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鞆の位置
福山と海とのかかわりを考える場合、鞆の存在が大きい。
水野勝成が新城の位置を現在地に決定する上で、「鞆」が重要な位置を占めていたことは間違いない。このことはいずれ詳しく検討することにして、まず考えなければならないのは、中世から近世にかけの鞆の繁栄ぶりだ。
鞆の繁栄を物語る物差しとして、少し俗に過ぎるかもしれないが、鞆に来た歴史上の著名人を挙げてみる。古いところは別にして、鎌倉末期以後、この地に足を止めた有名人は数限りない。
まず、最初は室町幕府の初代将軍足利尊氏、一五代将軍義昭だ。尊氏はこの地で光厳上皇の院宣を手にし、「朝敵」の汚名を逃れることが出来た。義昭は言うまでもなく信長に追われてこの地に逃れ、幕府再興に執念を燃やした。『足利氏鞆に起こり、鞆に滅ぶ』と言われる所以だ。
足利義昭木像(京都・等持院)
また、鞆の戦国期はさながら敗者の溜まり場の状況を呈した。先の義昭はその超大物だったわけだが、そのほかにも戦国大名クラスでは、攝津の荒木村重、播磨の小寺政職(黒田如水の旧主)などがいる。現在鞆には赤松姓が多いが、赤松は言わずもがな播州の大名だ。
敗者が鞆に逃れて来たのには二つの理由がある。一つは鞆の経済力だ。これは今回の主要テーマだからあとで詳しく検討することにして、もう一つ考えて見なければならないのは室町時代の鞆の政治的な位置である。実は判っているようで判らないのが中世鞆の領主だ。推定する手がかりはある。それは「安国寺」の存在である。
安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が元弘以来の戦没者を弔うため、国々に建立した臨済宗の寺院である。そして、この寺は国々の中心地に建てられるのが一般的であった。その寺が備後の場合、なぜ国府や守護所でもない鞆に置かれたのか…。考えられる理由は、この地が幕府の直轄地「御料所」ではなかったか、と言うことだ。勿論、それを証する史料はない。あれば既に学者がこのことを主張しただろう。
重要文化財安国寺釈迦堂
鞆が幕府の直轄地「御料所」でなかったとしても、安国寺があるから同じことだとも言える。安国寺は室町幕府全盛の頃、幕府立の寺院であった。その頂点に位置したのが京都の「五山」である。そして、五山派の寺院には幕府から膨大な寺領が寄進された。実はこの五山の寺領こそが室町幕府の重要な財源であった。鞆の安国寺も、伝承では鞆の三分の一がその寺領であったという。と言うことは、鞆の三分の一は幕府の支配地だったと考えても良い。
もし、以上の推定が正しいとすると、鞆が何故敗者の逃げ場所になったのかという、謎は解ける。それは戦国時代の自由都市として有名な堺の町に通じることだ。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)
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鞆を語る
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