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どっちが好き?
やみくもにマンセーするのと、やみくもに批判するのと?
トモコはどっちも嫌いだし、どちらも同じだと思う。
対象を全く理解していない行為であるという点で。
やみくも批判のほうが、批判者がスノッブを気取っている(K工芸さん的な表現をすると、「スノッブを気取れる私」に酔っている)点において、より悪質度が高い印象があるけれど。
ちょっと前から(前ログでお察しくださるブロ友さんは多いと思いますが)、いろいろ気に障ることがありまして。
というのは、トモコ自身が、常に批判にさらされたり、感想を述べられたりする立場であるわけでして。
半年に一度、なんちゃらアンケートなるものを取られるわけですよ。いまはどこでもそうですが。
ま、トモコはツボを押さえるのがうまいので(笑)、相当評価は高いのですが、でも毎回、むかっ腹が立つ。
特に、自由記述なるものが、「もっと早く(早い時期に、の意)冷房を入れてください。暑くて集中できません。」とか、それ、わたしの責任なんですか的なものから、「これはどこが就職に役に立つのですか(原文ママ)」的な、たとえれば、肉屋をやってたら、魚が置いてないからけしからんと客にキレられた、なにそれ的wなものまで、さまざま。
「○○とおっしゃってましたが…」シリーズwみたいに、そんなこと一言も言ってへんねん、幻聴があるなら病院行くことをオススメします的なものや。
あと、「英語が不得意な学生もいるので、英語の例文を出すのはいかがなものかと思います」とか、言い回しだけはちょいとキメてるけどw、でも、トモコはそこは心得ているので、中学3年生までの学習指導要領に載ってるものしか扱ってないから、そういうオマエが一番恥ずかしいの分かってんの、みたいなのも。
だから分かるんです。
学芸員さんたちの苦労が。
世間の多くには誤解されているけれど、トモコのメインの仕事は人前に立つことではない。
それは、お金を稼ぐためにやってるだけなんだな。
トモコのメインの仕事は研究なんです。
でも、人文系はお金にならないから、ま、しかたなく人前に立っている。
収入源の多くは客から納入されるお金だから、当然、ある程度大衆迎合的になることを要求される。
それは仕方ない。
でも、すっごく悔しいし、それに流されたくはない。いっそ流されるほうが楽だし、思いっきり流されてる向きも多いけど。
でもトモコは、可能な限り、自分の矜持がぎりぎりに保てる程度に、そこに専門性をつっこむ。トモコしかできない何かを。
学芸員さんたちも、彼ら、研究者なんですよ。
でも、美術研究なんて、単独では金になるわけもなし。
企画する展覧会の入場料収入が頼り(のひとつ)。
できるだけ多くの入場者を稼ぐには、大衆迎合的な企画をたてるしかない。
そもそも、組織内で企画を通すのに、予算を握ってるシロートどもを説得する必要があり、「三菱一号館」とか企業系の美術館なんか、素養のない(と断定してはいかんのかもしれんが、ま、たいした期待はできない)おっさんども相手に、たいへんだろうと思う。
だから、現在、東京都美術館で開催されている「ゴッホとゴーギャン展」はすごいと思ったわけです(ココ、起承転結でいうと「転」、なw)。
学術的な性格をきちんと保ちつつ、ゴッホとかゴーギャンとか、
これはトモコはレビューにちゃんと書いている(が理解できない御仁もいらしたらしい)つもりなのですが、この展覧会、学術的な意味合いの強い展覧会であって、いわゆる「名品展」ではないんです。
おそらくこの展覧会、展示室最後のゴーギャンのヒマワリを見せたいんです。
それがこの企画の出発点であったと思う。間違いない自信がある。
一時期、共同生活をしていたゴッホとゴーギャンですが、二人の関係は良好ではなかった、というのは、ゴーギャン側の書簡で明らかで、それは従来から言われていたこと。
しかし、もしかしたら必ずしもそうじゃなかったかも…という新しい切り口を開いたのが、この展覧会。
美術研究だって、進化していくんです。
その鍵となるのがゴーギャンのヒマワリ。
この作品、ヒマワリというモチーフ、ヨーロッパ風の(ゴッホがゴーギャンに用意したものと似た)椅子、背景のクロスを彩る青い絵具、と、ゴッホを連想させるアイテムに溢れています。
それを、タヒチに移住して自らの芸術を追求し、満足の極みにあったはずのゴーギャンが、タヒチで死ぬ2年前に描いたんです。
しかも、象徴主義的(ミューシャとか、「黄金のアデル」の彼とか、な)な芸術思想を持った彼(だから、この展覧会の英題が「Reality and
Imagination」なわけで、前者がゴッホ、後者がゴーギャンを示しているわけさ)なら、心象風景、みたいな感じで、現実には無い風景として描くことも可能だったのに、彼、この絵を描くためにわざわざヒマワリの花を取り寄せたらしいんですよ。「写実」に拘ったわけです。
つまり、確固とした意図を持って描かれた、おそらく何か彼にとって意味を持つであろう作品なわけです。
大作ではないけれど。
その意味はなんだろう?
