跡を歩く

 鞆鉄道の軌跡を歩く
 昨今、「産業遺跡」の保存問題が世間を賑わせている。一時代前だと、「遺跡」と言えば、古代遺跡をさすものとばかり思っていたが、現在では、江戸時代はおろか、明治・大正のものまで史跡指定の対象になったり、考古学者によって発掘されている。
 
 特に明治大正期の「産業遺跡」は注目されている。現代の日本は、明治以来、西欧に追いつけ追い越せ主義で、資本主義経済を発達させてきた。その遺跡を調査研究し、保存しようと言うのだ。我々の父祖が実際に体験した世界を遺跡から見つめ直して見ようと言うのだから価値ある運動であろう。
 
 さて、福山地方の産業遺跡の研究は大変遅れている。研究者がほとんどいないのだ。出来れば会員の皆さんで明治・大正の工場跡や機械をご存じの方がいらっしゃれば教えて頂きたいのだが、ただ一つ、「鞆鉄道」の遺跡だけは『産業考古』【産業考古学会刊】にも取り上げられ、私もその跡を辿ったことがある。
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かつて水呑の三新田に放置されていた鞆鉄の客車
 鞆鉄道の起源は、明治29年4月の「鞆鉄道株式会社」にさかのぼる。しかし、日清・日露の戦役によって中断し、明治43年9月、初代社長となった林半助などの努力によって政府の免許が下り、以後4年の歳月をかけて敷設されたものである。鞆・福山間の全線開通は大正3年4月12日、以後昭和29年に廃線となるまで「らっきょ」汽車として市民に親しまれていたのは、ご存じの通りである。
 
 福山の三の丸駅を発車した汽車は、まっすぐ地吹に向かって南下し、現在の光小学校のあたりで西に向きを変え芦田川を渡る。三の丸駅の跡は現在の市営三の丸駐車場で、芦田川に架かっていた鉄橋の橋脚は昭和40年頃まで残っていた。線路は芦田川を渡ると土手沿いに南に走る。「妙見駅」を過ぎると「水呑薬師駅」で、当時の駅舎は商店となって今でも残っている。産業考古学会の堤一郎氏にご教示頂いたことだが、この旧駅舎の手前には、小川を渡る鉄橋の痕跡が今でもくっきりと残っている。
 
 線路跡を訪ねて面白かったのは、その跡が現在でも道路や住宅の敷地として明瞭に残っていることである。水呑では線路跡が道路として使われているし、鞆の町に入る手前では、線路跡に細長い住宅が建ち並び、奇妙な景観をなしている。
 
 「産業遺跡」の調査研究と保存は今後の課題の一つである。

大新涯

大新涯
 川口小学校の前の通りを、曙方面に向けて車を走らせると、やがてかつての川口の土手道に出る。すでに往事の面影は無いが、ここは川口の沖が干拓される前は当時の堤防の跡で、道沿いに延びるクリークは当時の潮廻しである。
 
 さて、ここで左に折れ、最初の交差点を右折、クリーク沿いの街路をしばらく進むと、左手に神社の鳥居が見えてくる。これが曙・新涯・西新涯・一文字・卸町の氏神塩崎神社である。境内に入ると右手奥に古びた石碑が目に付く。この地の歴史を記した『新涯村墾田紀功碑』である。
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新涯村墾田紀功碑
 文面はすでに磨滅して読みづらいが、諸先輩の釈文を参考にすると、「阿部正方公・・・国用支えず、因って有司に命じて、計画せしむ・・すなわち川口・箕島の海を埋め・・工を慶応元年に創じめ、明治二年に竣わる・・・」の文字を目で追うことが出来る。
 
 時は幕末、福山藩は多難な時を迎えていた。前回までに紹介したように、幕末の名宰相阿部正弘を失った福山藩は、年少の藩主を奉じて、幕府の命ずるまま、東に西に出兵を余儀なくされていたのである。既に藩の財政が破綻しつつあった時期である。碑文にあるように、その「国用」は到底支えきれるものではなかった。そこで考え出されたのが、川口の沖に広がる海原を埋め立て、ここに「新涯」を造成しようという計画であった。芦田川の河口に開けたデルタは、沖に箕島という天然の堤防に恵まれ、川口の南北から堤防を沖に延ばせば、そこに容易に広大な新田が得られる。財政難の折り柄、藩は年貢の取れる土地を喉から手が出るほど欲しかったのだ。
 
