備後山城風土記

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唇を亀に咬まれた男の話               
 
 平安時代の説話集として有名な『今昔物語集』に、悪ふざけをして亀に唇を咬まれたという大変ユーモラスな男の話が載っている。
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「紀臣石女」とある文字瓦が出土した宮の前廃寺跡
 
 10世紀頃の話であろうか、平安の都に大蔵ノ大夫紀助延(きのすけのぶ)という人がいた。この人が用事で備後の国に滞在中のことである。
 
 助延が浜辺で網を引かせていると、甲羅の幅が1尺(約30センチ)もあろうかいう大きな亀が網にかかって上がって来た。助延の家来たちは大亀が物珍しいのか、よってたかってその亀をもてあそんでいた。すると、家来の中で50年配の、いつも悪ふざけばかりしている男がやってきて、「そいつは逃げた俺の女房だ、こんなところにいたのか」、と亀の甲羅をつかんで持ち上げ「長いことお前が恋しくてならなかった、ひとつ口を吸ってやろう」と自分の口を亀の口に近づけた。
 
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宮の前廃寺跡(廃海蔵寺跡)の塔中心礎石
 
 亀は今まで寄ってたかっていじめられていたのだからたまらない。亀はここぞとばかりその男の口に喰いついた………。
 
 この後、話は男の口から亀を引き離すのに一苦労する場面へと続いて行くのだが、ここで問題にしたいのは亀とキスしたひょうきん者ではなく、「可為(すべき)事有テ」備後の国に下向したという大蔵大夫紀助延のことである。
 
 実を言うと、今まで余り問題にされなかったことだが、福山周辺には古代の海洋豪族、『紀氏』の痕跡が点々と残っている。
 
 福山の中心から西北に約5キロ、今は山陽自動車道の福山東インターが置かれ変貌著しい蔵王八幡社の丘で、『紀臣和古女』『紀臣石女』と刻まれた奈良時代の古瓦が発見されたのは、戦後間もない昭和25年のことであった。また、福山市民の誇り国宝明王院本堂が解体修理され、内陣蟇股から「紀貞経代々二世悉地成就元応三年(1321)三月十四日沙門頼秀」の墨書が発見されたのは昭和37年のことである。
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紀貞経が再建した国宝明王院本堂
 
 紀氏一族と福山の結び付きを考える場合、始めに紹介した『今昔物語』の記述は特に注目される。同書によれば、紀助延は若いときから「米ヲ人ニ借シテ」裕福になり、世の人から「万石ノ大夫」と呼ばれたという。この記述は助延が当時ようやく活発になって来た経済活動に深いかかわりをもっていたことを示している。彼は多分福山湾岸に私有地をもっていたのであろう。そして、取れた米を元手に金融業を営み、産をなしたのであろう。 この連載も、ここにきてやっと“名前と事跡”の判る先輩に出会ったのである。
須恵を焼く人々―熊野上代土器窯跡
 
 沼隈半島の中央部福山市熊野町にも、備後産業の黎明を告げた興味深い遺跡が残っている。県史跡熊野の上代土器窯跡がそれである。
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窯址の全景
  
 福山からだと、駅前大通を直進し、突き当たりを右折、水呑大橋を渡って沼隈方面を目指せばよい。熊野町の六本堂を過ぎて峠にさしかかった辺りの、右側山腹に目指す窯跡がある。
 
 私がこの地を初めて訪ねたのは、20年ほど前の暑い夏のことだった。南に開けたの墓地の一角に窯跡が黒く口を開けていたのが、周囲の白っぽい墓石と共に妙に印象に残っている。
 
 人間が人間であることの条件は、火を利用することと道具を使うことであると言われる。 火は冬季の暖を取ると共に、猛獣から身を守り、食生活を多様なものとした。特に、火によって、今まで生で食べていた肉や魚、木の実などを加熱して食べられるようになったことは革命的であった。ここから人間の不断の挑戦が始まる。 
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焚口の様子
 「どのようにしたら火を上手に利用できるか」そして、人は粘土を加熱して容器とすることを発明し、素焼きの土器から今日の陶磁器文化へと発展させて来た。
 熊野の窯跡は、この一万年に及ぶ日本の土器・陶磁器文明の第2段階“須恵器”を生産した窯業遺跡である。
 
