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土木の名手、神谷治部
福山の年表を開くと、水野氏時代の約80年の間に、現在見る平野部の陸化がほぼ完成したことが分かる。
元和9年(1623)の野上新涯の築造に始まって、寛永・正保年間(1624〜47)には、三吉・深津・蔵王・引野一帯の干拓が行われ、“深津島山”と呼ばれた深津高地は、今見るような平野に囲まれた丘となった。また、寛文年間(1661〜72)には、手城の干拓が完成し、城下南側の造成も、多治米・川口の干拓が行われ、箕島との間には、のちの大新涯(現新涯・曙町)の干拓を残すのみとなった(完成は慶応3年1867)。
福山の干拓
水野氏は5代勝岑の夭折によって断絶の憂き目を見るが、その後幕府によって実施された元禄検地によると、旧水野領の石高は15万余石となっていて、勝成の拝領高10万石と比べ5万石もの増加となっており、水野氏による開発がいかに大規模なものであったかを示している。
水野氏の干拓事業は、“江戸海退”と呼ばれる海水面の下降現象に助けられたものではあるが、土木事業に堪能な有能な家臣に恵まれたからこそ成し得たと言える。その代表が“土木の名手”と呼ばれた神谷治部(じぶ)である。
治部の業績に関しては、福山築城の総奉行を務めたとか、服部大池をはじめ、春日池の築造、吉津・市村の大溝(芦田川の水を深津・蔵王一帯に農業用水として流した水路)の開削など、勝成・勝俊時代の開発はほとんど彼の手になるように言われている。
しかし、歴史研究の進展によって、伝説のベールに包まれた彼の実像が次第に明らかにされて来た。福山の近世史研究家である平井隆夫氏によれば、治部の業績はいままで言われて来た程ではないという。例えば、これまで通説として信じられて来た治部の“福山築城総奉行”説は、誤りだという。治部の名が現れるのは寛永16年(1639)の勝成の隠居、2代勝俊(重)の家督相続以後であって、それ以前に治部が築城の総奉行を務めるというようなことはありえないという。なぜなら治部は勝俊付の家臣であって、勝俊が部屋住の時代に藩政の表舞台に踊り出る事など決してない、というのである(『文化財ふくやま』18号平井隆夫「神谷治部」)。
このように治部の業績に関しては、いくぶん割り引いて考えなければならないようであるが、それにしても福山の発展に彼が大きな役割を果たしたことは認めなければならない。『小場家文書』によると、治部は勝俊就封の直後から勝俊の側近として活躍しており、まもなく勝成時代の福山総奉行小場兵左衛門と共に治部も福山の総奉行に任ぜられるのである。水野氏2代勝俊の時代の開発事業はほとんど彼の手になると考えて良いだろう。
神谷治部長次寄進の銅鐘(北吉津・妙政寺)
封建の世の常として、明暦元年(1655)、主君勝俊の死去と共に治部も歴史の表舞台から去って行った。翌年、彼は主君の菩提寺妙政寺に釣鐘を寄進し、亡き主君の菩提を弔った。彼が世を去ったのはその6年後、寛文2年(1662)7月のことである。
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備後の人物と史跡
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姫谷焼にぶい地色の上に赤い柘榴の実が写実的に描かれている。皮の赤が何とも言えず美しい。姫谷焼の展示会のたびについこの作品の前で佇んでしまう。“誰が焼いたものなのだろうか……”
加茂町の姫谷焼については、窯がすたれた直後から既に伝説が生まれたようである。曰く、人を殺してその血で焼いた。京都の男が女を連れてこの地に来り女を殺してその血で焼いた等々。しかし、人を殺してその血で焼いたなど、少し焼物のことを知っていればありえないことと分かるはず。“なぜ”という疑問は益々深まるばかりである。 この疑問を解く鍵は、その年代にありそうである。最近行われた発掘調査によると、窯は前後2期にわたって築造されており、その稼働の年代は17世紀初頭からその後半までであるという。
