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備後の守護と地頭 新びんご物語(その三)
備後守護土肥実平
初代の備後守護として名を残したのは、安芸の戦国大名小早川氏の始祖としても有名な土肥実平である。実平は相模国(現神奈川県)の豪族中村庄司宗平の次男で、父の所領のうち土肥郷(同県湯河原町)を譲与され、在名をとって土肥次郎と名乗った。源頼朝の挙兵にはいち早く馳せ参じ、石橋山の合戦で自害を決意した頼朝に、「大将の自害には、それなりの作法があるもの…」とたしなめた話しは有名である。以後、平家追討の戦には源氏の有力部将として活躍し、平家滅亡後は備後に留まって初代の備後守護となった。
大田庄の石造物
(世羅町堀越、万福寺跡石層塔)
実平の備後支配はかなり手荒なものであったらしい。当初守護には特定の収入はなく、地頭職を与えられ、その収益で守護の職責を果たすのが例であったが、実平は地頭職を与えられるとさっそく現地を押領し、荘園領主に訴えられている。例えば、甲奴郡の有福庄(甲奴郡上下町)の場合、実平の代官は庄内に入部すると、京都に送られるはずの年貢を地頭の取り分として押さえてしまい、後白河法皇に泣きついた荘園領主は、法皇から頼朝に実平退去の命令を出してもらい、やっと荘園を取り戻している。また、たびたび紹介する世羅郡の大田荘の場合も、下司の橘氏が実平の命令と称して荘園を横領し、これまた荘園領主の訴えを受けた後白河法皇の命令により、実平の「不法」を停止するよう頼朝の下知状が出されている(高野山文書)。
実平伝承
土肥氏の備後土着は、結局成功しなかった。これは、実平の現地での「不法」にたまりかねた京都の荘園領主が、幕府に泣きついたことにもよるが、一つには頼朝死去後の幕府の権力闘争で土肥氏が敗北したためでもある。すなわち、健保元年(1213)の和田義盛の乱で土肥氏の本宗家は和田氏に味方し、北条・三浦連合軍と戦って敗北、滅亡した。なお、実平の孫茂平はこの時安芸の沼田庄にいて難を逃れた。この茂平の子孫が戦国時代、毛利元就の三男隆景を養子に迎えて戦国大名に雄飛した小早川氏である。
小早川氏の居城高山城址
(三原市本郷町、左は新高山城址)
土肥氏の備後支配はこのように短期間に終ったとは言え、初代の備後守護だっただけに、各地にいろんな伝承を残している。実平が知行したという有福庄は、頼朝の退去命令により土肥氏は庄内から追い出されたはずだが、ここには有福城という立派な中世山城跡が残り、城主の竹内氏は実平の子孫と称し、南北朝時代、この城に拠った竹内弥次郎は、安芸の小早川一族に応じて南朝方の旗を挙げている(山内首藤家文書)。
竹内兼幸の拠った有福城址
(府中市上下町有福)
また、実平築城と伝える山城跡も各地に残っている。有名なのは駅家町の服部に残る原城と泉山城の跡である。
地元に伝わる伝承によると、実平ははじめ蛇円山の東肩に位置する原城を築いて居城としたが、あまりに高所で不便なため、南麓に泉山城を築いて移ったという。確かに原城は比高300メートルに達する峻険な山城で居住には適さないが、泉山城は肥沃な服部谷のほぼ中央に位置する典型的な初期山城で、実平時代の築城としても矛盾はない立地である。比高70メートルほどの山上は三段に削平され、南の麓には「土居」と呼ばれる平時の居館の跡がのこっている。
土肥実平の築城と伝える泉山城址
(福山市駅家町服部雨木)
果たして、この二つの城が実平によって築かれたものがどうか、史料的な裏づけはないが、戦国時代まで付近には実平の後裔と称する桑原・光成両氏の活躍が知られ、実平自身がこの地に来たかどうかは別にして、この地が土肥氏由縁の地であることは間違いなさそうである。
山内首藤氏と広沢氏
初期の地頭として有名なのは備北地毘庄(庄原市北部)の山内首藤氏と、三谷郡(三次市東南部)の広沢氏である。
山内首藤氏は、相模国山内庄(神奈川県鎌倉市)を名字の地とした東国武士で、源家譜代の郎党にもかかわらず石橋山の合戦では平家に味方し、そのため一時は所領を没収され没落に瀕した。ところが幸いなことに、当主経俊の母「摩々の局」が頼朝の乳母であったところから、一命を助けられ、平家追討の功績によって伊勢・伊賀の守護職を与えられるほど勢力を回復した。
