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新備後物語(9)―惣領と庶子―
裁判の時代
鎌倉時代から南北朝時代の史料を読んでいると、裁判関係の文書の多さに驚かされる。ほとんど9割が訴状や判決のたぐいと言っていい。幕府が政所や問注所などの裁判所の充実に力を入れたのもよくわかる。
室町幕府執事奉書
山内通氏の訴えを認め、幕府両使に下地の
打渡しを命じたもの
初期の頃は、荘園の権利を争うものが多い。中期になると、幕府の支配権の拡大とともに領家と地頭の争いが増えてくる。当初、幕府は領家(荘園領主)の訴状は管轄外として受けつけなかったが、承久の乱の結果、西日本に支配が及ぶようになると受理するようになった。備後地方でも、この時期、領家と地頭の訴訟はほとんどの荘園で見られ、大田庄(世羅郡)の例では、幕府の裁判所は決して地頭有利ではなく、領家側の勝訴に終る場合もあった。後期になって増えてくるのが、惣領と庶子の争論である。
惣領制
相続制度からみると、鎌倉時代は「分割相続」の時代であった。親の財産は、嫡子に多く譲られたが、その他の兄弟姉妹にもまんべんなく分け与えられた。このように述べると、現代の相続法と似ているように見える。だが、一つだけ違うことがあった。兄弟の中の一人(嫡子という)が「惣領」として所領全体を統括する権利を持っていた。嫡子以外(庶子という)にも所領は分け与えられたが、それは限定的なものでしかなかった。庶子が惣領の命令に背くと、惣領は庶子の所領を没収することが出来た。
山内氏の位牌
通資が山内氏惣領である
惣領の権限がこのように強いと、「惣領職」をめぐる争いが必然的に起こってくる。また、惣領と庶子の権限は明確に分かれていたわけではないから、その権限をめぐる争いも多発した。備後でも、地毘庄(庄原市本郷)の地頭山内首藤氏で惣領と庶子の争いが起こり、幕府の法廷に持ち込まれている。
天皇家の分裂
惣領職をめぐる争いは、社会のあらゆる階層で見られ、社会不安のもととなった。中でも最も問題となったのは天皇家の「惣領」をめぐる争いであった。1272年、永く天皇家の惣領として政務をとった後嵯峨法皇が崩御した。法皇には3人の皇子があった。長男が将軍となった宗尊親王、次男が後深草天皇、三男が亀山天皇である。宗尊親王は別として、法皇の後継者とて後深草天皇と亀山天皇の何れが「治天の君(天皇家の惣領)」に就くかで猛烈な争いが起こった。両者はことあるごとに対立し、天皇家の分裂として深刻な政治問題となった。後深草天皇の系統を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統という。手を焼いた幕府は、両者が交互に天皇の位につくという政策をとった。
日枝神社鎧(庄原市・重文)
山内氏の先祖が源義家から拝領したものという
1321年、大覚寺統の後醍醐天皇が天皇家の惣領の地位に就き親政をはじめた。意欲に燃える天皇の前に幕府の大きな壁が立ちふさがった。全国の地頭御家人の中にも惣領制を固く守る幕府に反感を持つものが増えてきた。こうして時代は鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱へと大きく動いていく。(田口義之「あしだ川」連載) |
新びんご物語
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新備後物語(八)―中世山城の起源―
断崖上の城塞
各地の史跡を訪ねていると、時に不思議な遺跡に出くわす。20年ほど前のことだ。神石郡油木町(現神石高原町)の教育委員会から依頼されて、町内の山城跡をしらみつぶしに調査したことがある。
断崖上の山城跡、追畑城址(中景のピーク)
夏の暑い日、地元の人に案内されて追畑城というのを訪ねた。小野という所にある山城跡で、道から降りて尾根道を歩いていくと30分程でその跡に着いた。見ると成羽川に臨んだ断崖絶壁の上ではないか…。はるか下に川筋が白く光っている。確かに城の遺跡と思われる平坦地と堀切はある、だが、周囲を見渡しても田圃はおろか家らしきものはない。
