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中世山城の縄張り
「山城歩き」を重ねるにつれて、私の『縄張図』も次第に厚さを増してきた。こうなると各城の『縄張図』を机や廊下の上に広げて眺めるのが私の楽しみとなってきた。
銀山城址遠望(福山市山手町)
初め、私も他の「山城マニア」と同様に、江戸時代の軍学者が発明した分類法に従って山城の縄張を分類しようとした。すなわち、曲輪が尾根に沿って連続して築かれていれば『連郭式』、主郭を中心に円形に曲輪が築かれていれば『輪郭式』等などである。
1972年の「備南中世山城跡の現状」で発表した
山手銀山城跡の図面(まだ竪堀の記載がない)
しかし、しばらくして私はこの分類法を放棄した。その「無意味」さに、気付いたためだ。山城の縄張りは千差万別である。城の曲輪は地形に従って築かれ、山の姿形だけ縄張の種類がある。第一、江戸時代の軍学者が想定した城郭は近世の平城か平山城など縄張を自由に工夫できる城郭であって、中世の山城ではない。
1995年刊の「山城探訪」で発表した銀山城址
(畝状竪堀群の様子が記入されている)
中世の山城は立地や地形に制約され、同じ縄張の城は一つもない。逆に中世の築城者は縄張を地形に「押しつける」のではなく、地形を最大限に利用して城を築いていることが分かったからだ。以後、しばらくの間、私は山城を縄張で分類するのをやめた。 |
中世山城の縄張り
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中世山城の『縄張』
室町・戦国期の山城跡に親しむようになって、今年(2012年)で四十年になる。きっかけは図書館で手にした古びた郷土史書に、山城が載っていたことにある。
初めて登った山城はどの山城であったのか、記憶は定かではない。それはともかくとして、現在まで、数百箇所の山城を踏破したはずである。
神辺城址にて(高校2年の頃)
仲間と実測調査
山城歩きの楽しみは『発見』にあるといったら語弊があるであろうか。
私が山城歩きをはじめた頃は、先輩達の業績は微々たるものであった。それもほとんど城主や合戦に関する考証で、実地に城跡を踏査し、遺跡として紹介したものはほとんどなかった。わずかに現在も活躍されている新祖隆太郎さんが、広島県北の山城を踏査し、一部を『芸備地方史研究』上に発表されていただけである。
だから、私の「山城歩き」はほとんど『発見』の連続であった。
高校生の頃の野帳
今まで誰も発表していなかった山城に登り、巻尺を手に『縄張図』を描いていく。今は雑木林に返っている山城跡が『縄張図』として蘇り、わたしたちに在りし日を教えてくれる。これは何物にも替えがたい喜びであり、これが現在まで私を山城と中世史に駆りたてたのである。
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