とすると、福山藩主が水野氏であった時代である。やはり今まで言われているように水野氏と関係があるのであろうか。江戸時代後期の『西備名区』は言う、水野勝成が浪人の時、姫谷の焼物師の家に逗留し焼物を焼いた、勝成の腕はすぐに上達し、主人は勝成を後継者にと望んだ、しかし、勝成は大望を持つ身、やがて立ち去った。「其器今に残りて比売谷焼とて、備後の名物とせり…」 勝成が焼いたかどうかは別にして、姫谷焼が福山藩主水野氏と密接な関係を持っていたのは事実であろう。水野勝成は肥後熊本の加藤氏断絶の際、城受取の役目を果たしており、清正が朝鮮半島から伴って帰った色絵磁器職人を福山へ連れて来たということも十分考えられることである。しかし、水野氏の御用窯であったとしても、廃絶直後から既に伝説的な存在となり、その素性が失われてしまったのには、何か別の要因がありそうである。 それはさておき、焼物師の墓ではないかと言われるものが、昭和になって発見され、姫谷焼の研究に一石を投じた。昭和11年、姫谷焼に初めて科学の手が入り、窯跡の発掘と共にその傍らにあった一基の墓石が注目されたのである。墓石は高さ50センチ程の舟型のもので正面に「心誉香月信士」の文字と、寛文10年6月2日の没年が刻まれていた。寛文10年(1670)と言えば、丁度姫谷焼が焼かれていた時代である。すわこれこそ焼師物の墓に違いないと研究者が色めき立ったのも無理はない。しかも姫谷から南に8キロ程離れた加茂町の正福寺で「心誉□月寛文十年6月俗名市右門云姫谷焼物師法名也」の過去帳が発見されたのだからなおさらである。
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戦国武将の台所、毛利元就の場合
戦国たけなわの弘治3年(1557)、安芸の毛利元就は深刻な事態に直面していた。吉田郡山城三千貫の小身代から身を起こし、厳島で陶晴賢を破り、大内氏を倒し、備後・安芸・周防・長門4カ国の大名の座を確保した元就は、この年「隠居」を決意したのだが、彼の「隠居分」を巡って、嫡子隆元が異議を唱えたのである。
元就の居城、吉田郡山城址
元就は佐東銀山城(広島市)を隠居城とし、二千五百貫程の隠居分を要求した。しかし、隆元はそれが多すぎるというのである。4カ国の大守という栄光の座に着きながら、これは一体どうしたことか…。
実は、戦国大名といっても、その“台所”はお寒い限りだったのである。小説などで読む戦国の武将は、強く逞しく豪奢なものだが、内実はそんなものではない。例えば毛利氏である。元就は4カ国を領したといっても、上記のように、自らの直轄領は二千五百貫(年貢が約二千五百石取れる土地)に過ぎなかった。彼の場合それでも多すぎるといわれた。
これは、当時の戦国大名の性格による。戦国大名は後の江戸大名のように領国を大名が一律に支配した訳ではない。彼らは戦国を生き抜くためにはライバルを蹴落とすだけではなく、取り込むことが必要であった。また、家来たちを戦わせるためには“恩賞”という餌が必要であった。このため戦国大名は領地を求めて常に戦わなければならず、その領国といっても、かつての同盟者や家来の領地の集合体に過ぎず、元就のように自分の直轄領は僅かしかない、という事態が生まれて来るのである。
石見銀山、山吹城址
そのため彼らは、手っ取り早い“現金収入”として金山・銀山の開発に躍起になった。甲斐の武田信玄はたくさんの金山を開発したといわれ、毛利も石見銀山の領有を巡って尼子としのぎを削るが、その原因はこんなところにあったのである。つまり、彼らにとって戦国を勝ち抜くための“軍資金”は、そうした方法でしか確保できなかったのである。
これを別の方法で得ようとすればどうなるか。年貢を増やせば農民の反発を受けるであろうし、恩賞をけちれば家来は思うように戦ってくれない。戦国大名はその華やかな外面と比べて、その懐は実に苦しいものだった。
この点、織田信長は違っていた。敵対者は容赦なく滅ぼし、家来達も甘やかさなかった。そして、その家来も、毛利と違って土と離れた専業武士であった。つまり、その給与は信長の直轄領の収入から充てられ、毛利のように恩賞を与えなければ働かない、といった地侍ではない。この後この両者は“天下”を懸けて争うが、毛利が押され、結局信長のやり方を真似た豊臣秀吉の前に屈することになるのは、当然と言えば当然であろう。
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地頭の経済学、長和庄の長井氏
“泣く子と地頭には勝てぬ”という諺があるように、鎌倉幕府が全国の荘園に派遣した地頭には、在地の強力な支配者というイメージがある。
確かに、地頭に任命された者には、源頼朝の源氏再興の旗揚げに初めから従ったいわゆる“坂東武者”が多く、語感からくるイメージ通り、在地の権力者として君臨した者も多かった。
しかし、一般に言われるほど、強力な支配者であったかどうか、については問題がある。例えば、彼らの“収入”である。地頭には農民たちに高率の年貢を課し、無理難題を吹っかける“暴君”の印象があるが、果たしてその真実の姿はどうだったのか。福山の西郊にあった荘園『長和荘』と、その地頭『長井氏』の場合を例にとって検証してみよう。
長和庄(瀬戸町)の栗田城跡
