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鞆大可島城と村上亮康(その壱)
鞆は古代以来、内海水運の要港として栄えてきた。沖合いで東西から満ちてきた潮がぶつかり、潮に乗って航海してきた船は鞆で「潮待ち」「風待ち」をし、再び東西に出航して行った。中世、この鞆港の押さえとして築かれ、出入りする船を監視していたのが大可島城である。
鞆港から見た大可島
大可島は、現在陸地とつながり、鞆港の東に突き出た岬となっているが、かつてはその名の通り「島」で、近年まで陸側は砂州で繋がり、満潮の時だけ「島」になる「陸繋島(りくけいしま)」であった(道越の地名がそれを物語っている)。
現在、城跡は円福寺境内となっている
この小島が一躍歴史の表舞台に登場したのは、南北朝時代の康永元年(1342)のことであった。幕府方の攻撃を受けた伊予土居城の救援に向かった南朝軍は、逆に備後の鞆を占領し、幕府の大軍を迎え撃った。南朝方は大可島を拠点とし、小松寺を本陣とした幕府軍と旬余の攻防の後、伊予に引き上げた(注1)。さらに、貞和5年(1349)4月には、室町幕府から中国探題に任命された足利直冬が備後国鞆浦に下向、大可島に拠って、政務を執った(注2)。(続く)
補注
(1)「太平記」巻二四予州河江合戦事
(2)「太平記」巻二七直冬西国下向事
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鞆大可島城と村上亮康
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