また、福山市山野町に田原城というのがある。これも山野峡の断崖上にある山城跡で、アマチュア画家やカメラマンが筆やカメラを向けている「聖岳」といえばご存知の方も多かろう。
田原城址(聖嶽)
これらの山奥の断崖上に築かれた山城跡に立って思うのは、こんな所に立て篭もって何のメリットがあるのだろうか、と言うことである。
館と山城
一般に、中世山城の起源は、在地武士の「館」にあると言われる。彼等は敵から身を守るために、館の周囲を掘や土塁で守りを固め、有事に備えて背後の山頂に山城を築いた。
御領「堀館」跡
山城跡の大部分は、こういった武士達が所領を守るために築いた山城である。だが、初めに述べた山奥の山城跡はこの考えでは理解できない。後の戦国大名が築いた見張りや連絡用の砦とも違う。周囲に街道や要所もなく、こんな所に城を築いても意味がないように思われる。
悪党と山城
ところが、歴史を調べていくと、一度だけこんな山奥の断崖上に城を築いた時期があった。鎌倉時代の末期のことで、こうした山城を利用した者達を当時の人々は「悪党」と呼んだ。
元弘の変で楠正成と東西呼応して挙兵した
桜山四郎入道(福山市・中興寺蔵)
悪党の「悪」は、猛々しいとか強いを意味した。勿論、彼等は今日の悪党に通ずることもやった。山賊や追い剥ぎ・こそ泥といった悪事も彼等の所業の一つであった。だが、鎌倉末期になると、悪党は幕府を脅かす存在となった。没落した御家人、幕府に反抗する武士たちが続々と悪党の群れに加わっていったのだ。この時期の幕府は「得宗専制」と言って北条氏の専制下にあった。御家人は北条氏の支配に甘んじるか、「新たな道」を選択するかの二者択一に迫られた。気骨のある者は、悪党となって北条氏に反抗した。彼等は、北条氏の討伐に備えて山奥に根城を築いた。追畑城や田原城といった山奥の断崖上の山城は、彼等悪党によって築かれた根城だったのである。
桜山氏の拠った桜山城址(福山市・国史跡)
悪党の登場は、幕府の命脈を縮めた。元弘元(1331)年、後醍醐天皇の倒幕の激に真っ先に応じたのは、楠木正成や赤松円心、備後の桜山四郎入道などの「悪党」であった。(田口義之「あしだ川」連載中) |
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鞆と尾道 ―新びんご物語(7)―
古代、都と九州の大宰府を結んだ山陽道は備後の山寄りを通っていた。備中から備後に入った山陽道は、神辺平野の北縁を通り、国府の置かれた府中を経由して、御調川沿いに安芸のに抜けていた。ところが、鎌倉時代も末期になると、このルートは利用されなくなり、神辺から南下して、郷分・山手から今津を通って尾道に抜けるようになる。
福山市駅家町の「最明寺遺跡」
山陽道の駅家跡と考えられている
なぜか、それは経済活動の活発化により、瀬戸内海を利用した海運が盛んになり、鞆・尾道という港町が経済の中心的な位置を占めるようになったからだ。
奈良・平安の古代は、言わば国家が経済活動を一元的に握って統制した時代である。交通は陸路によることを強制され、そのため山陽道その他の街道も当時の国力からすると分不相応に立派に整備された。が、米・塩その他の物資を運ぶのには水運を利用した方が安上がりで効率的なことは自明の理である。しかも、山陽道は波静かな瀬戸内海沿岸の国々を結ぶ。平安時代の終わり頃になり、律令体制が緩むと、人々は効率の悪い陸路を採るのを止め、盛んに「船」を利用するようになった。
潮待ちの港「鞆の浦」―海上より―
港町としての歴史は、鞆の方が古い。鞆の沖の備後灘は、東西から入る潮が出会う場所である。東から来た船は満ち潮に乗ってここまで航海し、引き潮に乗って西に向う。鞆が「潮待ちの港」と言われる所以だ。縄文・弥生の原始時代は別にして、奈良時代には港として利用されていたことは確かで、有名な「室の木」を詠んだ歌が『万葉集』に数首見えている。
鞆が歴史の表舞台に登場するのは、源平合戦の頃である。平家の部将として伊予(愛媛県)の河野氏を討伐した備後の奴可入道西寂は、ここで戦勝祝いの祝宴を開いている最中、河野氏の反撃によって捕えられているし、平家に味方した「鞆六郎」の名も『平家物語』に見える。
