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大富豪の夢の跡、藤江町
福山の駅前から西南に約12キロ、赤坂から南に峠を越えると、前方にかつて袋の海と呼ばれた松永湾が広がっています。
“袋の海”とはよく言ったもので、確かに松永湾は奥が広がり、入り口がすぼんだ“袋”の形をしています。今回訪ねる藤江町は、丁度この袋の東の奥に位置しています。
かつての藤江港を守った「織機城跡」
藤江の町名は、「沼隈郡誌」に“江は河海に沈む地に称すること多し”とあるように沿岸部に多い地名で、かつてこの地が波静かな入江であったことを意味しています。しかし「藤」に関しては定説はなく、沼隈郡誌も“古へ藤花多かりしものか、未だ審かならず”と匙を投げています。
その初見は、元和五年(一六一九)の「備後国知行帳」で、七〇〇石余の村として現れています。
「福山志料」をひもときますと、江戸時代、この村は隣の金見村の八幡社を産土神としていたとありますから、中世に逆上ると、以前に金江町のところで紹介した藁江庄に含まれていた可能性があります。
そうすると地形的に見て藤江は同庄の港であったことが考えられ、最近学界で話題となった「兵庫北関入船納帳」に見える藁江船籍の山名殿国料船は、この地の藤江港の船であったことが想像されます。
「山名殿」とは、室町時代、備後の守護大名であった山名氏のことで、今は対岸尾道との間に、細々とフェリーの往復するだけの藤江港が、五百年前には瀬戸内の要港であったとは、歴史を現在の視点だけで見てはいけないことを私達に教えてくれます。
また、この地で忘れてはならないのは、近世の富豪として聞こえた岡本山路家のことです。
かつて山路邸の数奇屋であった「白雪楼」(今は呉市三ノ瀬にある)
幕末この家からは山路機谷が出て、数々の社会事業を行いました。しかし、浜の真砂は尽きるとも、よも岡本の財は尽きまじ│と謳われた同家も今は屋敷跡を残すのみです。
港の北に残る立派な石垣は、栄華のはかなさ、空しさを無言の内に我々に語ってくれます。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より)
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町名を訪ねて
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「新しい港」を意味する、今津町―福山市―
松永市街地の西に位置する今津町は、今日でこそ海から離れた内陸の町になってしまいましたが、本来はその名の通り「津」(港)として発展した町です。
かつての海岸線は、東南の柳津町から大きく北に入り込み、神村の山沿いから本郷川の河口を経て、今津町の北を限る丘陵の裾を洗っていました。 今津の鎮守「剣大明神」
今津の歴史は古く、室町時代の文明十七年(一四八五)の記録には、既に「新庄の内今津」としてその名が見えます(熊野那智大社文書)。新庄とは、現在の本郷町を中心とした松永北部に存在した中世の荘園で、今津は「草戸千軒町」と同じように、荘園の年貢積み出し港として発展した港町であったと思われます。 しかし、町の東を流れる本郷川の吐き出す土砂は、この町の港としての役割を比較的早く終わらせたようです。近世に入ると、今津は港町としてではなく西国街道(山陽道)の宿場町として知られるようになります。
本陣河本家
この町が公式に「宿駅」に指定されたのは慶長七年(一六〇二)と伝わっていますが、宿場として史料に現れるのは、それより早く、天正初年に逆上ります。同三年(一五七五)、織田信長に謁見するため鹿児島より上洛した島津家久は、四月一日、「今津の町四郎左衛門といへる者」の所に一泊、翌日鞆に向けて出発しているのです(中書家久上京日記)。
本陣に残る「宿札」
もともと神辺平野の北側を通って府中に抜けていた山陽道が、この頃になって神辺から南下し、今津から尾道に通じるようになったのには、当時の内海水運の発達が大きく関係しています。すなわち、内海の要港鞆・尾道の発展は、街道をも沿岸部に引き寄せることになり、その中継地として今津の繁栄を見ることになったのです。
なお、今津の「今」は、今町・今市の「今」と同じく“新しい”を意味する言葉です。では『古津』はどこにあったのか、今後の課題のひとつです。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より)
