小説:タロット連作シリーズ

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 ひかりは白昼夢から目覚めた。
 自分の部屋、机に向かって宿題のノートを掴んだまま、一瞬にして白昼夢の世界に引き込まれたのだった。
 邦星が溺れていた。さわとも音を立てずに荒れ狂う、真っ暗な嵐の海だった。
 ひかりは普段、白昼夢など見ない。想像力もたくましくはない。だいたい、邦星のことなど考えてもいなかったのに、そのビジョンは突然やってきた。
 胸騒ぎがした。一瞬の眩暈のような、束の間の体験だったが、意味のないものとは思えなかった。
 ひかりは携帯に手を伸ばし、邦星の番号をコールした。今は柔道部の練習中かもしれなかったが、彼の声を聞かないことには安心できなかった。十回、呼び出し音を聞いても邦星は出なかった。さらに十回、ひかりは待った。あとでまた電話しよう。そう思いながら、ひとまずメールを打つことにした。
>今、海野くんの夢を見たよ。怖い夢だった。
大丈夫? なんだか心配?
 送信し、時間を確かめた。邦星の住む町まで行って帰ってくる時間はあった。ひかりは手早く服装を整え、髪をなおし、出かける準備をした。自分のやっていることに対して疑念はなかった。何の根拠もなかったが、確信していた。きっと、邦星は何かに巻き込まれている。
 助けにいかなくては。

 リオ・アバホ・リオの激流の中で、ホセは力尽きようとしていた。この世界は夢ではない。リオ・アバホ・リオで気を失えば、残された肉体はやがて死ぬ。リオ・アバホ・リオは、「現実」よりも上位のリアリティなのだ。
 音もなく渦巻く深遠は、本能的な恐怖を喚起する。ひとたび恐怖に囚われれば、身動きの自由はますます失われる。流れの中心に近づけば近づくほど、水流は重くのしかかり、意識の働きを押さえ込んでしまう。呪術師たちが失せモノ探しや占いのために出入りするのは、川岸のいちばん端の浅瀬の部分でしかない。岸から離れれば離れるほど、流れは速く激しくなる。渦を巻かない深い流れにつかまってしまえば、抵抗などできない。あっという間に不可知の領域に押し流され、すぐさま精神を破壊されるだろう。渦があるのは岸や河の合流点、屈曲点に近いからだ。ホセは自分にそう言い聞かせて、ひたすら意識を保つしかなかった。
 突然、足首に激痛が走った。焼付くように冷たい指が足首をつかみ、ホセを水中にひきずりこんだ。黄金に光る頭飾りをつけた骸骨が、ホセにしがみついている。彼の身体を伝って水面に這い上がろうとしているのだ。眼を凝らすと、その骸骨の身体にも別な骸骨が、その下にもさらに別な死体が、数珠つなぎになって、遥か深遠までつながって一匹の生き物のように蠢いていた。
 
 ステラは普段の温和な様子とは似つかない緊迫した表情を浮かべて、ホセに生じた変化に眼を凝らしていた。
 ホセは全身を弓のように反り返らせ、寒気のするような叫び声をあげて、ソファから転げ落ちた。調子の狂ったおもちゃみたいに手足をばたばたと動かして、ソファとローテーブルの間の空間を転げ回る。ペヨーテのボトルが倒れ、コーヒーのカップが皿の上でカタカタと鳴った。ステラは霊的な命綱をしっかりと掴んでいる。しかし逆側から、ステラよりも強い力で、ホセを引っ張っている者たちがいる。一人や二人ではない。カーニバルに集る群集のような途方も無い数だ。命綱が引き伸ばされていく。それは切れはしない。ステラが切ろうと思っても切れるようなものではない。だから、下からの力が強ければ、ステラごと深遠に引きずり込まれる。怖いと、何十年ぶりかでステラは感じる。恐怖が最大の敵だとわかっていながら、怯えてパニックに陥りそうになる自分を抑えられない。
 その時。
 音楽が聞こえてきた。
 ホセの鞄の中から。ステラはその曲を知っている。ハミングバード。YUKIという有名なアーティストの曲だと、先日ひかりに教えられた。ホセがそれを着信メロディとして使っていることまでは知らなかった。だが、鞄の中からくぐもった旋律が流れ出すと、思いがけない変化が訪れた。
 ホセの痙攣が止み、命綱にかかっていた力が緩んだ。ステラは間髪をおかずに巻き戻す。
ホセが浮上するのを感じた。

