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ワルシャワ、帰国前に訪問してきました。 日本ではほとんど知られていませんが、悲惨な歴史がありました。 こんな感じです。 1807年に独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となく民族運動の中心地となりました。1830年には、フランス七月革命の影響もあり、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1815年に成立したポーランド王国(ポーランド立憲王国)では、自由主義的な憲法が規定されていたが、その多くはこれを機に形骸化された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。 第一次大戦後、ワルシャワは独立を回復させ、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。しかし、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、政府は降伏を余儀なくされ、ワルシャワはナチス・ドイツの占領下におかれた。 1944年8月1日、ソ連軍がドイツ軍を攻めにワルシャワの近くまで来た時、占領軍に対しワルシャワ市民が一斉蜂起(ワルシャワ蜂起)を起こした。が、ソ連軍はワルシャワの手前で成り行きを見守ったため、 63日間にわたる戦闘の末鎮圧され、反乱軍はアウシュビッツへ送られまいsた。そして政治犯として、立牢や、窒息室で、残酷に殺されたそうです。 その時、ワルシャワの殆どの建物が破壊されてしまったそうです。 旧市街(Stare Miasto)は、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたそうです。 この旧市街は1980年、ユネスコの世界遺産に登録されました。 元通りにするということは、この歴史自体、あってはならないこととしてポーランド人が捉えている証のように感じます。 破壊された街 復元された街 市民蜂起の記念碑 蜂起は失敗したためか、寂しげな表情です。 コペルニクスが居たことがワルシャワの誇り 10%くらいの女性が、モデルさんのような体系。スラブ系って美人が多いようです。 日本人天才少女ピアニストが、こんなところで演奏。
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