山内首藤氏初期の居城、蔀山城址
(庄原市高野町新市)
備後と山内首藤氏との関係も「摩々の局」を抜きにして語れない。平家追討の功績によって二カ国の守護という大名の座を獲得した経俊であったが、好事魔多しで、元久元年(1204)、経俊は平家残党の蜂起に際して「卑怯」の振る舞いがあったとして、この二カ国を没収されてしまう。ここで再び登場したのが魔々の局である。既にこの時、頼朝は亡くなっていたが、局は幕府の有力者に猛烈な嘆願を行ない、二カ国没収の替わりに備後国地毘庄の地頭職を獲得することに成功する。この時、山内首藤氏の本拠山内庄は早くに没収され同氏の手元になかったから、これは魔々の局の手によって山内首藤氏が「一所懸命」の地を獲得したことを意味する。中世の女性のたくましさを示す逸話である。
広沢和智氏の館跡
(三次市和知町)
一方の広沢氏もまた、生粋の東国武士である。広沢氏は、ムカデ退治で有名な「俵藤太」藤原秀郷の後裔と伝え、上野国広沢(群馬県桐生市)を名字の地として「広沢」を称した。源平の内乱に際して、広沢与三実方は備前藤戸(岡山県倉敷市)の合戦で戦功を挙げ、乱後の恩賞として備後国三谷郡十二郷の地頭職を与えられたものである。
和智氏実画像(三次市大慈寺蔵)
山内首藤氏の場合、東国の本領を没収されたため、惣領家自身が後に備後に本拠を置くことになるが、広沢氏の場合は、惣領家自身は以後も東国に本拠を置き、庶家(分家)の者を惣領の代官として備後に派遣した。一族は和智(三次市和知町)と江田(同向江田町)にそれぞれ館をかまえて土着し、南北朝の動乱が始まると東国の惣領家との縁も切れ、独立した在地領主として勢力を拡大していった。これが後に山内首藤氏とともに備後の戦国史をリードしていくことになる広沢和智氏と、広沢江田氏の起こりである。(田口義之「あしだ川」連載中) |
新びんご物語
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幻の古代豪族
中世武士と近世の侍
中世は武士の時代である。武士と言うと、我々は江戸時代の侍をイメージする。ちょんまげを結い、大小の刀を腰に差し、裃を着てお城に出仕する。住まいは城下町にあり、藩より定期的に禄米を頂戴し、基本的に地方の農村に出かけることはない。
だが、平安の末に世の中の主役として登場した中世武士は違う。彼等の住まいは草深い農村の中にあり、平時は、農民と共に農業にいそしんだ。とうよりも、農民の中の有力者が武士であったと言うほうが分かりやすいかもしれない。
堀館跡(福山市神辺町)
田の畔に堀や土塁の痕跡が残る
彼等の住居は水をたたえた堀に囲まれ、その内側には高い土手をめぐらせていた。土塁だ。土塁は当時「土居」と呼ばれ、彼等の住まいそのものを「土居」と呼んだ。今日でも各地に「土井」とか「でい」と呼ばれる場所があるが、それは彼等中世武士の屋敷跡であることが多い。
中条土居館跡(福山市神辺町)
中世武士の居館跡がそのまま宅地として利用されている
今、こころみにそうした場所に立ち、周囲を眺めてみよう。すると、一つの顕著な事実に気付く。それは、その場所が村一番の地味豊かな「田」であることである。つまり、武士というのは元々農民であって、その有力者に過ぎなかった、ということをこれらの事実は示している。
なるほど、近世の大名や武士の系図を見ると、麗々しく清和源氏の出であるとか、先祖は藤原氏の某であるとか記されている。だが、それはほとんどこじつけである。武士が天下を取り、支配者としての権威を身につけるために系図を飾ったに過ぎない。有名な話では今話題の徳川氏がそうだ。江戸時代に作られた徳川将軍家の系図を開くと、先祖は清和源氏の名門の出であり、我々は取るベくして天下を取ったのだと述べてある。しかし、これは真っ赤な偽りである。家康ははじめ藤原家康と署名しているし、徳川の系図は家康の依頼で京都の公家が「鼻紙」に書き写した某家の系図が元になって捏造されたものであることが、今では明らかになっている。
備後渡辺氏系図(福山市常国寺蔵)
これは信憑性の高いものである
こうした江戸時代に作られた「系図」は、我々が知りたい中世武士の世界を闇の彼方に追いやってしまった。土から離れた江戸時代の侍は、土にまみれた先祖の様子を自分の手で消し去ってしまったのである。