長和荘は、瀬戸町長和にその名を残す皇室を荘園領主とした荘園で、その範囲は現在の瀬戸町から佐波・神島・草戸・水呑・田尻町一帯に及んだ相当広大な荘園であった。有名な“草戸千軒”はその市場町として栄えたと言われている。地頭の長井氏は、頼朝の幕府草創にあたって功績のあった大江広元の嫡流にあたり、歴代幕府の重臣として、備後の守護をも勤めた有力武士であった。
さて、この長井氏が地頭として同荘からどれくらいの収益を揚げたのであろうか。勿論、当時の収支明細帳などは残っていないから、以下述べることは筆者の推論である。
まず、「新補率法」という当時の幕府の法令を紐解くと、地頭は荘園の田地11町につき1町の割合で“免田”という収益をすべて自分の物にできる土地を与えられていた。長和荘の場合、当時の耕地面積を約220町歩(江戸時代の長和・地頭分・佐波・神島・草戸・水呑・田尻各村の耕地面積約457町歩の半分以下と推定)と仮定すると、その11分の1、約20町歩の田地を地頭長井氏は自分のものにすることができた。また、同法によると、“反別5升の加徴米”といって、地頭は荘園の田地1反につき5升の米を自分の収入にすることができたから、長井氏は2000反×5升で約100石の現米収入があったことになる。 当時の反当たり収量は約1石であったから、自己の取り分をその半分として、長井氏は自分の“免田”から約100石の収入があったはずで、米にして合計200石がその年収ということになる。勿論、地頭には他にもいろんな名目の収入があったが、この200石がその所得の主なものとみて大過あるまい。
瀬戸町「平木堂」の地蔵台座、「文保元年」の銘がある
“在地の強力な支配者”という地頭のイメージからして、この“200石”を多いと見るか、少ないと見るか、読者の判断にお任せしたい。ただ、思い起こしていただきたいのは、当時の日本がたとえようもないほど貧しかったことと、地頭には武力という“奥の手”があったことである。
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長者伝説―福山市赤坂町―
福山市の西郊、赤坂町から鈴池を通って、駅家・芦田町方面へ抜ける峠道の途中に、『長者ケ原』という、何かいわくありげな地名が残っている。 現地を訪ねて見ると、赤坂からの道を上り詰めたところにある山脈中の小盆地で、道はここから急坂を一気にかけ下り、駅家町向永谷へと続いている。現在の戸数は10数軒といったところであろうか、谷あいには水田も広がっている。
『長者ケ原』などの『長者』にちなむ地名は全国各地にたくさん残っている。尾道市や神石郡神石町には赤坂のと同名の地名が残っており、神石町では別に長者が住んだという土塁に囲まれた屋敷跡を見たことがある。
長者の捨てた籾が積もって山となった言う「すくも山」(赤坂町)
“地名は無形の文化財”と言われるように、地名には土地の歴史が刻み込まれている。赤坂の『長者ケ原』にも何か隠された歴史があるはずである。伝説では、長者の名は『新庄太郎』といい、長者が捨てた“糘(すくも)”が積もって山となったのが現在の“糘山”であるとか、長者の娘が村上天皇(在位946~967)の妃となって建てたお寺が鞆の福禅寺であるとか、ちょっと眉に唾をつけたくなるような話が伝わっているが……。
しかし、最近になってこの赤坂の『新庄太郎』に関して注目すべき見解が発表され話題となっている。
それは、時代を室町時代にまで下げれば、『新庄太郎』という人物が実在した可能性がある、というのである。尾道に西国寺という真言宗の古刹があるが、この寺の記録によると、室町時代中期の永享年間(15世紀前半)、寺の再興にあたって多額の銭を寄進した人物の一人に『新庄太郎実秀』という者がおり、この人物こそ赤坂町の『長者ケ原』にその名を残した長者に違いない、というのである。
その謎を解く鍵は意外なところに存在した。
赤坂町の「勝負銅山」跡
今日では思っても見ないことであるが、福山市の郷分町から本郷町にかけては銅の鉱脈が分布しており、赤坂町の『長者ケ原』周辺でも多くの廃鉱の跡が残っている。そして、それらの銅山跡のうち、江戸時代以前と推定される廃鉱の経営者こそが『新庄太郎』ではあるまいか、というのである。
室町中期といえば、『勘合貿易』と呼ばれる中国“明”との交易が盛んだった時代である。中国からは大量の銅銭が輸入されたが、その原料は日本から輸出された“銅”であったのだ。そして、『新庄太郎実秀』の記録を残す尾道は、その重要な輸出基地のひとつであった。
ここまで来ればお分かりであろう、わが赤坂の『新庄太郎』は、中世の貿易家であり、鉱山経営者であったのである。
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