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明治時代に誕生した新しい町名―福山市金江町―
松永湾の東岸に位置する金江町の“金江”は、町内の大字として今日も残っている金見の「金」と、藁江の「江」を採って付けられた比較的新しい町名です。
藁江庄の鎮守「金見八幡」
町名の起源となった二つの大字の内、藁江は、中世の庄園“藁江庄”として史料に現れる由緒ある地名です。京都の石清水八幡宮に伝わる記録によりますと、平安末期の承安元年(一一七一)には、同八幡宮の社領として見え、既にこの時代には庄園として開発されていたことが分かります。 藁江庄で注目されるのは、この庄園が年貢として“塩”を上納していたことです。時代は下りますが、室町中期の文安三年(一四四六)の「藁江庄塩浜帳」によりますと、庄内には「塩浜」として「ナタ浜・ハタハリ浜・野島浜・平田浜」等の塩浜があり、合計五七俵余の塩を年貢として出していることが分かります。この内、野島・平田等は現在も字名として残っており、松永湾岸の塩業は、古く中世に逆上ることが分かります。
赤柴山城跡
しかし、時代が室町末期になると、武家勢力の進出によって藁江庄の名も有名無実となります。既に室町中期には、備後の守護であった山名氏によって現地は管理されており、戦国時代に入ると、藁江氏・渡辺氏等の在地武士の押領によって庄園としての実態は全く失われています。町内中央の金見八幡社の背後の丘や、通称茶臼山と呼ばれる赤坂町との境界の山頂に残る山城跡は、彼らの活躍を今に伝えるものです。
天津磐境
また、この町は、市内でも古代の史跡に恵まれた地域としても有名です。町内北西部に位置する福山園芸センター周辺には、六つ塚・元禄塚等の古墳や天津磐境と呼ばれる古代の祭祀遺跡が残り、訪れる者をはるかな古代のロマンに誘ってくれます。 なお、金見・藁江の内、金見は近世に入って藁江を分村してできた村で、現在の町名と町域は、この両村が明治二二年に合併して以後のものです。(田口義之「町名を訪ねて」より)
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由来は昇る朝日、曙町(福山市)
早起きは三文の得、と言われるように、早朝の散歩は、我々に新たな活力を与えてくれます。特に日の出を拝むのは、元旦の初日の出でなくともいいものです。東の空が明るくなると、やがてオレンジ色の光線が空に広がり、真っ赤な太陽が山の端に現れます。
「くわい」は新涯の特産品
曙町の“曙”は、昭和四十四年に旧新涯町を三区分した際、この日の出の末広がりの陽光にあやかって新たに名付けられた町名です。
新涯は、その名のとおり、近世の干拓地です。このシリーズの新涯町のところで紹介されたように、旧新涯町は、江戸時代の末期、福山藩最後の干拓事業として、川口町の沖を埋め立てて造成されました。完成は、慶応三年(一八六七)六月のことです。翌年が明治元年ですから、まさに江戸時代の最後を飾った大事業であったと言えます。
しかし、この干拓地が今日の繁栄を迎えるまでには、数々の出来事がありました。
明治元年正月には、福山に攻め寄せた薩摩藩の軍艦を迎え撃つため、完成したばかりの堤防上に大砲が据え付けられました。
さいわい、この時には和議が結ばれ事なきを得ましたが、その翌年の明治二年四月一日には、大暴風雨がこの地方を襲い、一文字の堤防が決壊するという大惨事を経験しています。決壊場所は、ちょうど現曙町の東端の角ばった辺りで、切れ口は、“石淵”と呼ばれる深い淵になり、吹き上げられた砂のため、周辺は“砂場”と呼ばれる砂の多い土質になったそうです。
川口の汐廻し川、左手が旧堤防跡
この旧新涯町が曙・一文字・新涯の三ケ町に分割されたのは、日本の高度経済政策に一因があります。昭和三六年、福山にも日本鋼管の進出が決まり、一文字堤防の向かいには日本鋼管の広大な製鉄所用地が造成されて行きました。そして、旧新涯町にも、これに呼応して区画整理事業が実施され、新三町として新たに出発することになったのです。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載)
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