備後山城風土記

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中世山城の縄張り

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中世山城の縄張(7)
―備後宮・杉原氏の築城術―
宮氏と杉原氏の山城を材料にして、今回の課題に迫ってみた。『山城探訪』という限られた地域の山城のみを紹介した冊子を材料に、以上の説を提示するのは大胆極まりない企てかもしれない。しかし、私は今回の結論「有力国人の家にはそれぞれ独自の築城術(法)」があった、にはいささか自信を持っている。
 
江田氏の拠城「旗返山城」(三次市三若町)
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今回取り上げた宮氏にしても杉原氏にしても、あるいは備後の他の有力国人三吉・山内・和知・江田氏にしてもその活躍期を通して築いた山城はそれぞれ十城や二十城は下らない。彼らは果たして築城ごとに山を見、地形を考えるだけで山城を築いていったのであろうか。
 
山内氏が築いた雲井城址の石垣(庄原市高町)
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「由緒」とか「先例」が重んじられた中世社会、そんなことは考えられない。一城を築くごとに、「城作り」のノウハウが「先例」として彼らの家々に蓄積されていく。あるいは吉川氏の「石つきの者ども」のように、特定の技術者集団がいたかも知れない。これが私の考えている「有力国人家の築城術」である。
 
備後渋川氏の小童城址(三原市八幡町)
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今回の、ある意味では大胆極まりない「仮説」の提示は、この考えに一つの筋道をつけたつもりである。山城の研究は、山城跡を歩き、『縄張図』を書くだけでは始らない。要は残された遺構から何を読み取るかである。残された山城の遺構と数少ない中世史料から、備後中世史を再構築すること、これが私の夢である。(終り)
中世山城の「縄張」(6)
―備後宮・杉原氏の築城術―
『縄張』に類似性が見られるのは、宮氏系の山城のみではない。
 
宮氏と並んで備後の中世に大きな足跡を残した杉原氏系の山城もまた、独特の縄張と築城法を持っているように見える。
 
杉原氏の伝承を持つ山城の中で、特に注目されるのは、八尾山城跡(府中市出口町)、鷲尾山城跡(尾道市木之庄町)、銀山城跡(福山市山手町)の三城跡である。
 
八尾山城址縄張図(山城探訪)
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この三つの山城はいずれも主峰から南、あるいは東に突出した半独立峰に築かれた山城で、各曲輪は、山頂の主郭を中心にして、四方に流れる尾根上に連続して築かれている。
 
鷲尾山城縄張図(同上)
イメージ 2
 
一見すると、これらの山城の曲輪は地形に従って築かれているように見える。しかし、縄張図を見比べるとほとんどその構造は同じである。この場合、似たような山を利用したため類似の山城になった、と単純に考えて良いものであろうか。
 
銀山城址縄張図(同上)
イメージ 3
自分の家に伝わる「築城法」を実現するために似たような山を選んだ、こう考えても良いのである。
 
傍証はある。これら三城を築いた杉原氏の系譜がそれだ。
 
八尾山城の杉原氏は、備後杉原氏の惣領家である。同城は鎌倉期に杉原氏の始祖光平が築城したと伝え、以後中世を通じて杉原氏惣領家の居城として使われた。
 
府中八尾山城址遠望
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鷲尾山城の杉原氏はその有力庶家である。南北朝期、惣領家から出た木梨流の鼻祖杉原信平・為平兄弟は足利尊氏に従って戦功を挙げ、恩賞として備後国木梨庄の地頭職を獲得した。鷲尾山城はその本拠として木梨庄内に築かれた山城である。
 
木梨鷲尾山城址遠望
イメージ 5
 
そして、福山市山手町にそびえる銀山城は、信平の弟為平の後裔が室町期に木梨から山手に本拠を移し築城した山城である
 
さらに現地を踏査すると、この三城に共通する遺構を見ることができる。
 
鷲尾山城址の削り残し土塁
(内側が石塁となっている)
イメージ 7
 
「削り残し」の土塁がそれだ。「削り残し」の土塁とは、上下に連続して築かれた曲輪と曲輪の間を片側のみ削り残すことによって、通路と土塁の役目を持たせたもので、備後南部ではこの三城にのみ特徴的に見られるものである。
 
山手銀山城址近影
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八尾山城跡では主郭から東に伸びた尾根上の曲輪の北側に見られ、鷲尾山では主郭から西に築かれた曲輪群の北、銀山城では八尾山と同じく、主郭から東に派生した曲輪群の北側に「削り残し」の土塁が残っている。備後南部の他の山城跡にはほとんど見られないことから、「削り残し」の土塁は杉原氏独特の築城法として良いのではあるまいか。(続く)
中世山城の「縄張」(5)
―備後宮・杉原氏の築城術―
次に、「主曲輪が二つある」の山城を築いた宮氏の系譜を考えてみる。亀寿山は、言うまでもなく宮氏の惣領家の居城として、古来有名な山城跡である。また、志川滝山城は、毛利氏と対立した宮氏一族が最後の拠点とした山城で、天文21年(155223日の「志川山合戦」の舞台となった山城として余りに有名である。
 
