備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

芦田の歴史

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有地氏の盛衰
 戦国時代、芦田町一帯を本拠に備後国人衆の一人として威を振るったのは、宮氏の一族有地氏である。
 
 宮氏は平安時代の関白藤原実頼の後裔と伝え、旧奴可郡(現在の比婆郡東部)を本拠に南北朝期には備南に進出し、室町時代には「備後殿」と呼ばれ、備後を代表する国人として活躍した。
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国竹城址
 有地氏は、宮氏の惣領筋の一つ、南北朝時代に備中国の守護職を務めた宮下野入道道仙を始祖とする「宮上野介家」の庶家と伝える(『萩藩閥閲録巻八十三』など)。新市町相方本泉寺の位牌や熊野常国寺の曼荼羅等によると、初代は日蓮宗の熱烈な信者であった宮信定(長門民部左衛門尉)で、以後、石見守清元、刑部少輔隆信、民部少輔元盛と続いた。現在も町域には日蓮宗の信者が多いが、これは有地氏歴代が熱烈な日蓮宗の門徒であったためである。
 
 清元に関する確実な史料はないが、次の隆信の代になると各種の史料に現れる。隆信は早くから安芸の毛利氏に属していたようで、弘治三年二月の毛利元就他十七名連署の起請文には、他の備後国人木梨隆盛(尾道の国人)・古志豊綱(本拠福山市本郷町)・和智誠春(吉舎町南天山城主)等と肩を並べて署名している。隆信、元盛の代は有地氏の全盛期で、伝承では周辺の諸氏を討って領地を拡大し、西は栗柄、東は駅家町の近田まで支配下に置き、天正初年には新市周辺の宮氏の旧領を取り戻し、本拠を相方の城山に移したという(有地殿先祖覚等)。
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城址に残る手水鉢
 これらの伝承を裏付ける史料は少ないが、有地氏の残した城跡は、同氏の盛衰を如実に物語っている。有地氏初期の本拠と伝える国竹城は、低丘陵上に築かれた館城で本格的な山城とは言えない。しかし、隆信が築いたと伝える大谷・殿奥の両城は近在でまれに見る本格的な戦国山城で、隆信の代に有地氏は飛躍的に勢力を拡大したことが見て取れる。さらに、元盛が天正初年に築城したと伝える相方城は、白壁瓦葺・総石垣造りの山城で、元盛の代になって有地氏の権勢が周辺諸豪族を圧倒したことを示している。
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元盛が築いた相方城址
 
 しかし、有地氏の勢力拡大は、豊臣政権下で百二十万石の大々名の座を占めた毛利氏の好むところではなかった。戦国大名から近世大名に脱皮しようとしていた毛利氏は自身の権力を確立するため、それまでは家臣というより同盟者の立場にあった芸備の国人衆に強烈な圧力を加え、これを屈服させようとした。これが天正十九年の「惣国検地」の目的である。惣国検地は、芸備地方の国人領主の所領にも容赦なく実施され、備後南部の国人衆の凋落となって現れた。それが古志・木梨氏の没落であり、杉原(神辺)・有地氏の出雲移封である。
 
 有地氏の移封の理由は明らかでないが、それまでの毛利氏に対する態度が問われたのであろう。ともあれ、こうして有地氏は備後を去っていった。芦田の中世の終焉である。田口義之「芦田の歴史」より
有地川流域の歴史、備後国福田荘
 
 中世、荘園制の時代を迎えると、町域にも荘園が設定された。史料に見えるのは『福田荘』である。この荘園は鎌倉時代に延暦寺青蓮院門跡領として史料に現れ、その後南北朝時代、杉原氏が地頭として入部した。問題になるのはその荘域と、地頭杉原氏と在地伝承との関連である。
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福田荘の鎮守「亀山八幡」
 ます、福田荘の範囲である。在地の伝承では「竹満荘」の名は知られているが、福田荘の名は欠けている。これをどう考えるかである。福田荘の中心地が現在の大字福田一帯であったことは間違いない。在地領主の氏寺であったと推定される「福田寺(福性院)が存在し、地頭の拠点であった利鎌山城跡も存在する。
 
 竹満荘の存在は否定的である。理由は福田荘は町域から遠く離れた、西南の尾道市高須町までを含んでいたと考えられるからだ。観応二年(一三五一)二月一二日、足利尊氏が杉原信平に恩賞として与えたのは「備後国福田荘高須」の地頭職であった。
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福田寺跡の石塔群
 これは尾道市高須町が福田荘に含まれていたことを意味する。飛地ということも考えられるが、『備後古城記』には福田の在地武士と考えられる福田・岡田氏の名が高須の古城主として書上げられている。芦田と高須の間に位置する「新庄本郷(本郷町)」は、福田本庄から分かれた新立の荘園と考えればよい。すると、福田荘は上下有地・樽磨を含むと考えられ、「竹満荘」は存在する余地がなくなる。
 
 竹満荘は福田荘の「地頭分」の別称と考えられないだろうか。荘園領主と地頭領主が現地を折半する下地中分は芸備地方では一般的で、福田荘も下地中分の結果、大字福田と大字有地に二分され、その領家分(或いは地頭分)が後世「竹満荘」と称せられた、こう考えたいのである。
 
 地頭杉原氏の伝承は在地では全く見られない。代りに伝えられているのは、本姓岡田氏という福田氏の系譜伝承である。
 
 在地武士としての福田氏は、歴史上の存在である。応永三四年十一月一九日の杉原行勝譲状に「福田太郎」の名が見え、戦国期には福田三郎左衛門尉盛雅の活躍が史料上で確認できる。
 
