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昨今、城郭ブームというか、城廻が流行っているようです。
というわけで、城郭に関する書籍が毎月発刊されているような状況で、相変わらずの所謂元就に劣る晴久的な論調で書かれているものが未だにある中で、徐々にではありますが、ウィキペディアの様な元就に勝る論調も増えてきていますね。
いい傾向だと思います。余りにも過小評価されているのは事実で、対毛利で大敗したのは郡山合戦くらいなもので、石見では連勝し、備後では五分、東部戦線では赤松・浦上・三村・山名相手には圧倒的優位というのが実際の歴史です。
さて、そんな晴久公ですが、築城名人の称号を遂に手に入れることになりました。それもあの郡山合戦におけるものです。青光井山陣城の築城と長期戦を見越した布陣がその論拠となっているとのこと。
また、郡山合戦から一年後の本土決戦たる第一次富田合戦における月山富田城の全山要塞化工事と支城群の整備が決定打となったようですね。
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出雲・・・我が故郷
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私の趣味の一つに戦国時代がある。
なかでも地元の戦国大名である尼子家が大好きだ。
なんといっても史上初の下剋上を成し遂げたのが尼子家で、日本海交易を推進していたのも尼子家で、各地の寺社建造物に多大な影響を与えたのも尼子家であるからだ。
しかし、世の中は無情であり、下剋上は北条早雲だと言われ、新宮党粛清で自爆と言われ、毛利に対して負けばっかりというイメージで汚染されている。
1550〜1560年ごろの中国地方の勢力図を見ても尼子家所領は出雲一国だけか隠岐と伯耆を加えた程度・・・。実際は美作も因幡も備後も備中も石見銀山も尼子家の勢力圏であったというのに・・・。
何よりも許せないのは、1562年までは石見銀山は尼子家が確保しているにもかかわらず、どこもかしこも毛利領扱い・・・。毛利家は尼子晴久公存命中は一度も石見銀山を手に入れたことがないってのにそれを無視するなんて!
そもそも、1555年の厳島合戦で陶晴賢が戦死したことで石見東部は完全に尼子家勢力圏となって、温湯城合戦で温湯氏が毛利家に降伏しても石見東部の支配体制は揺るがなかった。
にもかかわらず、この扱いはなんだ!そもそも、この誤りは歴史教科書が間違ったものを掲載しているからではないか!巷に流布されている誤った戦国時代の勢力図は10年前の日本史の教科書及び副教材とまったく同じなのである。
冗談じゃないってんだ・・・。
最近、尼子晴久公の評価が改められてきているのであるが、歴史教科書上ではそんなことは全く関係ないと言わんばかり・・・。
というか、郷土史の教科書みたいなものも似たような状態であったと思う・・・。情けないことこの上ない・・・。
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何の記事でもいいのですが、出雲弁で記事を書いてみようかと考えました。
もっとも、出雲弁といっても、限られた地域でしかないのに、そこかしこにさらに地方言語があるわけで、地域が違うと同じ出雲弁でも通じない単語や言い回しがあったりするので現実的ではないなと思ったり・・・。
そもそも、そんなもので書いたところで、標準語に訳した翻訳文がないと普通の人は理解が出来ないこと間違いなし。そもそも、出雲弁は全国の方言の中でももっとも理解しづらいというか、何を言っているか理解できない言語であるらしいので、そんな需要があるかどうかも謎って感じですが・・・。
というか、本気でオール出雲弁で討論会など行おうものなら、他の地域の人間には罵詈雑言の応酬にしか見えないこと請け合いではないかとすら思います・・・。
誰かが希望して下さったら標準語訳付きで記事を書いてみますけれど・・・。何か希望のネタでも提供していただければ、それについて書きますよ。
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