志川滝山城址(福山市加茂町)
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そして、「人為的」に主曲輪を二分した山城として紹介した大谷城跡は、亀寿山の宮氏から分かれたと伝える有地氏が最初に築いた本格的な山城で、この有地氏が16世紀後半に本拠として築いた城が、総石垣作りの城として有名な相方城跡である。
 
有地氏の拠った大谷城址(福山市芦田町)
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「主曲輪を二分する山城」の築城者は「亀寿山系の宮氏」、これが私の結論である。最近の宮氏の研究から亀寿山の宮氏、有地の宮氏は、いずれも南北朝期に活躍した宮兼信の後裔『宮上野介家』の人々と考えられているから、これらの山城を築いたのは宮上野介家の人々としてよい。
 
正戸山城址(福山市御幸町)
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『山城探訪』で取り上げた、他の宮氏系の山城にこの特徴《主曲輪を二分》が見られないのは、同じ宮氏でも系譜が違うため、あるいはその支城として築かれたためと考えればよい。
 
掛迫城址に残る宮氏の石碑(同 駅家町)
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正戸山は、志川滝山の支城と伝えられ、築城者も別の氏族である。掛迫は亀寿山の支城と伝えられるが、記録上ではこの地には「宮法成寺氏」という、別系の宮氏が拠点を置いていた。殿奥城は、上野系の有地氏の山城であるが、大谷城の主郭から東北眼下に見下ろすことができる山城で、やはり、大谷城の支城と考えたほうがよい。
 
宮下野守家の拠点柏城(同 新市町)
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柏城跡は、小城郭が集まって構成された一大城郭で、築城者は室町期、宮上野介家と「宮惣領職」を争った「宮下野守家」の人々と考えられ、同じ宮氏でも対抗関係にあった家である。ただ、柏の「城塞群」も詳細に観察すると「二分された主郭」を持つ小城郭も見られる。宮下野守家系の山城の解明は今後の課題としたい。(続く)
中世山城の「縄張」(4)
―備後宮・杉原氏の築城術―
縄張の特徴で最初に目についたのは、宮氏系の山城である。
 
『山城探訪』では、宮氏が居城したとされる山城跡を八ヶ所取り上げた。志川滝山城跡(福山市加茂町)、正戸山城跡(福山市御幸町)、掛迫城跡(福山市駅家町)、殿奥城跡(福山市芦田町)、亀寿山城跡(福山市新市町)、相方城跡(同上)、柏城跡(同上)の各城跡である。この内、志川滝山・亀寿山・相方の各城跡の縄張に類似性が認められたのである。
 
亀寿山城図面
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相方城図面
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志川滝山城図面
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どういうことかというと、これらの山城の主要部はいずれも東西に二分された構造になっているのである。図面を見ていただければ分かると思うが、これらの山城には主曲輪が「二つ」ある(ここでは便宜「主曲輪」・「副曲輪」と呼ぶ)。これは単なる偶然であろうか。
 
大谷城図面
(広島県中世城館遺跡総合調査報告書より)
イメージ 4
 
さらに、『山城探訪』では取り上げなかったが、宮氏の一派有地氏の居城と伝える芦田町の大谷城跡も主要部が二分された山城で、この城の場合、他の三城跡が東西二つの峰にそれぞれ主郭が築かれ、縄張は地形によったとも考えられるのに対し、頂上の主曲輪は人為的に東西二つの曲輪に区分されている。これは偶然とは考えられない。(続く)

中世山城の縄張(3)

中世山城の縄張
中世『築城術』がなかったのかといえば、そうではない。『群書類従』には「築城記」と称する古書が収録され、外題によれば、原本は越前朝倉氏の家臣が伝えたもので、少なくとも永禄年間(一五六○年代)にさかのぼるという。いうまでもなく山城の作り方のテキストである。
 
発掘された竪堀(尾道市・牛の皮城址)
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また、戦国期の城郭研究の進展につれて、各戦国大名独自の縄張も明らかにされてきた。武田氏の「丸馬出し」、後北条氏の「障子堀」などである。
 さらに、同時代史料にも築城のスペシャリストが出現する。すなわち、石山本願寺の証如上人の日記『天文日記』には「城を作る松田入道」(註①)が現れるし、『信長公記』には石山本願寺は「加賀国より城作り」(註②)を召し寄せ、信長に対抗したとある。
 
横から見た竪堀群(同上)
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註①『天文日記』天文二十一年三月十日、同二十二年二月二十日の条
註②『信長公記』巻十三
 
最近のこうした風潮、縄張図を近世の軍学者の目から見ずに、考古学的に、また、築城者の意図を探りながら「読む」という傾向は、私にあるヒントを与えてくれた。すなわち、武田・後北条(最近は上杉も)に独自の築城術があるならば、それより一段下の有力国人クラスの家にも独自の築城術があるのではなかろうか、ということである。
 
備陽史探訪の会刊『山城探訪』
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この想像が一つの「像」を結ぶきっかけとなったのは、17年前、備陽史探訪の会が全力をあげて取り組んだ『山城探訪―福山周辺の山城三〇選―』(註参照、以下『山城探訪』と略)の発刊である。編集発刊の過程で私は改めて福山周辺の主要な山城を歩くことができた。そこで前述の問いかけ、「有力国人の独自の築城術」解明の手がかりになりそうなある「事実」を見つけたのである。(続く)
 
謹賀新年
本年もよろしく

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