そこから始まったのが、この展覧会の企画だったのだろうと、トモコは感じます。
それを、名品展風でないから、つまらないとか、残念とか、どういう言い方だったか忘れたけど、確認しに行きたくもないけど、そういうのって、批判に値しない。
だって、この企画、名品展であろうとしてないわけですから。
魚を売るつもりのない肉屋に対して、魚売ってないのがけしからんとほざくようなもので、自らの愚かさを誇示(笑)しているだけでしょう。
その滑稽さに気付くほどの知恵を持たないのが幸せってもんでしょうけれど。
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えーっと、私は
「やみくもに難癖派」です。きっと。
『展示』に限らず、さまざまな『提示』の場面において、示す側・表象する側の意図やコンセプトって、多くの人々にはほとんど通じないんじゃないか?
ってなこと、思いますよ。
傲慢かもしれませんけど。
「ことば」ひとつとっても、語の意味って、どこまでもそれぞれ個々の投影(解釈と称する)でしかないかもしれませんし。
だから、どうやっても、どこかで『妥協』とか『とりあえず』が必要となりますよね。
世俗化や大衆化それ自体は、それによる恩恵にも預かってる自覚がありますから、否定はしません。私は。
ただし
大衆化との『妥協』ではなく『迎合』なら、それは違うだろうとは。
2016/11/1(火) 午後 9:05 [ K工芸 ]
結局ね、
なにかしら『妥協点』を、必死で探した経験がある者にしか、コンセプトって理解できないでしょ?
いくら
「安易な妥協はしてこなかった私」
のつもりでも、どこかに
「誰か(何か)から、迎合されるべき私」
という期待感があるヒトは
まぁ、無理なんでしょう。
行為や展示や何かの現れについて
「背景にある意図」ってのも、できるだけ考える癖が付いてますけど、それだって
『真意』とはしないように気をつけてます。
せいぜい
『底意』くらいに考えるようにしてます。
で、
『グルメ&アート意識高い系な私』である必要があるヒトビトの
「そうあるべき底意」っての
そのクォリティの低さに驚くやら、気持ち悪いやら…
2016/11/1(火) 午後 9:27 [ K工芸 ]
ついでに…
私、元バーテンダーなんですが、
バーなんてのは
「気取って、格好つけて酒飲んでナンボ」
でもあるんですね。
ただし、そこで本当に
「スマートな酒呑み」になるには、かなりの研鑽というか、素養が必要なんですね。
「付け焼き刃な知識を披露しちゃうスノッブ気取り」(結果、気取れてない)
みたいなのが、ま、一番恥ずかしいんですけどねぇ。
いや、
思い出したくもない恥や悔いの経験を積み重ねてやっと
ウンチクをウンチクとして楽しめるはずだと思うんですがね。
2016/11/1(火) 午後 9:41 [ K工芸 ]
以下、ちょっと、とっ散らかりますが…
迎合することに妥協すること(?と言っていいのか…)を拒絶する選択肢っていうのが、以前は許されていたように思うのです。
そういうひとは、「信念の人」と呼ばれたり、あるいは「融通のきかない変人」扱いされたりしたかもしれないけれど、でも、そういう人たちを許容するだけの余裕が社会にあったのではないかと。
でも、以前と比べるとそれが受け入れられにくい世の中になっていて、それに伴って人々も「迎合してもらえないワタシ」を経験する機会が減ったのではないか、と。
「迎合してもらえないワタシ」をそもそも想定してないから、「迎合されるべきワタシ」が受け入れられないと、キレたり、一切のコミュニケーションを拒絶したりするんじゃあないかと思うわけです。
2016/11/3(木) 午後 0:11 [ トモコ ]
>世俗化や大衆化それ自体は、それによる恩恵にも預かってる自覚がありますから、否定はしません。私は。
