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町名を訪ねて、福山市高西町
合併で誕生した新しい町名
福山市の西端に位置する高西町は、旧沼隈郡高須村の「高」と、同西村の「西」をとって名付けられた比較的新しい町名です。
高西町誕生にはドラマがありました。
発端は昭和二八年にさかのぼります。この年、政府の町村合併促進法に触発されて、旧沼隈郡の西部十ケ町村(松永・神村・本郷・東村・西村・高須・柳津・金江・藤江・浦崎)の合併が各町村の議会で取り上げられ、松永町外九ケ村合併委員会が組織されました。
しかし、この合併問題は難航しました。一部の村(高須・西村・浦崎)に西隣の尾道市と合併しようとする意見が頭をもたげ、結局、この三ケ村はこの合併委員会から脱落、同市に編入されることになりました。
こうして、この三ケ村は、旧沼隈郡にもかかわらず、旧御調郡の尾道市の一部とされたわけですが、高須と西村の一部には、この事態を潔しとしない人々がいました。旧高須村の川尻地区と旧西村の沖地区の住民です。そして、この両地区の人々は高西連盟を結成、新しく生まれた松永市への編入を粘り強く交渉することになるのです。昭和三〇年、この運動は報われるときが来ました。同年四月、県知事より、両地区に対する松永市への編入勧告が発せられ、この勧告を受けた尾道市選挙管理委員会は、六月一九日、境界変更に対する住民投票を実施、この結果晴れて両地区は高西町として松永市(後に福山市と合併)に編入されることになったのです。
高須杉原氏の居城「松尾城址」
町名の起こりとなった高須と西村は、古い歴史を持つ村です。特に高須は、中世福田庄高須社と呼ばれた地域で、鎌倉時代には地頭として山鹿氏が東国から入部しています。また、室町時代に入ると、尾道市木梨を本拠とした杉原氏の一族が土着し、現在では町外になってしまいましたが、松尾や太田に山城を構えて、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦まで勢力を振るいました。(福山リビング新聞連載「町名を訪ねて」より)
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町名を訪ねて
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町名を訪ねて 福山市「多治米町」
「タジメ?」「どんな字を書くのですか」市外の人にお会いする時、よく尋ねられます。
私は、初めこの町名は、江戸時代前期の福山総奉行本庄重政の命名ではなかろうか、と考えていました。
と言いますのも、多治米は江戸時代前期の干拓地で、完成した万治元年(1658年、寛文9年との説もある)は、ちょうど重政の活躍時期に重なるからです。重政といえば、松永塩田の開発が有名です。しかも「松永」は彼の命名になるもの。
「多治米」もあるいは…と推理してみたのです。 しかし、「多く米を治める」村とは、いかに封建の世とはいえ無粋が過ぎます。
かつての土手跡、右は川口
では、一体この町名は何に由来するのでしょうか。一つ、興味深い説をご紹介してみましょう。それはタジメは「田〆(しめ)」ではないか、という説です。多治米の形は北が締まって、南に開いた形をしています。また、「〆」は干拓地の土手を締め切ることにもつながります。
最初、沖の干拓地のことを単に「田〆(しめ)65丁」と呼んでいたのが、後に藩役人の誰かが、したり顔で「多治米」と書いた…。いかにもありそうな話です。
最近、都市化して変容著しい町ですが、歩いてみますと、点々とかつての干拓地の面影を見ることが出来ます。
多治米西の荒神さん
まず、東と西の荒神さんです。どちらも当時の土手の上にあって風水害から人々を守ってきた神様です。特に西の荒神さんは、一名「流れ荒神」と呼ばれ、かつてすぐ西を流れていた芦田川に上流から流れ着き、そのまま祀つられたものといわれ、この地が干拓地であることを無言のうちに私たちに教えてくれます。
また、沖野上と川口の堺の用水路もかつての汐廻しの跡で、干拓当初はこの溝を使って田畑にわく塩水を海に排水していました。
こんな史跡も、いつまで現在の姿を留めることができるでしょうか。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より) |
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貝塚の残る町、福山市柳津町
古く今津と共に、松永湾の港として知られた柳津には、一つの伝説が語り伝えられて来ました。
町の背後にそびえる竜王山には、大昔“王(大)人”がいて、向かいの戸崎(尾道市浦崎町)との間を跨いで渡ろうとした。ところが、股を広げ過ぎて“金玉”を落としてしまった。だから、今でもその落ちたところは“こぶかり”といって、松永湾の深みになっている。
これは各地に残る巨人伝承の一つですが、柳津の場合、これが有名な神武東征神話と結びついて地名のいわれともなっています。つまり、王人は、神武天皇の家来で、天皇が九州から大和に向かわれた時、家来の王人の住むこの地にも立ち寄られた。そして、天皇の船のとも綱を結んだのが柳の木で、地名もこの故事に因んで名付けられた…。
貝塚の断面が観察出来る馬取貝塚 伝説は別にして、この地が古くから開けた場所であることは間違いないようです。町の東の馬取の丘には、縄文時代の貝塚が残り、広島県の史跡に指定されていますし、竜王山には古代の祭祀遺跡も見られ、弥生土器や古墳時代の土師器が出土しています。
