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草戸千軒町遺跡の方形居館
鷹取城と渡辺氏(その2) 福山市草戸町
草戸千軒町遺跡で発見された居館(土居)の跡は、残念ながらもう見ることは出来ない。調査終了後、中州のほとんどが掘削され、遺跡自体が消滅したからだ(中州部分のみである。遺跡は周辺部にも広がっており、地中に残されている部分もある。誤解のないように…)。
方形居館があった辺り
発掘された居館跡は、一般に「方形居館」と呼ばれるもので、一辺が100㍍に達する大規模なものである、周囲には幅10㍍ほどの堀がめぐり、その内側には土塁が廻っていた痕跡が認められた。更に、この居館の北辺には一辺40㍍ほどの小規模な方形居館が付属していた。内部にはさまざまな遺構が確認されたが、中心的な建物は「礎石建物」で2度にわたって建替えられ、何度か改修されたようだ(鈴木康之「中世瀬戸内海の港町、草戸千軒町遺跡」シリーズ「遺跡を学ぶ」新泉社刊より)。
さて、問題はこの大規模な方形居館が「渡邊先祖覚書」の言う「今の土居」「草土本土居」かどうかだ。
私は以前は、この発掘された方形居館こそ渡辺氏の土居であると考えていた。理由は、その立地と存続年代にある。鈴木氏の前掲書や草土千軒町遺跡の発掘調査報告書によると、この方形居館は15世紀後半、おそらく応仁の乱終了後頃に現れ、16世紀初頭に廃絶するという。
掘削前の草戸の中洲 16世紀初頭と言えば、渡辺氏が草戸から山田(熊野町)に本拠を移した時期である。方形居館は渡辺氏の土居として使われ、同氏が山田に移った時点で廃棄されたと考えたのだ。
ところが、最近の研究成果はこの考えに否定的である。中世武士にとって居館の規模はその地位を示すものであり、100㍍(ほぼ一丁)四方のそれは守護か、或いは有力国人領主の居館に匹敵する。
さらに、方形居館が各地に築かれるのは応仁の乱後で、国々に下った守護は各々守護所として方形居館を構え、それも京都の将軍邸を模したもので、京都の文化が地方に拡散していくきっかけとなった。
時期と言い、規模と言い、草戸千軒町遺跡で発掘された「方形居館」は正に守護クラスの格式を示すものであった。渡辺氏の格式は守護被官、それも「小座敷衆」と呼ばれた、一郷一所を領するのみの小国人、或いは土豪である。この方形居館の主人には似つかわしくないと言える。
では、誰がこの居館の主かといえば、備後守護、或いは守護代職にあった人物、更に言えばこの時期の守護であった山名俊豊、守護代山内直通が相応しいと考える。
「渡辺先祖覚書」3行目に「草土に於いて直通其の外作らせ」とある 「渡辺先祖覚書」を読むと、丁度この方形居館が存在した頃、守護代の山内直通が敵対していた備中陶山氏と草戸で「参会」したとあり、この地に守護に関連した何らかの施設が設けられていた可能性が高い。その施設こそ、この方形居館であったのではなかろうか…。(「新びんご今昔物語」大陽新聞掲載) |
渡辺氏の城館
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鷹取城と渡辺氏 福山市草戸町
福山市草戸町には既に紹介した中山城と半坂山城の他に、もう一つ鷹取城というのがあったと伝える。
鷹取は旧草戸村の「字」の一つで、改修前の芦田川の中州の東南部周辺を指す。改修前の芦田川には、二股に分かれた東側の流れには「鷹取橋」が架かり、本流には「銭取橋」が架かっていた。ちなみに、今の草戸大橋は、ほぼ旧銭取橋の位置に架かっている。
旧鷹取橋の欄干
鷹取中学校の校名はこの「鷹取」に由来し、現校門前には河川改修で撤去された旧鷹取橋の標柱が記念に保存されている。
この城跡について『西備名区』には記載がなく、『備陽六郡志』外編分郡之二、草戸村の所に、
「古城壱ヶ所 鷹ノ取 城主
渡邊 」
とあるのみである。
草戸に於ける渡辺氏の居城については、『渡辺先祖覚書』に二箇所ほど出てくる。
一つは、初代渡辺高が備後に土着するくだりである。
「かしよき備後国悲田院領所に庄主たるによって(高を)つれ、備後草土村へ下向し、今の土居に湯やの坊と申す山伏居られ候に預け置き(下略)」
親類の「かしよき」に連れられて備後草土(戸)村にやってきた渡辺高は、草戸の「今の土居」に居た「湯やの坊」と呼ばれる山伏に預けられたというのが、そもそも備後渡辺氏の興りであった。
もう一ヶ所は、高の曾孫兼が応仁の乱で東軍に味方して敗れ、許されて草戸に帰ってくる個所である。
「(西軍に降伏した兼は)井下の島(弓削島)より小水呑(水呑町)まで罷り上り、一両年在身にその後草土本土居へ安堵せしめ候(略)連々堀を掘り普請申し付け土居かたちに仕り候(下略)」