これは、わたしもまさにそうですよ。
ただ、あまりに程度が甚だしいと、嫌悪感は感じます。
とくに、「あたしのありのままが受け入れられるべきぃ〜」みたいな態度をとられると。
2016/11/3(木) 午後 0:14 [ トモコ ]
>行為や展示や何かの現れについて
「背景にある意図」ってのも、できるだけ考える癖が付いてますけど、それだって
『真意』とはしないように気をつけてます。
せいぜい
『底意』くらいに考えるようにしてます。
おっしゃることは分かります。
ただ、一方で、世間には「あたしが思ったまま、感じたままを発信して、それが受け入れられるべきぃ〜」みたいのが存在するので…
唯一的な解釈の存在など信じませんが、でも、もろもろの条件や状況や事実を考慮すると「より妥当性の高い解釈」はあるはずです。あくまで相対的なものですが。
2016/11/3(木) 午後 0:18 [ トモコ ]
>私、元バーテンダーなんですが
存じ上げております(笑)
たしか、新聞記者でいらっしゃったことも。
わたしはまだ、「スマートな酒呑み」を拝見しに、バーにうかがう立場(笑)です。
「スマートな酒呑み」に近づく方法のひとつは、まずは自分の無知を自覚して、さらけ出すことかな、と思ったりします。
2016/11/3(木) 午後 0:22 [ トモコ ]
>迎合することに妥協すること(?と言っていいのか…)を拒絶する選択肢っていうのが、以前は許されていたように思うのです。
わかります。
ただ、とても細かい指摘になりますが、それは結局は「迎合」に他ならなくなるからこその拒絶じゃありません?
つまり、「妥協」ともいえなくなるからで。
「妥協点」はいえても、「迎合点」という言葉はありませんよね。
だからむしろ
きちんと妥協(点)を目指さないからこそ迎合(的態度)になるのじゃないかと。
もちろん、単純な二項対立みたいに
「迎合か?妥協か?」なんていえないことがほとんど。
それでも
「精一杯の妥協のつもりだったけど、迎合だったかもなぁ」
「結果、とても失礼だったかも」
という悔いや疑いを経験としなくなったからこそ、おっしゃる通り
「迎合されるべきワタシ」が蔓延っちゃうんでしょう。
2016/11/3(木) 午後 10:10 [ K工芸 ]
「失礼・無礼だったかもしれない私」
という(苦い)経験から、人は大人になるんじゃないかと思うんですね。
で、フツーに生きてりゃ、経験するじゃないですか(笑)
「そーいう経験の機会を与えてもらえなかったワタシ」
なんての、許されるのはせいぜい義務教育過程まででしょ。
義務教育過程でも、留年が「権利」として保証されてますよね?
たとえ本人的には
「いろいろ苦労してきた」つもりでも
それが
迎合と迎合への応報の期待をいってるに過ぎないならば、たとえエエ歳くってても
「留年が妥当」
だと思いますね。
どうにも
留年もさせてもらえないまま、幼児期を拗らせ続けた認知症(←文責K工芸!)
みたいな方々が…
2016/11/3(木) 午後 10:32 [ K工芸 ]
えーっと、つまりです。
「迎合してもらえないワタシ」なんて経験は、本人が望まなくともするんじゃないかと。
もちろん、機会の多少はあっても。
それを経験にするか
「なんちゃらハラスメント」にするか
結局は個々の問題なんですよね。
しかもたぶん、美醜の趣味だけのことかと。
2016/11/3(木) 午後 10:40 [ K工芸 ]
>存じ上げております(笑)
たしか、新聞記者でいらっしゃったことも。
ご存じあることを、存じ上げております(笑)
いやね、デタラメに転職してるなぁとは思います。
その度に、相応の知識っての、無駄に忘れてしまいますし。
ただ、時々に経験した「悔い」の経験値の分だけ、ちょーっとずつくらいは大人に近付いてるはず…かなぁ。
2016/11/3(木) 午後 10:53 [ K工芸 ]