 我が国古代の土器としては、“縄文式土器”と“弥生式土器”が有名だが、どちらも素焼きで壊れやすく、保水性も十分ではなかった。これに対して“須恵器”は、山の斜面を刳り貫いた“登り窯”で焼かれ、陶質で堅く保水性も十分であった。 しかし、前者が粘土さえあれば誰にでも焼けたのに対して、後者は専門的な“技術者”が必要であった。そして、その技術者こそ、古代、“須恵部”と呼ばれた一群の人々であった。
 彼らは、古墳時代の中頃(5世紀ごろ)朝鮮半島から渡ってきた人々で、当時の大王や豪族たちに“須恵器”を生産することで奉仕していた。
 
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窯の中の様子
 
 今日、各地に“すえ(須江・陶・末)”と呼ばれる地名が残っているが、これは須恵器の窯跡と共に彼らの活躍の跡を示すものである。
 
 初め豪族たちの需要を賄っていた彼らも、時代が奈良から平安へと下ると、豪族たちの支配下から離れ、“陶器職人”として自立して行く。陶器は庶民のものとなり、各地に“備前焼”や“常滑焼”などの須恵器の流れを汲む窯が開かれ、人々の需要を賄なうのである。
 
 残念ながら、熊野の窯は平安時代には廃れてしまったが、彼ら“須恵部”の活躍も、前回紹介した“海部”の人々と共に、備後産業史の曙を告げた先人として忘れてはならない人々である。
平城京の光と影、神石郡出身の物部多能
奈良県の正倉院と言えば、シルクロードの終着駅として、私たちに古代への夢を掻き立ててくれる天平文化の宝庫だが、また、膨大な数にのぼる奈良時代の古文書の収蔵先としても有名だ。
 
この正倉院文書の中に、私たちの先祖、奈良時代の備後人の書いた一通の文書が残っている。
 
人物の名は、沙彌慈数(沙彌とは僧の称号の一つ)。この文書によると、慈数の出家する前の名は「物部多能」といい、備後国神石郡志麻郷戸主物部水海の戸口(世帯員)であったとある。その内容は「私はこの通り出家しましたので、税金を免除してください。宝亀五年(774)3月12日」と言うものだ。
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復元された平城宮大極殿
 
その頃、重税に苦しめられていた人々は、何とかして僧侶になろうとした。僧侶になれば税金を払わなくて済んだからだ。物部多能、改め沙彌慈数が純粋な信仰心から出家した、という事も無論考えられる。だが、別の文書に残る彼の足跡をみると、それはどうも怪しい。
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同じく復元された官庁
多能は、元々平城京の中央官庁に勤める舎人だったようだ。神護景雲四年(770)の文書によれば、5、6、7月と東大寺の写経所に勤務していたことが分かっている。ところが、同年8月の文書には、彼の名の横には「未選」の文字が記入されている。職員から外されたのだ。これはどうしたことか…。2年後の文書では、勤務先は同じだが、写経所から「調綿一屯」を借用したことが判明する。
 
これらの勤務態度、借金の様子、さらには最初に紹介した免税申請書からすると、どうも物部多能という人は、今で言えば勤務成績不良で、楽することばかり考えている怠惰な人物、という疑惑が涌いてくる。果たして彼の実像は…。
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多能の故郷神石郡志麻郷の景観(神石高原町小畠)
多能の出身地、備後国神石郡志麻郷というのは、今の神石高原町南部の小畠一帯にあたり、中世「志麻里庄」と呼ばれた地域である。福山市街地から国道182号線を北へ約30キロ、神石高原町井関で左折、峠を越えればかつての志麻郷の中心小畠に達する。吉備高原の山並みに囲まれたこの静かな山村で、古代、どんなドラマが展開されたのであろうか…。
石川王と曽根田白塚古墳
今回紹介する石川王は、卑弥呼や倭健命と比べて全く無名の人物だが、日本の歴史が伝説から史実へと移り変わる途上の人物として敢えて取り上げてみた。
 