 ホセは水面から引き上げられた。ハミングバードのメロディが、空一杯に響き渡っていた。音楽に包まれて、ホセも空中に浮かび上がる。河の下の河、リオ・アバホ・リオが小さくなる。脱出してみればそれは川とも呼べない、岩と木の根の間を伝うか細い流れにしか見えなかった。ホセは翼の生えた蛇に身を変じた。クラリッサが同じ姿になってついてくる。追いつかれないように、離れすぎないように、適度な距離を保ちながら、ホセはクラリッサを誘導する。どっちに進めばいいかはわかっている。ハミングバードのメロディが聞こえてくる。その方向に、出口があるのだ。

 そして眼を覚ました。
 何故か身体は床に転がっていて、邦星はみんなに見下ろされていた。ステラに、クラリッサに、そして、ひかりに。
 聞きたいことはあるものの、いろいろありすぎて一つも口から出てこなかった。とりあえず、身体を起した。眼を潤ませているひかりの腕に触れ、
「ありがとう」と言った。
 何よりも、それが最初であるべきだった。
「ひぐっ」とひかりが言った。
 顔を覆い、泣き始めてしまった。
「あーあー、女の子泣かせちゃったよ」
 クラリッサが無責任な口調で笑いながら言った。
「叔母さん、それ、ひどくない?」
「あ、そうだったね。ありがとう、ホセ」
 クラリッサはそう言って抱きついてくる。
「いや、いい、そういうのはいい。ああ、キスとかするな、うっとうしい」
 見ると、ひかりが泣き止んでいた。が、別な意味で泣きそうな顔になっている。スペイン語で交わされるホセたちの会話を、ひかりは一言も理解できていない。邦星はひかりに説明する必要を感じた。とても切実に。
「これ、叔母のクラリッサ、ただの親戚。ブラジルに住んでるんだけど、何でかここにいる。それで、一体何があったかというと……」
 そこまで説明しかけて言葉に詰まった。
「じゃ、話がややこしくなりそうだから、あたしゃ帰るね」
 クラリッサがそう言って、止める間もなく窓をあけた。ブーツを履いた足で窓枠に飛び乗り、向こう側に飛び降りた。地面にではなく、向こう側に。
 たぶん、リオデジャネイロの自分の部屋に。
 ひかりが眼をまん丸に見開いて凍り付いている。
「……手品師なんだ」
 無駄だとは思ったが、一応そう言っておいた。
「まったく、人に散々苦労させといて、あの態度は無いだろう」
「そうさね」
 ステラがスペイン語で言った。
「ホセ。あんた苦労しすぎだよ。クラリッサの誘惑にはたやすく乗っちまうし、あんな浅瀬で溺れるし、ルシアが助けてくれなかったらどうなってたと思うんだい。まだまだだね。クラリッサもがっかりしただろうさ」
「え、婆ちゃん、ちょっと待ってよ」
 話がおかしかった。いや、そうではない。最初からおかしかった話に、今、筋が通ったのだ。
「もしかして、俺、嵌められた?」
「下品な言い方はおよし。テストしてやったんだよ。ホセがこれから先使い物になるかどうか、クラリッサも心配してたからね」
 どっと、疲れが出た。
 これだから嫌なのだ。ステラの呪術の世界に関わりあうのは。
「ルシア、カフェ、ああ、コーヒーは、好きですか」
 ステラはひかりに日本語でそう訊ねる。口調も声もスイッチを切り替えたように優しくなる。
 ひかりはさっきの人体消失のショックからまだ立ち直っていない顔で、呆然と窓を見つめている。
 何からどう説明すればいいのか、見当もつかない。
「婆ちゃん、俺もコーヒー」
 ヤケクソになって、邦星はそう言った。

                 終り


















☆ ☆ ☆ ☆
あー、今回は失敗です。すいません。
いろいろ足りないものがありすぎる。ありすぎるんだけど、具体的にどうまとめればいいのか、わからん。力不足です。いずれ書き直します。

細かいことですが、ステラはペルーに移民した日系人と結婚したインディオです。だからスペイン語を話します。クラリッサも、たまたまブラジルに移住しただけで母語はスペイン語です。どうでもいい裏設定ですが、気にする人のために(^^ゞ
今回のエピソードは、第3話『願い事』の続きになります。未読の方はそちらを先にお読みください。