尾道水道の「関所」宇賀島城址
一方、尾道は世羅台地に広がる広大な荘園大田荘の「倉敷地」として発展した港町である。平安末期に成立した大田荘は六百町歩に及ぶ田畑を擁していたが、内陸部に位置していたため年貢の積み出し地を別に求める必要があった。こうして当時「尾道村」と呼ばれていた尾道が大田荘の年貢の積み出し地に指定され、同所が港町として発展する基となった。
尾道繁栄の象徴、浄土寺
尾道は、鎌倉後期になると内海屈指の港町として権力者たちの争奪の的となる。元応元年(一三一九)備後守護の長井貞重は、尾道に「悪党」が居住しているとして、守護代を尾道に討ち入らせた。当時の尾道は高野山領大田荘の倉敷地であり「守護不入」の特権を得ていたから、これは明白な守護の「無法」である。守護は無法をあえて犯してでも尾道の「富」が欲しかったのだ。ちなみに、この乱入事件で焼失した民家は千余軒に及んだというから、当時の尾道の繁栄ぶりはすでに相当なものであった。(田口義之「あしだ川」連載中) |
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備後の守護と地頭(3)ー石清水八幡宮領藁江庄ー
中世の人々
中世の人々の生活は、荘園の中で行われた。それは現代の私たちが福山市の「市民」、或いは神辺町の「町民」として生きていくよりも、もっと生活に密着したものであった。私たちは住民票を他市町村に移せば簡単に引越しできるが、中世の人々は違った。生まれ育った荘園を離れるということは、「流浪の民」となることであった。確かに中世を通じて、「遍歴」を重ねる人々は多かった。木地師や轆轤師は材料になる木々を求めて各地を渡り歩いた。また、芸能を生活の糧として全国を遍歴する人々もいた。しかし、彼等は荘園の農民と違って彼等なりの秩序があり、社会の構成員としてそれなりの収入を得ていた。だが、荘園から出た農民にはそんな生活の方法はなかった。糧を求めて各地を放浪し、飢饉ともなれば道端に白骨をさらすだけであった。
石清水八幡宮領藁江荘
福山市街地から西南に約10キロ、赤坂で国道を南に折れ、峠一つを越えると金江町に入る。かつての「藁江(わらえ)荘」の故地である。
現在の「藁江」は、金江町内の大字の一つになっているが、中世には松永湾岸のほぼ三分の一を占める広大な荘園であった。
荘園の中心が、ここ金見の八幡さんである。八幡さんの建つ丘は、荘園の東に聳える馬背山から西南に伸びた丘陵の突端で、ちょうど荘園の真中に位置する。
藁江荘の荘園領主は、京都の石清水八幡宮である。平安時代後期、この地に所領を得た石清水八幡は、領民を物心両面から支配しようとした。荘園のほぼ中央を占めるこの丘に八幡宮の分祠を建て、荘園の支配の要とする。荘園の住民から見れば、領主の支配は、神様の後ろ盾を持っている。反抗すれば神罰が下る。人々の心の中に、神や仏が大きな位置を占めていた時代、これでは領主に反抗することも出来ない。
藁江庄の鎮守近居八幡
こうして石清水八幡宮の藁江荘支配は順調に滑り出した。勿論、神様は実際に荘園の支配などしない。領主の代官が代って行なうのである。金見の八幡さんが建つ丘は次第に高さを増して馬背山に向う、そして、八幡さんから一つの谷を越えたところに「藁江城」と呼ばれる丘陵がある。登ってみると山頂は平らに均され、尾根続きには空掘の跡と思われるところも残っている。比高はさほどでもない、山城の跡と言うより中世の屋敷跡と言った方が良い。言うまでもなく、これは荘園を実際に支配した代官の居館の跡である。
八幡さんと神宮寺
藁江荘の初期の代官のことははっきりしない。金見の八幡社のすぐ東隣には「実蔵坊」という真言のお寺が建っている。あるいは初期の藁江荘には僧形の人物が代官として都から派遣され、荘園の管理に当たっていたのではなかろうか。明治維新までは神仏混合といって、神社の管理を僧侶がするのは当たり前のことで、神官より坊さんの権力の方が強かった。各地の有力な神社にはたいてい神宮寺と呼ばれる寺院があって、神社の実権を握っていた。おそらく実蔵坊もかつての神宮寺だったのであろう。本堂の前には南北朝時代の銘文を持つ宝筐印塔があって、歴史の古さを物語っている。