また、町の西端には「遍坊地」という字名も見られ、これは中世辺り一帯に存在した“藁江庄”の傍示(ぼうじ)、すなわち、境界を示す地名と考えられます。
この地が古代以来、港町として栄えたことは、柳津の鎮守橘神社の伝承にも見られます。この神社は古く「橘の宮」と称され、平安時代、政争に敗れた橘逸成の娘が、各地を漂白の末、この地に父の霊を祭ったことに由来すると伝えます。この伝承なども、この地が古くから“津(港)”として、繁栄を誇って来た一つの証しでしょう。
馬取貝塚の断面
現在、町の沖は埋め立てられ、広々とした道路が沼隈方面に通じています。しかし、一歩旧道に踏み入れは、そこには昔からの町並みが続いています。“やにゃーづ”と聞いて、この一筋の町並みを思い出すのは、私だけでしょうか。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載)
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塩田として誕生した、福山市松永町
JR松永駅の南口に降り立つと、その変貌には驚かされます。かつて塩田が広がっていた駅前には、広い道路が真っすぐ南に伸び、両側にはモダンな住宅や商店が軒を並べています。
本庄重政自刻像(承天寺蔵)
今から三百余年前、本庄重政が“袋の海”と呼ばれていた松永湾を埋め立てて、塩田を造成しようとした時、ここには遠浅の海原が広がっていました。陸は、現在の神村から南に“松崎”と呼ばれる岬が、南に突き出ていたのみでした。
松永の埋め立ては、万治三年(一六六〇)の春に始まったと伝わっています。当時重政は、福山藩に帰参して七年目で五五才、既に多くの干拓事業を手掛け、藩の興廃を一身に担った感がありました。しかし、松永塩田の造成は、その彼にとっても容易な工事ではありませんでした。沖に築造した堤防は嵐のたびに流され、完成は七年後の寛文七年(一六六七)と伝わっています。
松永地区の干拓の様子
松永の町名はこの時に生まれました。この地は初めにお話ししたように、神村の松崎の地先に造成されました。重政は、その「松」にちなんで、中国の吉祥句「松寿永年」から、新たに造成された土地の繁栄を祈って「松永」と命名したのです。
それだけに重政のこの塩田に対する愛着は深く、自らの居宅(現在の本庄神社の地)を塩田の東の丘の上に移し、その南には菩提寺として承天寺を建立しています。そのため彼によって造成された松永村は、いつしか“本庄村”と呼ばれるようになった言われています。
しかし、これが彼の子孫に災いしました。彼のこの行為は、福山藩の中に本庄氏の別天地を作ることでした。重政が生きているうちは彼の声望を憚って黙認していた藩も、彼が延宝四年(一六七六)に没するとさっそく本庄氏の追放を画策します。すなわち、喧嘩という些細な罪を取り上げて重尚を領内から追い出し、本庄氏の勢力を松永から一掃してしまうのです。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載)
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「新庄」の中心として栄えた、福山市本郷町
“松永の本郷に城跡があるそうじゃけえ、行ってみょうやあ”これがそもそも私と本郷町のなれそめでした。
本郷の中心にそびえる大場山
初冬のある日、国道2号線を白い息を吐きながら自転車で西に向かい、松永の町中から道を北に取り、本郷川の土手に出ると視界が急に開けました。ここが本郷でした。目指す城山は、正面奥、本郷川の西岸に、悠然と聳えていました。
30年以上も経った今でも鮮明に思い出されますが、急な坂道を上った山上には、本丸・二の丸・三の丸と段々に均された平地が百メートル以上続き、崩れ残った石垣がありし日を偲ばせてくれました。
昭和47年に撮影した大場山城跡の石垣
この地に城が築かれるようになったのは本郷がいまだ「新庄」と呼ばれていた鎌倉時代のことです。幕府を開いた源頼朝は全国に守護・地頭を設置しましたが、ここ新庄にも関東から大庭氏が地頭として赴任し、築いたのが本郷の城山、大場山城である、と伝えます。
新庄とは本庄に対する言葉で、各地の例からしますと、開発によって新たに分立した庄園を新設の庄園、すなわち新庄と呼ぶことが多いようです。当地の新庄の場合、どの庄園から別れたものか史料的には判然としませんが、周辺に福田庄や以前に述べた神村庄の名を伝えていますので、そのいずれかでしょう。
古志清左衛門の墓
戦国時代になると本郷の城山には出雲の古志氏の一族が居城し、近隣に勢力を振るいます。中でも最後の城主と伝える古志清左衛門は、毛利旗下の勇将として聞こえ、その落城悲話は、本郷の城山と共に、永く地元の人々に語り伝えられました。
この新庄が「本郷」に替わったのは、近世初頭の事です。有名な太閤検地によって庄園制が廃止されると、各地に近世的な「村」が誕生します。新庄も「西村」「東村」などの村に分けられましたが、この時、旧新庄の中心という意味で名付けられたのが、松永の本郷でした。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より)
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