石川王は、天武天皇の時代、「吉備太宰」として任地に赴き、679年、吉備で没したとされる人物である。吉備太宰とあるように、石川王の時代は、古代栄えた吉備国の名残が強く残っていた時代だ。それが今見るような備後・備中・備前の3国に分割されたのは、丁度彼が活躍した頃で、或いは石川王が3国分割を実施したのかもしれない。
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曽根田白塚古墳の石槨
彼の名がはじめて史上に現れるのは、有名な「壬申の乱(672)」の最中のことだ。壬申の乱は、天智天皇の長子大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟大海人皇子(のちの天武天皇)が、天皇の位を巡って争った古代最大の内乱…。
 
身の危険を覚って吉野へ逃れた大海人皇子は、わずかな側近と共に伊勢に脱出、大友打倒の兵を挙げた。このとき石川王もその側近にいて、鈴鹿の関が味方に降ったことをいち早く大海人皇子に知らせた。鈴鹿の関を押さえた大海人皇子側は、やがて兵を近江に進め、大友皇子側を攻め滅ぼし、飛鳥浄御原宮で即位した。これが天武天皇である。
 
石川王が吉備国の長官である太宰に任命されたのは、壬申の乱での戦功に対する恩賞の意味があったとされる。
 
『日本書紀』によると、石川王が任地で没したことを聞いた天皇は「大いに哀し」んだという。共に戦野を駆け巡った思いが天皇の頭をかすめたのであろうか、男性的な天皇の情愛の深さと、石川王に寄せた信頼の深さがしのばれる逸話である。
 
彼は備後の人々にも親しまれたようである。古書に、石川王は人々を憐れみ、善政を行ったので、王が亡くなると人々は父母を失くしたように嘆き哀しみ、神社を建てて王の御魂を祀ったという。現にこの神社は、芦田町に国司神社として現存している。
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同上 石の継ぎ目
石川王の墓ではないかと思われる古墳も、国司神社の北に残っている。高さ100メートルほどの山頂に築かれた、曽根田白塚と呼ばれる終末期(七世紀後半)古墳で、きれいに磨かれた花崗岩製の石槨は、奈良県の高松塚古墳とほぼ同じ形式である。
ここに、石川王は眠っているのであろうか。青く苔むした石の表面は、千古の謎を秘めて鈍く光っている。

倭健命と穴海の悪神

倭健命と穴海の悪神
古代史上のヒロインと言えば、邪馬台国の女王卑弥呼だが、男性の英雄と言えば、倭健命だろう。倭健命は、古代大和朝廷の時代、景行天皇の皇子として生まれ、父天皇の命ずるままに、東西のまつろわぬ(従わぬ)国々を討ち、東国遠征の帰途、伊勢の能煩野で、故郷の大和の山河をしのびながら倒れたとされる悲劇の英雄だ。
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四世紀頃の石棺
この悲劇の英雄もわが備後に足跡を残している。『日本書紀』によると、倭健命が九州の熊襲を平定して帰途のことと言う。「吉備に至り、穴海を渡る。悪神あり。すなわち」殺したとある。この「穴海の悪神退治」の話は、『古事記』にもあり、同書によると、「然して帰り上ります時、山の神、河の神、また穴戸の神を、皆言向け和して参上りたまいき」とあり、「穴戸の神」が穴海の悪神であるとされている。
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旧備後国安那郡の景観
穴海とは、かつて瀬戸内の潮が深く福山市街地を浸し、穴状に入り組んでいたことを表現した言葉で、後に陸化し、吉備穴国、さらには備後国安那(あな)郡と呼ばれた地域である。
 
古代の神々は現在と違い、実体を持っていた。神は小国家や人々の集団の象徴であり、その神を殺すと言うことは、その神を祀る人々を征服したことを意味する。
 
倭健命は備後の人々を征服したのであろうか…。
 
もちろん、これらの話は正確な史実とは言い難い。
 
倭健命自身も、実在の人物ではなく、大和朝廷が国内征服の過程で倒れた多くの皇子や将軍たちがそのモデルであろうとされている。
 
とすれば、こうした征服譚は大いにありうる話である。
 
この時代(四世紀)は大和朝廷の力がまだ全国に及んでいなかった時代である。倭健命よりあとの雄略天皇が、西暦478年に中国の皇帝に出した上表文にも、「私の父祖は自ら甲冑に身を固め、国中を征服しました」とある。備後は、邪馬台国時代、邪馬台国の次の大国であったとされる投馬国に比定されるくらい栄えた地域である。大和朝廷が全国を平定する途中、備後に兵を進めるということはあったに違いない。

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