実蔵坊の宝篋印塔(永和四年銘)
地頭と代官
しかし、時代が下ってくると僧侶や神官では荘園の支配が難しくなってくる。特に鎌倉時代以降、武士が地頭として入ってくるとその支配は困難を極めた。地頭は実力で荘園を押さえようとして、次第に荘園領主の言うことを聞かなくなっていった。
京都の荘園領主にとって地方の荘園は命の糧であった。年貢が送られてこなくなるとたちまち彼等の経済は苦しくなってきた。
そこで荘園領主が採った手段が武士を領主の代官に任命して地頭に対抗させる、という方法であった。
鎌倉時代以降、武士というと地頭というイメージがあるが、そんなことはない。鎌倉・室町期、地頭でない武士はいたるところにいた。特に、瀬戸内海地方には多かった。彼等は、もと平家の家人だった者や、幕府の御家人になることを嫌って朝廷に仕えた武士たちで、幕府に反感を持っていた。
彼等は荘園領主から荘園の代官に任命されることで在地に力を伸ばそうとした。こうなると荘園の支配は武士同士の勢力争いの様相を呈してくる。荘内には武士たちの拠点として山城が築かれ、武士たちの小競り合いが日常的になって来た。
藁江城址
藁江城と赤柴山城
金江町の藁江城もこうした武士同士の勢力争いの中で築かれたのであろう。藁江荘には地頭が置かれた形跡はないが、南北朝、室町と時代が下るにつれて、武力がなければ、荘園の支配などとうていできない世の中となっていった。
八幡さんから北を望むと、山頂を平にした山が目に付く。赤柴山城跡である。標高260メートル、山頂は三段に削平され、周囲には石垣を築いた跡も残っている。江戸時代の記録によると、応永年間(14世紀末)藁江九郎左衛門繁義がこの城に居城し、同五年(1398)、渡辺氏にこの城を譲って藁江城に移ったと言う。
赤柴山城址
城跡の伝承に出てくる藁江氏や渡辺氏もこうした中で、浮かんでは消えていった荘園武士の一人なのであろう。
だが、この荘園からは、地付きの豪族はとうとう現れなかった。戦国時代の初め、九州探題を勤めた渋川氏の一派は備後に土着し、東隣の山南を本拠としてこの地をも実力で占拠した。赤柴山城には渋川氏の代官が居城し、藁江氏や渡辺氏を押さえて荘園に君臨した。石清水八幡宮領藁江荘の終焉である。(田口義之) |
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備後の守護と地頭(その2)
荘園と武士
中世は荘園と武士の時代であった。しかもこの両者は当初より切っても切れない関係にあった。時は平安の終わり頃、各地の有力者は競って原野を開墾して、所領としていった。しかし、この開発は平穏に行なわれたものではない。周囲には同じように所領を拡大しようとする競争者があり、支配下の有力農民の間にも機会があれば主人を押しのけて自ら領主に成上がろうとするものがいた。ライバルを蹴落とし、所領を支配するには武力がいる。こうして各地に続々と武士団が誕生した。彼らはより有力なボスの下に結集して利権を守ろうとする。復習になるが、これを経済的な見地からみれば「荘園」の発生となり、社会的な見地から考察すれば「武家政権」の誕生となる。すなわち、荘園のあるところ武士がいたはずなのだ。福山地方にもその痕跡はある。
吉津庄と杉原保
吉津庄と平居士
福山市街地の北には、木之庄から吉津・奈良津となだらかな丘陵が続いている。この丘陵は奈良津の東で大きく隆起し、蔵王山の山塊を造り、さらに谷を隔てて宇山から神辺町の竹尋にかけて欝蒼とした山林を形成している。中世、この山塊の南麓には「吉津庄」或いは「吉津保」と呼ばれた荘園が存在した。現在、吉津の地名は「北吉津」などわずかに名残を止めているに過ぎないが、かつては広大な面積を持った荘園であった。中世の文書には「吉津庄内木之庄」「吉津庄内千田村」「吉津保内宇山村、市村」とあって、木之庄はおろか千田・宇山・市村(現蔵王町)もその範囲に含まれていた。