☆ ☆ ☆

 邦星が学校から帰ると、そこにいるはずのない女が床に横たわり、白目をむき泡をふいていた。
 焦げ茶色の肌、黒い髪は肩までのドレッド、日本人ではありえないような豊満な胸と尻、引き締まった腰と長い手足。腕にも首にもじゃらじゃらと極彩色の装身具をまきつけ、髪にもなんだかわからないものをやたらに編みこんでいた。
「クラリッサがなんでここにいるんだ」
 すぐそばで静かにコーヒーを飲んでいる祖母、ステラに、スペイン語で訊ねた。
 床に横たわっているクラリッサ、邦星のまだ二十代の叔母は、ブラジルに住んでいる。
「クラリッサはここにいないよ。リオデジャネイロさ。知ってるじゃないか」
 白目をむき、身体を捻じ曲げ、指先をひくひくと痙攣させている娘を眺めながら、ステラはのんびりとそう答えた。
「ああ、そうなんだ」
 邦星は聞くのをやめた。
 祖母の血筋の女達はみんな特別だった。常識では在り得ないことをしょっちゅうしでかすので、邦星は慣れてしまっていた。つまりは、霊感とか超能力とか、そういう世界なのだろう。よく見るとクラリッサは膝まであるブーツを履いていた。それで、玄関から靴を脱いで上がってきたわけではないのはわかった。飛行機で日本まで来たわけでもないのだろう。
「でも、ほっといていいの」
 ショルダーバッグを放り出して、ソファにどっかりと腰をおろし、そう尋ねた。柔道部の練習で疲れきっていて、お茶の一つも出して欲しいところだった。
「いいわきゃないだろう、だからホセが帰るのを待ってたのさ」
 片言の日本語で喋っているぶんにはかわいいお婆ちゃんだが、ステラはなかなか一筋縄ではいかない年寄りなのだ。
「俺はその手のことには関わりたくないって、前にも言ったよね」
 ステラはゆっくりとコーヒーを飲み終え、ローテーブルにカップを置いた。
「でも、仕方ないだろ。考えてごらん、私が潜ってあんたが命綱を持ってるのと、あんたが潜って私が命綱を握っているのと、どっちが安心できる?」
「なんで二択問題にするんだよ」
「三択にしたっておなじことさ、答えは一つしかないんだから」
「つまり、俺に潜れと」
「そう。リオ・アバホ・リオ、河の下の河にね」
 それは、この世界を貫くエネルギーの流れのようなものだ。すべての力、すべての生命はそこからの流出物だ。この流れを泳ぐことが、すなわち呪術師の業を行うことだと、ステラは言うのだった。
 もちろん、邦星は呪術師になんてなるつもりはない。柔道でインターハイに出て、叶うならオリンピックに出て、それから先はまっとうに大学を出て、まっとうに働いて生きるのだ。だが、足元でひくひく動いているやたらに色っぽい叔母さんを、放っておくこともできなかった。
「仕方ねえな」
「ありがとうホセ、おまえはやっぱりいい子だよ」
 そう言ってステラは、隠していたボトルを取り出す。緑色の中に、赤紫色の粒子が沈殿した、なんだかわからないどろどろした液体が詰まっている。
「ペヨーテだよ。ドリンク仕立てだ、ぐびっと空けてごらん」
 ペヨーテとはメキシコの砂漠に生える幻覚植物の名だ。そんなものがどうしてここにあるのかわからない。キャップを取ると、なんとも、苦笑いを浮かべるしかないような臭いがした。
「ほら、イッキ、イッキ」
「うるせえよ。どこでそう言うの憶えるんだよ」
 邦星は呼吸を止めて一息に飲み干した。何度もむせそうになったが、気力と根性で飲みきった。わざとじゃないかと思うぐらいひどい味だった。
 十分もすると、ペヨーテの呪力が効果を表し始めた。ショルダーバッグを枕にして、ソファに横たわる。天井が右に左に、ステップを踏むみたいに揺れ動いている。ステラがクラリッサの手をとり、邦星に握らせた。