根強い古代豪族の生命力
草深い農村から生まれた武士の世界を思うとき、忘れてならないのは、古代豪族と中世武士の関連性である。古代の豪族は中世の開幕と共に消え去ったのであろうか。そんなことはありえない。
たとえば、古墳時代の吉備穴国造の系譜を引くと考えられる「安那氏」がいる。穴国造は旧安那郡(深安郡神辺町から福山市東北部にかけての地域)に勢力を持った古代豪族で、神辺平野東北部の巨大な古墳は彼等の墳墓と考えられている。安那氏のことは平安時代の文献にも登場し、古墳時代以来勢力を維持していたことが知られるが、御調八幡神社所蔵の版木によれば、鎌倉時代の嘉禎2年(1236)に至っても「安那定親」なる人物の活躍が知られるのである。
紀臣の文字瓦が発見された史跡「宮の前廃寺跡」
(福山市蔵王町)
また、古代の大豪族「紀氏」も古代から中世にかけて福山地方で活躍した古代豪族の一人である。
紀氏の活躍は意外なところに痕跡を残していた。一つは平安時代の説話文学の代表例として知られる『今昔物語』である。面白いのですこし紹介してみよう。
「今は昔、大蔵大夫紀助延という人があった。その助延が備後国に用事があって滞在していた時の話である。助延の家来が海岸で亀を見つけて遊んでいると、一人の家来がふざけて、『そいつは逃げた俺の女房だ。ここにいたのか』と言って、亀の口にキスをしようとした。ところが首をすぼめていた亀は突然首をのばし、その家来の口に噛みついた。引き離そうとしても、どうしても放さない…」(『今昔物語』巻二十九本朝付世俗 大蔵大夫紀助延の郎党唇を亀に食はるる語第三十三)
説話はその様子を面白おかしく描写し、男の間抜けさを強調しているわけだが、ここで注目したいのは、口を亀に噛まれた男ではなく、備後国に用事があってやってきたという紀助延という人物のことである。
「紀貞経」の墨書銘が発見された国宝明王院本堂
(福山市草戸町)
実は、紀氏に関しては福山には2つの注目すべき記録が発見されている。一つは、蔵王町の国史跡宮の前廃寺跡から出土した文字瓦である。宮の前廃寺跡は奈良時代に創建された海蔵寺の遺跡と言われ、数次の発掘によっておびただしい古代瓦が出土したが、その中に「紀臣和古女」「紀臣石女」と刻まれた瓦が発見されたのである。これで奈良時代福山湾岸に紀氏が勢力を持っていたことが判明した。さらに注目されるのは国宝の寺明王院の解体修理で発見された本堂内陣の墨書銘である。予想もされなかったことだが現明王院の本堂は鎌倉時代末期の元応3年(1321)、「紀貞経代々二世」の力によって建てられたことが判明したのである。
この二つの資料だけでは鎌倉末期の紀貞経が奈良時代の紀氏の後裔であると即断はできない。が、これに先ほどの『今昔物語』の紀助延を加えるとどうだろう。奈良・平安・鎌倉と紀氏の活躍が連綿と続いているわけで、これはどうしても福山湾岸に紀氏が古代以来勢力を持っていたと考えるほかない。
しかし、紀氏の存在を伝える近世の記録は皆無である。これはどうしたことであろうか。紀氏は長い戦乱の中で滅んでいったのであろうか。勿論、それも考えられる。だが、江戸時代の作為された大量の系図群を見ると、それよりも同氏の一族は姓を「源平藤橘」に替え、姿を変えて生き延びていったとした方が良い。
宮氏の素性
たとえば、室町時代から戦国時代にかけて備後最大の勢力を誇った宮氏である。同氏の主流は戦国の荒波の中で毛利氏と対立し、敗れて滅んでいったが、今まで藤原摂関家の一人平安中期に活躍した関白小野宮実頼の後裔とばかり考えられていた。室町期の宮氏は皆「藤原」を称しており、戦国初頭の宮氏の画像の賛文に「小野宮四海の政に接し、聖化を翼賛す。居士以ってその苗裔たり」とあって、宮氏自身それを称していたことがわかる。
宮景盛画像(庄原市浄久寺蔵)
宮氏は淡海公(藤原不比等)の後裔とある
ところが、先年発刊された『東城町史』で驚くべき事実が明らかにされた。『庶軒日録』という室町時代の禅僧の日記に「奴可入道西寂は備後の宮の先祖なり…」と記されていたのだ。このことは近世の系図記録には一切記されていない。