主君山名是豊の没落によって、一度国外に逃亡した渡辺兼は、弟小三郎を備後守護代の宮田教言に人質として差し出し、許されて備後に帰国し、草戸の「本土居」を修築して本拠とした、というのがその要点である。
草戸千軒の中洲跡
問題は、初代高が預けられたという土居と、兼が「本土居」と呼んだ渡辺氏の居館が同じものかどうかという点と、江戸期の文献に記載された「古城壱っ箇所、鷹ノ取」の関係である。
結論から言えば、応永年間(一三九四〜一四二八)、初代高が預けられたという土居と、四代兼が修築したという本土居は同じものである。
『渡辺先祖覚書』は四代兼が享禄三年(一五三〇)から天文三年(一五三四)にかけて著した自身の覚書である。その兼が湯やの坊が住んでいた土居を「今の土居」というのだから、それは兼自身が修築し、天文三年時点でも存在していたであろう、草戸の「本土居」のはずである。
この渡辺氏の「本土居」が鷹取城であるかどうか、という点になると、話はやや微妙になる。あの有名な草戸千軒町遺跡の発掘調査で、渡辺氏のものではないかという、土居屋敷の跡が発見されているからだ…。(「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)
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半坂山城と近藤左衛門尉ー広島県福山市草戸町ー
最近、数ヶ月に一度の割合で福山市草戸町の「川西地区」の史跡を訪ねている。
草戸町はここ120年で大きく変貌した。昭和初年まで、芦田川は本庄青木が端で二股に分かれ、その中州に草戸の人々の農地があった。ところが、大正末期からの河川改修工事で芦田川は一本に統合され、中州は河川敷となった。結果、草戸は川の東と西に大きく分かれ、本来の「村」であった川の西側地区は「川西」と呼ばれるようになった。
昨今の歴史ブームで、川西地区の人々も、自分たちの町を見直そう、という機運が起こり、「草戸川西街道」(仮称)という住民グループが立ち上がり、歴史の案内人として私が呼ばれた。ここに足しげく通うことになった理由だ。
草戸川西街道のメンバーと共に
歩いてみると、古くからの土地であるだけに、そこかしこに中世の息吹を見つけることが出来た。何しろ有名な「草戸千軒町遺跡」の隣接地だ。一木一草にも歴史が宿っている感じだ。
中でも、旧街道の探索は興味深いものだった。今は堤防上の県道を車が地響きを立てて通り過ぎるのみだが、古い町並みに入ると、近世以来の古い道路が生活路として今も使われている。
旧道を通ると、今は失われた景観が頭の中によみがえってくる。旧銭取橋(現草戸大橋)を渡った街道は「大鳥越」を越えて半坂の谷に出、更に向かいの谷に入り、長和の志田原から峠の「かんかん石」を越えて旧山田村(熊野町)に通じていた。
中世の山城もこの旧道に沿って点々と残っている。「大鳥越」を見下ろすようにそびえているのが以前紹介した中山城だ。そして、半坂から志田原に向かう旧道が山に入る直前の尾根突端に築かれていたのが半坂山城であった。
今回の探索で、旧道が志田原の山に入る少し西で、半坂山城主であった近藤左衛門尉の墓石を見学することが出来た。確かに中世にさかのぼる石塔で、今まで歴史の闇の中で霞んでいた近藤左衛門尉が急に目の前に現れたような、新鮮な感動を覚えた。
半坂山城は、志田原から北に伸びた丘陵が半坂の谷になだれ込む幾筋かの尾根の一つを利用して築かれた山城であった。
残念ながら、城跡の大部分は土取工事や道路の建設で破壊され、東に一段下がって築かれた曲輪の一部が民家の敷地として残っているのみだ。
昭和20年代に撮影された半坂山城址
城跡の面影は、昭和二十年代に撮影されたと推定される写真によって偲ぶことが出来る。
写真は明王院裏山の通称山岳公園の南端の山頂から撮影したと考えられる白黒写真で、中央やや右手(西より)に在りし日の半坂山城跡が写っている。
東西100㍍余りの小さな丘で、山頂が平らに均され、径40㍍ほどの平坦地となっている。其の左に一段下がって今も民家の建つ平坦地が確認できる、二の曲輪の跡だろう。
半坂山城は、古写真によって往時が確認できる稀有な例だが、城主近藤左衛門尉については、墓石が残っているのみで詳しいことは不明だ。長和庄内で興亡を繰り返した在地武士の一人であったのであろう。詳しい研究はこれからだ。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より) |
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