 問題は、これらの史料に見える福田氏と在地で伝承された福田(岡田)氏の関係である。結論を言えば、史料に見える福田氏は南北朝時代の地頭杉原氏の後裔と考えられる。
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利鎌山城跡
 理由は、杉原氏に伝えられた古文書を検討すると信平の子孫の一流が福田に本拠を置いたと考えられることと、利鎌山城の位置である。最近の新史料の発見によって備後杉原氏の本貫地は福山市の丸之内から本庄町一帯の「杉原保」であることが明らかになった。室町時代、杉原氏が府中の八尾城に本拠を置いていたことも明らかだから、八尾と杉原保との連絡が重要になる。その場合、高増山系の北と南に拠点になる山城を築いて備南支配の要にしようと考えたのではなかろうか。そして、その北の拠点が利鎌山城であり、南の拠点が山手町の銀山城であったと考えられるのだ。勿論、伝承に見える福田(岡田)氏が地頭杉原氏の後裔であるかどうかは、また、別の問題である。
有地と狩道郷
 大化の改新によってスタートした古代律令国家は大宝律令の制定と、平城京の建設によって一応の完成を見る。律令制下の郷土の歴史で常に問題になるのは、現在の地名と『和名抄』郷の関係である。律令制下の地方組織は、国―郡―郷の三段階の行政組織を採っており、その最下層の区分である「郷(里)」の比定が郷土史家の関心の対象になる。芦田郡は、明治になって品治郡と合併して「芦品郡」となった地域であるから、問題はない。問題は、芦田郡内の和名抄郷の何れが町内に存在したかである。
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下有地の景観
 『和名抄』に記載された芦田郡の郷名は次の通りである。
○ 佐味郷
○ 広谷郷
○ 芦浦郷
○ 都祢(常)郷
○ 芦田郷
○ 駅家郷
 
 この内、広谷、芦浦、都祢郷は現地名に対応するものがあり、問題はない。芦田・駅家郷は、郡の中心地であるから現在の府中市内に存在したことも間違いない。すると、芦田町内に存在した郷としては佐味郷が考えられるが、それよりも品治郡の郷として記録される「狩道郷」を現芦田町内に比定する説が有力である。町内には上下有地の地名が残っており、「有地」が「狩道」に転化したとする(『福山志料』など)。
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相方城より望む有地川合流点
 妥当な考えである。かりじが「あるじ」に転化したことは大いに考えられることで、町内には、郷の存在を裏付ける後期古墳も分布しており、私もこの考えに賛成である。(田口義之「芦田の歴史」より)
曾根田白塚の被葬者
 
 次にこの地域の歴史で問題となるのは、終末期古墳として有名な曾根田白塚古墳の被葬者である。終末期古墳とは、六四五年の、大化の薄葬令の後に築かれた古墳のことで、近畿地方の一部に集中的に存在する以外、地方では大変珍しいものである。大化の薄葬令は、原則的に高塚古墳を築くことを禁じた法令で、以後天皇や皇族、一部の貴族以外古墳を築かなくなる。また、その古墳も以前のものより規模を縮小し、切石で造られた石棺に直接羨道を付けた形式となる。曾根田白塚古墳もこの形式をもった古墳で、年代は七世紀の後半と言われている。
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曽根田白塚の石槨
 地方に終末期古墳が築かれた理由としては、二つの見方がある。一つは、地方の豪族が朝廷に出仕して大きな功績を立て、古墳の築造を許されたとするもの。もう一つは、皇族や高級官僚が地方に赴任し、任地で没してそこに葬られたとするものである。
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同 加工された石の継ぎ目
 曾根田白塚古墳の場合は、前者の地方豪族説がふさわしい。町内には石川王を祭った国司神社が存在することから、六七九年に吉備で亡くなった同人の墓とする考えもあるが、備後南部には他に二基の終末期古墳が分布しており、この考えを採ると説明がつかない。在地の豪族で朝廷に出仕して大きな手柄を立て、故郷に錦を飾った人物の墓とするのが妥当であろう。(田口義之「芦田の歴史」より)
有地川流域の歴史(1)原始古代
 芦田川流域の歴史は、支流から開けていった。縄文時代前期、今から六千年前に大きく神辺平野に広がった「穴の海」は、次第に狭まりつつも、歴史時代にはいっても御幸や森脇の辺りに痕跡を残し、有地川や服部川、加茂川などの河川は、当初は芦田川の支流と言うよりも、この穴の海に河口をもつ独立した河川であった。したがって、古墳時代までの各流域の歴史は、それぞれで大きな特徴をもっている。
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茶臼山遺跡(古墳)の石列
 有地川流域の古代遺跡は、今まで大きく誤解されていた。古墳時代後期の横穴式古墳は存在するが、それほど古く大きなものはないと考えられてきた。ところがこの遺跡の「空白地帯」と考えられてきた有地川流域の古代史は、ここ二〇年ほどで一変した。一九八〇年、駅家町大橋の石鎚権現遺跡が発掘され、その五号墳は全長三七㍍の前方後円墳であったことが判明した。また、十年ほど前には、新市町の相方で団地造成の事前調査として大規模な発掘調査が実施され、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓や住居址が多数発見された。五年前の「茶臼山遺跡」の発掘もまだ記憶に新しい。
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茶臼山遺跡の土抗墓
 これらは今まで我々が等閑にしていた、芦田川の右岸での発見である。これまで研究者は神辺平野の北側にばかり目を向け、南側は遺跡の希薄な所と考えて来た。これが誤りであったことをこれら一連の発掘が証明した。(田口義之「芦田の歴史」より)

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