南北朝時代の建武年間(14世紀前半)、この地に一人の僧侶が足を止めた。後に臨済宗永源寺派の開祖となった寂室元光である。寂室は建武元年(1331)、この地の「平居士」に招かれて約3年滞在し、清新な禅風を広めた。寂室語録によると居士は寂室に傾倒して、自らの居宅を寂室に提供し寺とした。これが室町期に全盛を極めた永徳寺の開基伝承であるが、この「平居士」なども吉津庄内に力を持った在地勢力の一人であろう。
胎蔵寺釈迦如来胎内文書
この文書の発見によって杉原保は
福山市の丸の内から本庄一帯であることが判明した
今日、吉津の平居士は室町戦国期に備後の代表的な在地豪族として知られた「杉原氏」の一族と考えられている。今の城山にはかつて「常興寺」という禅宗の伽藍が存在した。この寺の什物に「杉原常興寺」と記されたものが近世まで伝わっていた(備陽六郡志)。また、本庄八幡社には杉原氏の先祖平貞盛を祭る境内社が存在したという(福山志料など)。
長井氏と長和庄
福山市の西部瀬戸町一帯に存在した荘園長和庄にも、在地土豪の痕跡が残っている。同町長和に所在する的場山城は、低い丘陵上に築かれた典型的な初期城館跡だが、この城は近世の地誌によると、長和弾正左衛門なる人物が居城し、源平合戦に平家に味方して滅んだと伝える。この長和氏なども在地生えぬきの武士の一人であろう。
田総家文書4号
長和庄の場合、鎌倉期に地頭として入部した長井氏の活躍が有名である。長井氏は鎌倉幕府草創の功臣大江広元の嫡流にあたる関東御家人で、広元の次男時広が出羽長井庄(山形県)を本拠として長井氏を称したのに始まる。ちなみに、のちに戦国大名として芸備地方を支配した毛利氏は広元の四男季光の子孫にあたり、元就が備後に勢力を伸ばすにあたっては惣領家にあたる長井一族の援助が大きかったと言われている(福山市史上巻など)。
的場山城址に残る中世の石塔
長井時広は鎌倉幕府から備後守護に任命され、一族は各地に土着して、在地の豪族となった。長和庄の地頭職を相伝したのは、田総長井氏(本拠甲奴郡田総庄)と福原長井氏(本拠三上郡信敷庄)で、それぞれ室町時代後期まで長和庄の東方地頭職と西方地頭職を保持した(田総文書など)。長和庄内に本拠を置いた長井一族もあったようで、同氏の系図には「長和」を名字とした者もいた(尊卑分脈)。
草戸千軒の繁栄と長井氏
長和庄は現在の瀬戸町から佐波・草戸・水呑・田尻町一帯を庄域とした広大な荘園で、その年貢積出港・市場として繁栄したのが有名な草戸千軒町遺跡である。
国宝明王院五重塔
直接の史料は残されていないが、この草戸千軒町の繁栄と長井氏は密接な関係があったと考えられている。その一つの証拠が現明王院五重塔の伏鉢に刻まれた銘文である。伏鉢の銘によると国宝の五重塔は、貞和4年(1348)「沙門頼秀」の勧進によって再建された。実はこの「頼秀」の名は長井氏の系図に出てくる名前と一致するのである。系図によると時広の三男泰茂は「長和」を名字とし、その次男に「頼秀」という人物が現れる。また、他の記録からもそれをうかがわせるものがある。現明王院は中世「常福寺」と称した「律宗」の寺院であったが、この「律宗」こそ、鎌倉幕府の執権北条氏が支援した宗派であったのだ。長井氏は幕府の要人として北条氏と緊密な関わりを持った御家人であった。北条氏の庇護下に備後の守護を務めたと言ってもよい。すなわち、律宗の寺院が存在するところは長井氏の勢力が強く及んでいた、と考えて良いのだ。
草戸千軒町遺跡のあったあたり
或いは、長井氏はこの長和庄内(もっと言えば草戸千軒付近)に守護所を置いていた可能性がある。備後国内で律宗の寺院が存在したのは、ここ草戸と尾道、大田庄内(現世羅町)の3ヶ所、いずれも長井氏が触手を伸ばした地域である。
いずれにしても当時の武士は経済感覚が鋭敏であった。「町」は宝の山のような存在であった。取引に税金を懸けることも出来るし、年貢米の売買で莫大な利益をあげることが可能であった。鎌倉という大都市の住人であった長井氏が草戸千軒の繁栄を見逃すはずはない、と考えるのだが…。(田口義之「あしだ川」連載中) |