 カーペットの繊維がほどけ、一本一本立ち上がり、緑色の茎となって伸びていき葉を広げる。窓の隙間から、ソファの下から、ツタが這い出してきて、クラリッサの肢体に、邦星自身の身体に巻きついてくる。掌ほども大きな羽根を持った蝶が、燐粉を撒き散らしながら頭上を飛び交っている。羽根も燐粉も、赤から緑に、緑から紫へと絶え間なく色を変えている。虹色の蛇が、しゅるしゅると足の上を這っていく。蛙が水に飛び込む音。ホセは、アマゾンの濃緑に埋もれてしまう前に立ち上がった。
 力もいれないのに片手が浮き上がって、ある方向を指した。クラリッサの手を握っているはずの手だ。その手に導かれて、ホセはジャングルを歩き出した。
 緑が隙間なく生い茂る分厚い天井の下、一筋の陽光も射さない海の底のような暗がりが広がっていた。行く手に血の臭いがした。茂みがざわざわと揺れていた。肉が骨から引き剥がされるめりめりという音。ぴちゃぴちゃと舌を鳴らすわいせつな響き。濃密な血の臭いが立ち込める中、一頭のジャガーがこちらに尻を見せて、夢中になって何かを食べていた。
 ただのジャガーでないことはすぐにわかった。ジェルのような半透明の身体、斑紋は微光を放ち、身体の表面を絶え間なく流れ蠢いていた。その口と足先だけが、血にまみれて紅かった。すでに原型をとどめず、四足の哺乳類としかわからないものがジャガーの足元に横たわっていた。
「クラリッサ」ホセはジャガーに呼びかけた。
 彼女はホセに気づくと食事をとりやめ、猫のように喉を鳴らした。誘惑するように眼を光らせて、しなやかな足取りで近づいて来る。
「クラリッサ、俺だよ。ホセだ、迎えに来たんだ。そろそろ自分の身体にもどったほうがいい」
 クラリッサは答えもせず近づいてくる。しなやかな身体をくねらせ、光る目でホセをじっと見つめながら。口のまわりにねっとりとついた血を、濡れた舌で舐めとりながら。
 見えない指がホセの手を握り、引っ張っていた。全身を縛り上げられたように、身動きができなくなっていた。
「クラリッサ、俺だ……クラリッサ!」
 彼女は跳躍した。幻惑する輝きが、ホセに覆い被さってきて押し倒した。ジャガーの形を保っていた皮膜が破れ、流動する光るものが内側から溢れ出し、ホセを包み込んだ。それが触れた瞬間、総毛立つような快感が押寄せてきた。皮膚が、筋肉が、痛みもなく溶かされていく。ホセは見る間に人間の形を失い、どろりとした原形質となって、輝く流動体と交じわりあう。彼女と触れ合うすべての境界面が愉悦を生み出し、こすれあい、もつれあうたびに性感がたかまっていく。
 しかし快楽が頂点に達しようとするとき、彼女はひものようにほどけ、一匹の蛇となってホセから身を離す。ホセもまた蛇となって追えば、蛇は鳥となり、鳥は蝶になり、虫に猿に蛙に、魚にと二人は変身を重ね、よどんだ暗い流れの中に飛び込む。
 逃げる彼女を追い、追いついては引き離され、繰返すうちにホセは、我を忘れている。
自分が何をしに来たのかも、何者だったのかも忘れ、ただ彼女の尻に覆い被さることに焦がれ、そして間違いをしでかした。
 河の下の河。決して光の射すことのない暗黒の流れの中に飛び込んでしまったのだ。 彼女とホセをつないでいた霊的な紐帯が、あっさりと引きちぎられた。黒い静寂の大渦がホセだけをとらえた。町をひとつ飲み込めるほどの渦巻きがいたるところにあって、激しくぶつかり合っている。沈黙の中、凄まじい速度で、生成と消滅、融合と分離を繰り返し、どんな時空の一点も静止していない。
 リオ・アバホ・リオ。
 その果てしない混沌の渦に呑まれ、ホセは溺れた。
                 
