県庁所在地にやってきた! 黒い外観から烏(カラス)のお城、烏城と呼ばれる岡山城。 桃太郎通り地下駐車場から城下、岡山県立美術館へ・・・ 県庁所在地に行く。田舎者とって街に出るというのはイベント。 街に出ればいつも寄る古本屋も、先日ネットで古本を7冊落としたので今回は用はない。 何もしないで帰るのも惜しい。観光でも・・。 県庁所在地の観光・・・ 岡山後楽園、岡山城、吉備津神社、岡山市半田山植物園。岡山県立博物館、岡山市デジタルミュージアム、岡山県立美術館 、岡山市立オリエント美術館。 猛暑で歩きまわるのは辛い。 岡山県立美術館では、福武コレクションによる国吉康雄コレクションが開催されている。国吉康雄展には以前に行ったことがある。 国吉ワールド再び・・・岡山県立美術館へ足を運びました。 美術館で涼をとるのも悪くないです。 岡山県立美術館 岡山市北区天神町8-48 琳派・若沖と雅の世界 《岡山県立美術館HPより》 琳派・若冲の個人コレクションとしては世界屈指と評価されている細見美術館。当展は、琳派300年の華麗な様式、若冲のユニークな画風を細見コレクションから厳選した作品でご鑑賞いただきます。また細見美術館の根幹をなす、絵巻物や仏教美術、雅な調度の優品も展覧します。 琳派(りんぱ)と言われても、尾形光琳一派かな?、その程度の知識しかない。しかし豪華な金箔大和絵、優美な春夏秋冬花木・草花絵など、しっかり堪能しました。 仏教絵はよく分りませんでした。 福武コレクションによる 国吉康雄コレクション 《岡山県立美術館HPより》 岡山市中出石町(現在の岡山市北区出石町一丁目)に生まれた国吉康雄(1889-1953年)は、1906年に17歳で単身アメリカに渡り、苦労して働きながらロサンゼルスやニューヨークの美術学校で絵を学びました。国吉は、アメリカのフォークアートやヨーロッパの前衛美術、あるいは日本美術から影響を受けながら、1920年代になると素朴で幻想的な彼独特のスタイルを確立してアメリカの画壇に登場し、日本とアメリカという二つの祖国のはざまで苦悩しながら自己のアイデンティティを模索し続け、戦前戦後を通じてアメリカを代表する画家の一人として活躍し、名声を博しました。 本展覧会では、2003年4月以来岡山県立美術館に寄託されている、福武總一郎氏所蔵の国吉作品ならびに関連資料571点からなる「福武コレクション」の中から、油彩画を中心に、版画、ドローイング、写真、関連資料などを幅広く展観します。岡山に生まれアメリカで成功した稀有な画家・国吉康雄の生涯と制作活動を、その初期から晩年まで俯瞰できる福武コレクションを通して改めて紹介したいと思います。 リトグラフ、習作、国吉の撮ったモノクロ写真、遺品などが多く、油絵の大作は少ない。以前の国吉康雄展で展示されていた「ミルクトレイン」「祭りは終わった」など代表作を見たかったが、個人所蔵の作品展示なのでしかたないです。 帰り道から見える岡山神社に寄りました。 《岡山神社HPより》 当社は岡山という現在の岡山城本丸の地に鎮座しており、「坂下(さかおり)の社」と呼ばれていたが、永禄年中に「岡山大明神」と改めた。天正元年(1573)、宇喜多直家が岡山城を築くに当たり、現在の社地に遷し岡山城の守護神として社領を寄附される。宇喜多秀家、本殿を造営。小早川秀秋、拝殿以下を造営す。旧藩主池田家の時は城内鎮守として特別に崇敬され社領として三百余石を寄附された。万治年中(1658-61)以後は「酒折宮」と号した。明治十五年、社号を「岡山神社」とする。 デカ鼻の狛犬。 《随神門》 1945年(昭和20年)6月29日、米軍のB-29により投下された焼夷弾により岡山の市街地は一面火の海となり、逃げ場を失った1700人を超える市民が犠牲となった岡山空襲。随神門は、その空襲を焼け残った数少ない岡山城下の近世建造物です。 随神門は、池田継政によって延享2年(1745)に造立された三間一戸の八脚門で、平成16年2月24日、岡山市の重要文化財に指定。 鬼畜米兵の放す邪火にも耐えた随神門、貴重です!! なんの趣きもなく、無駄に大きいだけの本殿。 コンクリートの本殿など、なんの有り難味もない。 |
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