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尾道と林芙美子
昭和の女流文学に一時代を築いた林芙美子【1903〜1951】は、生まれこそ別の場所だが、その文学は間違いなく尾道の風土と生活の中ではぐくまれたものである。
尾道の「ええもん」持光寺山門
芙美子が尾道に移り住んだのは大正4年【1915】、13歳の時のこと。
行商をしていた父が汽車の窓から顔を出して、「祭りでもあるらしい、降りてみんかやのう」と言ったのがそのきっかけであった【風琴と魚の町】。以来大正11年【1922】、上京するまでの7年間、彼女はここで育ち、多感な少女時代をおくるのである。
芙美子が文学的な才能を開花させるのには尾道の人々の温かい人情があった13歳で小学校の5年生に編入した彼女は、ここで生涯の恩師小林政雄先生に出会う。芙美子に豊かな文学的センスを見いだした小林先生は、強く進学を進言。
貧しい中で尾道高等女学校【現尾道東高】に進学した彼女はここでも多くの素晴らしい先生や友人に巡り会い、感性を磨いて行った(田口義之「備後の歴史と人物」)
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尾道散策
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志賀直哉
『清兵衛と瓢箪』 志賀直哉作のこの小説に「商業地で船着き場で市にはなっていたが割に小さな土地」とあるのが尾道のことで、中学校の国語の教科書にも取り上げられ、私等も文豪志賀直哉の名を始めて知ったのは『少年と瓢箪』と言うこの奇抜な題材からであった。 天寧寺三重塔と尾道水道
志賀直哉と尾道 「小説の神様」志賀直哉が備後の地を訪れたのは、大正元年【1912】11月のことである。当時29歳の彼は父親との葛藤に苦しみ、家でしてやってきたのが尾道であった。直哉の自伝的小説『暗夜行路』によると、主人公は「最初四国へ行った帰りに連絡船が尾道に着き一泊した。宿から魚がつれるような感じで面白かった」ため、大正元年に家を出た時は尾道に来て「千光寺山へ上がって景色を見ていて、ここに住もうと決めた」とある。 復元された志賀直哉旧宅
今も残る直哉の仮住まい 直哉が大正元年11月から半年間住んだ長屋は、千光寺の参道から少し西側に入ったところに今も残っている。「彼はまた三軒長屋で東の端が貸家になっているのを見つけた。見晴らしは前の家よりよかった。ここにも親切なばあさんがいて【略】、この初めての土地になんとなくいい感じを持った【暗夜行路】」、以前は半ば朽ち果てて荒れ放題だったこの長屋も、今では立派に復元され 文学資料館となっている(田口義之「備後の歴史と人物」) |
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平田玉蘊
尾道の生んだ女流画家 女流画家として知られる平田玉蘊【ひらたぎょくおん】は、天明7年【1787】尾道の豪商福岡屋の次女として生まれた。本名は豊という。幼少より絵筆を好み、始め尾道の画家福原五岳に学び、後京都に遊学し丸山応挙門下の八田古秀に師事し、自らも研鑽を重ね、明・清の画法を取り入れるなど晩年まで工夫を怠らなかったと云う。代表作には尾道福善寺本堂の襖絵「雪中松竹梅」、浄土寺玄関の衝立絵等があり、女性には珍しく雄健な筆を揮っている。 玉蘊筆
悲恋の佳人
彼女を有名にしたのは、言うまでもなく頼山陽との交際である。玉蘊が初めて頼山陽と出会ったのは、文化四年【1807】九月の事と言われている。その日竹原の照蓮寺で頼家の法事があり、「一会の花」として招かれたのが、当時既に女流画家として佳名のあった玉蘊であった。二人はたちまち意気投合して深い恋いに落ちた。山陽28歳、玉蘊21歳の時の出来事である。 玉蘊遺愛の蘇鉄
キャリアウーマンのはしり
しかし、二人の恋は永くは続かなかった。文化10年【1813】秋、美濃【現岐阜県】に旅した山陽は、そこで江馬細香という新しい恋人に出会い、玉蘊との仲は急速に冷えていくのである。しかし、山陽と別れて以後も、彼女は絵筆を捨てなかった。それどころか、その技は益々冴え渡るのである。いわば彼女は自らの才能で生涯を過ごしたキャリアウーマンのはしりなのである。 玉蘊の墓(持光寺)
今も残る遺愛の蘇鉄
彼女は生涯独身で過ごし、幕末の安政2年【1855】6月20日に、69歳で無くなったが、その遺愛の蘇鉄2株は今も彼女の眠る尾道持光寺の本堂の前に残っている。(田口義之「備後の歴史と人物」) |
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大田荘と尾道
大田荘の倉敷地「尾道」 現在の港町尾道の起源が「大田荘」の倉敷地にあるのはよく知られている。大田荘とは現在の世羅郡の大半を占めた広大な荘園で、その年貢の積出港として指定されたのが「尾道村」であった。すなわち、尾道市の中心部は遠く離れた大田荘の「飛び地」であったのである。 天寧寺三重塔
大田荘をめぐる人々
この大田荘をめぐる歴史群像は多彩である。まず、荘園として開発申請を政府に申請した平重衡は、平清盛の五男で源平合戦の最中「南都の焼き討ち」を行ったことで知られる。すなわち、あの東大寺の大仏さんの首を最初に落とした人物だ。また、当時の荘園領主はその領有を確実にするため中央の権力者を「本家」として名目的な領主としたが、重衡が大田荘の本家と仰いだのは後白河法皇であった。しかし、大田荘の運命は平家の滅亡と共に一転した。源平合戦後、法皇は大田荘を源平合戦の戦死者を弔うための財源として、紀州の高野山に寄付したのである。こうして有名な高野山領大田荘が成立する。 万福寺跡層塔(世羅町堀越)
記録によると、鎌倉時代、大田荘には「600町」の田圃があったとされ、、高野山にとっては正にドル箱的な荘園であった。その年貢は1800石に及び、尾道はその積み出し地として発展していったのである。大田荘の最盛時には、甲山から尾道を結ぶ街道は人や馬で溢れ、秋には年貢を運ぶ船で港はごった返したのである。鎌倉時代後期の文書によると、当時の尾道には千軒の家が甍を連ね、立ち並ぶ蔵には財宝が満ちていたと言う。 (田口義之「備後の歴史と人物」より) 浄土寺多宝塔
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