                                      続く

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「ただいま」
 そう言って玄関のドアを開けた。
 リビングの明かりは灯っていたが、テレビの音もなく、家は静かだった。
 靴を脱ぎ、短い廊下を抜け、リビングの戸を開ける。
「おかえり、高志」
 どこか怯えたような目をした母が、笑顔を口元にだけ貼り付けて彼を迎えた。その影で姉が無言で立ち上がり、リビングから出て行った。
「ただいま」
 もう一度言った。姉は応えなかった。ソファに体を沈めていた父は、唸り声のような短い曖昧な返事をして、マガジンラックから経済誌を取り出して読み始めた。ローテーブルの上に、チーズが数種類乗った皿と、赤い液体が少しずつ残ったグラスが三つ、置かれていた。高志は母を見た。母の手は胸の下で、揉み合うように落ち着きなく動いていた。
「おやすみなさい」
 高志は無表情にそれだけ言って、二階の自室に上がった。リビングの戸を閉めたあと、父がボソリと母に何か言い、母がひそひそと答えた。どちらの声も聞き取れなかった。高志が自室に入ると、それと入れ替わりに姉の部屋のドアが開き、階段を降りる音が聞こえた。
 高志は自分の部屋の有様に呆然となった。
今朝、家を出たときと何かが違うわけではなかった。ただ、今朝までの自分がこの部屋で平然と暮らしていたことが信じられなかった。
 燃えるゴミの入った袋が窓際にいくつも積み上げられ、ペットボトルやジュースの缶が、いたるところに散乱していた。乱れたままのベッドの上には、成人向け写真誌がページを開いたまま放り出され、テレビの前には複数のゲーム機が置かれて、ケーブルやコードが絨毯の上をツタが繁茂するみたいに這い回っていた。壁には拳を叩きつけた跡がいくつも残り、勉強机のデスクマットはコーヒーの染みで何重にも汚されていた。
 不意に疲れを感じ、鞄を床に落とした。今朝までの、いや、つい一時間前までの自分の気持ちがわからなかった。ジャケットを脱ぎ、ナイフの装備されたショルダーホルスターを、机の引出しの一番奥に隠した。大きな音を立てないように気をつけながら、部屋をかたづけ始めた。階下から、家族の笑い声が聞こえた気がした。

 翌日、いつもどおり予備校に行った。一時限目の講義から、高志は頭を抱えることになった。
 まるでついていけなかった。数学も、物理も、得意だったはずの英語も、去年現役のときに習ったはずのことなのに、まるで理解できなかった。休み時間、先月の模試の結果が出ていると知り、窓口で受け取った。偏差値の下がり具合が、ご丁寧にグラフで表示されていた。ここ半年の傾斜は谷底に転げ落ちるようで、志望校の合格ラインは、見上げることもかなわない雲の彼方だった。
 志望校どころではなかった。合格圏内に表示されているのは名前も聞いたことの無い地方の私大ばかりで、国立大学はひとつも入っていなかった。
 もうすぐ九月も終わる。入試本番まで後わずかしかない。今まで自分は何をしてきたのだろう。どうしてこんな取り返しのつかないことになったのだろう。
 昼休み、食事もとらずにメールを打った。
送信先は香奈。高校時代付き合っていたが、卒業するとともに疎遠になって、もう連絡をとりあうこともしていなかった、「元カノ」だった。
>元気か、どうしてる。
ただそれだけを打ち込む。五分。十分。手元にテキストを広げ、勉強しているふうを装いながら、内心ではすがりつくような思いで返信を待っていた。
 午後の講義はまるで集中できなかった。高志は着信を示す振動が、胸ポケットの携帯に走るのを、ひたすら待ちつづけ、待つのが堪えがたくなるたびに、こっそりとメールを送った。
>久しぶりに会えないか。
>実は今、ちょっと悩んでいて。
>不安で、苦しくてたまらない。
>助けて欲しい。
 香奈からの返信はなく、送信メールばかりが一方的に積み重なるまま、その日の講義は終わってしまった。悄然として、机の上のテキストやペンを片付け始めたとき、着信が来た。
>元気ですか。大変だと思いますが、勉強、
頑張ってください。今、仕事がとても忙しい時期なので、あなたのために時間をとる余裕がありません。お互いに、社会的な立場が違うのだから、そのことは分かってください。
 半ば放心状態で予備校を出た。路上で空気が抜けたようにしゃがみこんだ。立ち上がる気力がわかなかった。立ち上がりたいとも思わなかった。だが、冷たい雨が降り始めた。追い立てられるように、高志は家に向かった。
 