奴可入道は、前回すこし紹介した『平家物語』に出てくるあの河野氏によって討ち取られた奴可入道である。奴可は旧郡名(現広島県庄原市東半)だから、入道は古代以来の豪族の後裔であろう。入道西寂の活躍を室町時代の宮氏の人々が知らなかったはずはない。では、なぜ宮氏は入道が自分たちの先祖であると言わなかったのか。おそらくそれは『平家物語』に登場する入道の最後が余りカッコのいいものではなく、宮氏がそれを公言するのがはばかられるものだったからに違いない。
奴可入道の居城と伝える亀山城址
(庄原市東城町小奴可)
つまり、支配者となった武士は先祖をありのままに受け入れるのではなく、『選んだ』のである。こうして、本来の先祖は忘れられ、武士に『人気のある』源氏や平家、藤原氏が彼等の先祖になった。我々は、こうした捏造された系図や記録に惑わされることなく、現地に残る遺跡や同時代の史料に基づいて、郷土史を再構築しなければならない。(田口義之)
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新びんご物語―武士の登場―
日本史の中の東と西 よく言われることだが、日本の歴史は「東と西の対立」で説明出来ると言う。
現代日本人の直接の祖先に当たるのは縄文人である。縄文人は今から一万二千年前、世界ではじめて『土器』を発明し、「木」と「土」で豊かな森林文明を築いた。縄文文明の中心は東日本であった。縄文遺跡の代表「貝塚遺跡」は圧倒的に関東地方に多く、私たちの住む備後地方には数えるほどしかない。
貝塚の断面(福山市柳津町・馬取貝塚)
ところが、一万年近く続いた東日本優位の情勢は、次の弥生時代に入ると一変する。最新の研究成果は、北九州や山陰の最古の弥生人たちは大陸からの渡来人であったことを明らかにした。弥生文明も基本的には縄文と同じく木と土の文明だが、大陸から導入された水稲耕作と金属器の使用が始まり、以後今日まで日本文化の基調をなす水田を中心とした「村社会」は、この時代に始まると言って良い。そして、この当時最新の技術であった水稲耕作の技術と金属器をたづさえて日本にやってきたのが先に述べた渡来人であった。
支石墓は渡来人の墓と考えられている
北部九州と山陰の西部に興った『弥生革命』は恐ろしい勢いで東に広がっていった。最近の研究では北部九州で水稲耕作が始まってわずか百年ほどで、この文明は縄文文明を席巻し東北北端の青森県に達したと言う。西暦で言えば紀元前三百年前後から同じく二百年前後のことである。むろん、これらのことが全て『渡来人』の手で成されたと言うのではない。大陸的な特徴を持つ弥生人は北九州から近畿地方の一部に見られるだけで、その他の弥生人は体質は縄文人の流れを汲み、生活様式のみが弥生的と言う場合が多い。ということは、この革命は渡来人による縄文人の征服というような血なまぐさいものではなく、極めて平穏に、平和に行われたと言うことだ。この点、この時代の人々にはすでに日本人の特徴―先進文明を拒否するのではなく、取捨選択しながら取り入れる―が見られる。
それは余談として、弥生時代から古墳時代へと続く、日本の古代国家の形成期は西日本優位の時代である。近畿地方を基盤に大和朝廷を打ちたてた天皇家は、『古事記』『日本書紀』が述べるように元々九州に起源を持つ古代豪族であった。そして、天皇家を中心に大和朝廷を構成した蘇我・物部・大伴といった豪族たちの基盤も近畿地方にあって、この日本最初の統一国家はこうした中央豪族による地方支配の権力機構、と捉えることが可能なのである。そして、その集大成が天武・持統という古代のヒーロー、ヒロインによって完成された律令国家であった。
復元された平城宮大極殿
大宝律令や養老律令によって成文化された律令国家の基本的な性格は、徹底的な中央による地方の収奪・支配であった。地方には国・郡・里が置かれたが、国の長官である国司には中央の貴族が任命され、土着の豪族が任命されることはなかった。各地に置かれた国府は中央の地方支配の拠点と言う意味を持っていた。
武士の登場 だが、律令国家の地方支配もやがて崩れるときがくる。その最初の兆しが平安の都を震撼させた「平将門の乱」である。
将門の乱の原因は単純なものである。いわば現代の相続争いと同じだ。将門には何人かの叔父がいた。彼らは若い将門が都に上って留守の間に、なんのかのといってその所領を横取りした。帰国した将門は怒って叔父を討った。将門に追われた叔父たちはこれを都の朝廷に訴えた。こうして親族同士の抗争は、将門と朝廷との戦いに発展する。