 紀功碑にあるように、この工事は藩主阿部正方の命令によって慶応元年【1865】正月に始まった。藩の熱意を物語るように、最高責任者として城代家老佐原作左衛門を据え、工事の監督は当時の執政高滝左仲自らが当たったという。
 
 しかし、工事は思うように進まなかった。時勢が急を告げていたのである。特に、同年の末には第二次長州征伐が起こり、動員されていた農民九百名が軍夫として徴発され、工事は中断を余儀なくされた。
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現在の唐樋
 工事が再開されたのは、慶応三年【1867】正月。以後連日数百人の農民が動員され、同年の6月26日、遂に『汐留め』の儀式を迎えた。この日、干拓地内の海水は大潮の引き潮にのって外に流れだし、二千五百人の農民の見守る中、樋門の扉が厳かに閉められたのである。時に午後1時、大新涯の誕生であった。

松永開祖本庄重政

 松永開祖本庄重政

 江戸時代前期の水野藩による干拓事業は、2人の有能な土木事業家によって進められた。1人は前回紹介した神谷治部。そして、もう1人は、「松永開祖」として有名な本荘重政である。 

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本庄重政自刻像(松永町承天寺蔵)

 重政ほど、波乱に満ちた人生を送った人物は少ない。彼の前半生は、いまだ戦国の余燼の中にあった。重政自筆の「経歴書」によると、彼の祖父は市兵衛といい、越中の大名佐々成政に仕え、「越中すえもりの合戦」で討死している。親の半左衛門も始め佐々成政に仕えていたが、天正16年(1588)、成政が秀吉の命によって切腹すると浪人し、諸大名を転々とした後、水野勝成に召し出され、250石の「普請奉行」を勤めたという。 戦国の侍にとって主君を替えるのはそれほど恥ずかしい行為ではなかった。なにしろ「侍は7度主君を替えなければ1人前ではない」と言われていた時代である。重政も、青年時代、青雲の志を抱いて諸国を放浪して歩いた。「親半左衛門存生中に立身仕度、方々へかせぎ申度折節、九州有馬へ罷越寺沢兵庫頭御手に付き、二十七日城乗りの先懸ケを仕る」、つまり、吉川英治の宮本武蔵よろしく、“戦国に乗り遅れた青年”として、寛永15年(1638)の島原の乱に、浪人の身の上ながら、“一番乗り”を果たしたというのである。 残念ながら、時代は既に“徳川三百年”の太平に向かって大きく動き出していた。槍一筋で大望を果たすことは難しい。重政も島原の乱の手柄を引っ提げて“大禄”にありつこうとするが、それは叶わぬ夢であった。彼は一応備前岡山の池田家に二百石で仕官したが、約束の千石が二百石では話にならぬ、と飛び出してしまう。これが重政の人生の転機となった。池田家では、重政のこの行為を怒って、彼を「構」の身に処したのである。「構」とは、“この者は当家を理由があって浪人した者、召し抱えてもらっては困る”という、再仕官を不能にした厳しい処分である。

 しかし、人生何が幸するかわからぬものだ。池田家を飛び出した重政は、播州赤穂の浅野家の家老大石頼母助(有名な内蔵助の父)のもとに身を寄せるが、このことが彼の後半性を決めた。赤穂といえば塩田で有名である。また、彼は兵法者として、土木の技術にも堪能であった。

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中央左手の角ばった干潟が塩田である

 そこに目を付けたのが父の仕えていた福山藩である。彼が池田家を飛び出した承応元年(1652)は、水野氏2代勝俊の晩年にあたり、神谷治部も引退の時期を迎え、藩は治部に替わる人材を求めていた。ところが重政は池田家の「構」の身であった。そこで福山藩は、彼の嫡子重尚に五百石を与えるという名目で、重政を召し出した。承応3年(1654)のことである。

 福山にやって来た重政は、まるで人が変わったように干拓事業に打ち込んだ。こうして、延宝4年(1676)、71才で世を去るまで、有名な「松永塩田」(現在の松永の中心部、1667年完成)を始め、多くの干拓地が彼の活躍によって造成されるのである。


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