 翌日。予備校は休みだった。部屋で数学の問題集を開いたが一問も解けず、解答を見ても意味がわからなかった。英文読解、英作文と得意な科目に続けざまに挑戦してみたが、答え合わせをして自信が砕け散った。得意科目だという意識そのものが幻のようだった。いたたまれなくなって、家を飛び出し、コンビにで漫画誌を立ち読みし、ジュースのペットボトルを買って帰った。どうしても机に戻ることができず、テレビをつけたが、主婦向けの退屈な番組しかやっていなくて、ゲーム機の電源を入れた。中に入っていたのは、ただ手間がかかるだけの退屈なRPGだった。単純作業の繰り返しに頭が麻痺してくる。そこに快楽はなく、静かな苛立ちがつのるだけなのに止めるきっかけが掴めず、だらだらと実りのない時を過ごして、気づけば日が暮れかけていた。
 どうしても部屋の明かりをつけなければならなくなって、そこで我に返った。
 一日を全く無為に過ごしてしまったことに愕然となった。ゲームを止めたあとの暗いテレビ画面に自分の顔が映っている。その画面を叩き割りたい衝動をどうにかねじ伏せ、逃げるように部屋を飛び出した。
 電車に乗り、いつもの駅で降りた。ガード下を覗き、繁華街をうろつき、駅の周囲を徘徊した。同じ道を何度も通っていたら、誰かに呼び止められた。振り返ってそれが警官だと気づき、思わず逃げだした。駅の出口から溢れ出す、波のような人ごみにまぎれ、警官を振り切った。
 安堵とともに、怒りと苛立ちがこみ上げてきた。何故自分が逃げなければならないのか。切れ目無く続く洪水のような人の流れにも吐き気を感じた。理由も目的もなく、無駄に生きている奴らばかりだ。自分のことしか考えない、馬鹿で身勝手な人間ばかりだ。
 そして、自分も彼らと少しの違いもないのだ。
 人の流れと別れ、明るい街角を離れ、暗がりへ、寂れたほうへと足を向けた。そして、もう十回は通ったはずのガード下。
 あの男がいた。
「よう、兄さん。また会ったな」
 くわえタバコで笑いかけてきた。
「あんたを、探していた」
「なんだい、またこの間のヤツかい」
「違う」
 高志は激しく首を振った。
「もとにもどしてくれ。あんたと出会う前の俺にもどしてくれ」
 男は煙草を灰皿でもみ消し、ゆっくりと言った。
「そいつは、ちょいと高くつくぜ」
 そして、心底嬉しそうに笑ったのだった。