結果はどうか。将門は一時関東地方をほとんど制圧した。自分の武力に奢った将門は「新皇」を称え、部下をそれぞれ国々の国司に任命したと言う。しかし、将門の野望もここまでであった。朝廷の将門追討の命に応じた同じ坂東の武者、藤原秀郷・平貞盛は軍勢を糾合して将門に戦いを挑み、遂にこれを倒したのである。時に天慶3年(940)2月14日のことであった。こうして、将門の東国独立の夢はあっけなく潰えた。
常陸国筑波郡衙跡と考えられる「平沢遺跡」
ここで注目したいのは、この戦乱の主役将門も、将門を滅ぼした藤原秀郷、平貞盛等はいずれも地方豪族であったということである。確かに朝廷は中央の貴族を「将門追討使」に任命し、派遣した。しかし、乱の経過をみると追討使は何らその役目を果たしていない。乱はその最初から最後まで地方豪族によって戦われ、そして終了したのである。
このことの意味することは重大である。それまでの内乱では、朝廷は曲がりなりにも自らの軍事力で乱を治めて来た。ところがここにきて朝廷は地方豪族の武力なしには何事もなし得ないことを暴露したのである。そして、平安時代の末になるとこのことはますます明確なかたちで世の中に現れる。それが『保元・平治の乱』である。この戦乱は表面的にみると、天皇、上皇、藤原摂関家という朝廷を構成した権力者の権力闘争に見える。だが、実質的には、源氏や平家という『武家の棟梁』の争いであった。そして、その結果、平清盛という「武士」に政界進出を許すことになるのである。
源氏の氏神八幡宮(石清水八幡本殿)
西の平家と東の源氏 源平両氏とも元をたどれば皇族である。源氏は清和天皇の皇子貞純親王を始祖とし、河内の国に土着して豪族化した。一方の平氏は桓武天皇の孫の高見王を始祖として主に東国を基盤として豪族化した。先に述べた平将門もその子孫の一人である。そして、両氏とも中央政界に進出出来たのは、朝廷との関わりであると言う点も共通している。源氏は藤原摂関家の親衛隊としての役割を果たすことで勢力を伸ばしていった。平家のそれは院政の主役白河、鳥羽の各上皇の爪牙となることであった。つまり、両氏とも中央の権力者の私的な武力を担うことで朝廷に足場を築いていったのである。
この源平両氏の勃興は地方の情勢と密接なつながりをもっていた。
武士の発生は地方の治安の悪化にある。武士は元々地方の開拓農場主である。平安時代の後期は大開拓の時代であった。各地の有力農民は競って荒地を開拓して耕地を広めていった。しかし、当時の農業技術では開かれる土地には限りがあった。やがて彼等は周囲の同様な農場主と境を接し、熾烈な争いを繰り広げるようになる。ここでものをいうのは「武力」である。彼等は否応なく武装した。「武士の発生」である。武力はより大きな武力を求める。各地の開拓農場主はより強力な武力の保護を求めて地域の有力農場主のもとに結集していった。三浦、北条、佐竹、菊池といった各地の有力武士の起こりである。そして、各地の有力武士は自らの利益の代弁者として源氏と平家を選んだ。これがいわゆる『武家の棟梁』の誕生である。
平家が信仰した厳島神社
こうして世の主役となった源平両氏の勢力圏は、日本史の大きな流れ、「東と西」の対立を端的に表わしている。すなわち、平家が西日本の武士を勢力基盤としたのに対し、源氏は東国の有力武士団を「家人」として組織した。そして、この東西の対立は以後近代に至るまで日本史の底流を形成するのである。
奴可入道の居城と伝わる亀山城址
(庄原市東城町)
源平両氏が時代の主役に躍り出た頃、私たちの郷土、備後地方にも武士の活躍が知られるようになる。『平家物語』によると、備後北部旧奴可郡(現庄原市東部)を本拠にした地方武士と考えられている奴可入道西寂は、平家に味方し、源氏方の伊予の豪族河野通清を討ち、あとで通清の遺児通信に「親のかたき」として討ち取られたことが述べられている。また、世羅郡の豪族橘氏は初め平家に味方し、平氏滅亡の後には鎌倉幕府の御家人帳に名を連ねたことが知られている。
彼等もまた、この日本史の底流「東と西」の対立の中で興亡を繰り返していったのである。(田口義之「あしだ川」連載中) |