                                      終り
 事件の三日前にあたる九月二十二日深夜、上村高志は予備校の授業が終わってから、一時間あまりも駅周辺をうろついていた。鞄には予備校のテキストや問題集とともに、通信販売で買った護身用武器ショックロッドが収められており、半ば開いたファスナーからすぐに取り出せる状態にしてあった。綿のジャケットの下にはショルダーホルスターを装着しており、左脇の下に刃渡り20センチ近いハンティングナイフを吊るしていた。
 高志がそのような装備で深夜の街をうろつくのは、この日が初めてではなかった。専門誌の広告の中から武器を選び、実際に注文し、品物が手元に届くはるか前から、深夜の徘徊は繰返されていた。家族には、予備校の自習室・あるいは駅前のファーストフード店で勉強していたと言い、そのことに疑いを持たれてはいなかった。
 心の準備は、ずっと以前からできていた。道具もそろった。欠けていたのは適切な対象と、場所とタイミングだけだった。
 公園にはホームレスのテントやダンボールハウスが群がり腫瘍のように緑地を覆っていて、近くに寄るだけで悪臭が鼻をついた。本来は親子連れやカップルでにぎわうはずの美しい公園が、汚れた浮浪者たちに占拠され、昼夜を問わず、人の近づかない場所となってから、既に何年も経っている。役所が何かの手を打っているという話は聞かない。
 駅前にも浮浪者はたむろしている。地下道への階段のそばや、公衆トイレ、廃ビルとなってシャッターの下りた、かつてのデパートの入り口。駅前のいたるところで彼らは悪臭を放ち、醜い姿をさらし、あまつさえは通行する市民に悪口を投げつけたりする。
 存在する価値も資格もないと高志は思っていた。人間が地球にいることで、ただでさえ自然は汚され、日々取り返しのつかない環境破壊が繰りかえされている。地球にやさしく、などというのはその場しのぎのキレイごとだ。
有効な解決策は一つしかなく、それは誰の目にも明白なはずなのに、誰一人口にせず、実行しようともしない。
 だから自分がするのだ。高志はそう思っていた。無責任で偽善的な大人たちに代わって、自分が正しい行いをするのだと。
 公園のホームレスは密集しすぎており、他の者に気づかれずに一人だけを処理するのは困難だった。駅周辺の奴らは概ね孤立しているが、街灯の明かりがあり、人通りも絶えない。終電の発車時刻までには家に帰らなければならない以上、駅前のホームレスも対象外とせざるを得なかった。
 だから人目のない、ほどよい暗がりに孤立している対象を探し出さなければならない。
 高志は駅を中心とする六ブロックほどの区画を何度も周回した。午後十一時。頭の上を、回送列車が走り抜けていくガード下で、高志は足を止めた。吐瀉物と排泄物とアルコールの臭いが、周囲からにじみ出る暗がりに、ダンボールを敷いて横たわる一つの人影を発見した。駅からは二百メートルほど離れ、車の行き来は殆ど無かった。周囲にも歩行者は見当たらなかった。
 高電圧を放つショックロッドで動きを止め、頚静脈をナイフで切り裂く。手順を頭のなかで反芻した。血流が頭の中で轟々と鳴っていた。ゆっくりと十まで数えた。もう一度周囲を確認する。車も人通りもない。
 行け。
 自分に号令をかけた。歩け。
 ロープで引き寄せられるように高志は歩き出した。横たわる男。悪臭が強まる。深く寝入っている。顔はよく見えない。吐き気を催す口臭と、すえた尿とアルコールの臭い。それしかわからない。だが、それで充分だ。ショルダーバッグに手を突っ込み、すばやくロッドを引き抜く、まさにその瞬間だった。
 石が擦れる音をたてて、ライターの火が灯った。
 横たわるホームレスの姿は消え、タバコをくわえた若い男の顔が闇の中に浮かび上がった。まるで幻覚のような、突然の変化だった。ライターの火は消え、タバコの先の赤い光だけが残る。
「そんなナリじゃ、職質されるぜ」
 低い気だるい声だった。かすかに揶揄する響きを感じた。
「脇の下のナイフ、鞄に突っ込んだ棒、それで隠してるつもりか。警察が見れば一発でわかる」
 目の前で起こった変化に、高志はまだ対応できていなかった。心臓の鼓動は高まったまま、全身から冷たい汗が噴き出し、水泳のあとのように呼吸が乱れていた。鞄のなかでロッドを握った左腕が、石のように固まって動かすことができなかった。
「まあ、落ち着きなよ兄さん。俺は警察でもその手先でもない、見たとおり、しがないタバコ屋さんさ」
「……タ、煙草屋?」
 そう言われて、ようやく男の姿やその身の回りの様子が目に入ってきた。
 男は繁華街の路上で絵や写真を売る人がするみたいにマットをひろげ、その上に、色々な種類の植物の葉が入った瓶をいくつも並べていた。手元にはまな板と包丁のようなものがあった。まな板の上には数枚の葉が重ねて置かれ、細かく切り刻まれている途中に見えた。
「まあ、葉っぱの種類は見たとおり色々だ。そんなわけで、想像がつくだろうが俺も警察とは仲良しじゃない。だからまあ落ち着けよ、どうしてそんなに、はあはあ言ってるんだ。座んな。丁度、兄さんにぴったりの葉っぱを刻んでたとこだ。まあちょっと待ってなよ、別に急ぐ用事もないんだろ。俺が兄さんに、ちょっとしたリラックスタイムをご提供差し上げるからよ」
 男はそう言いながら葉を刻み終え、ゴムで結わえた束から紙を一枚ぬきだすと、器用な手つきでまな板の上の葉を巻きこんだ。最後に紙の端を糊付けすると、市販の煙草と見分けがつかなかった。
「名づけてPOPE。理性と調和ってやつだ。ホープじゃないぜ……って、知りゃあしねえか。ほれ、一服つけてみな」
 男は高志に向かい煙草を差し出した。高志は、なんとなく受け取ってしまった。男は鼻歌を歌いながら、鞄からガラスの瓶を取り出し、蓋を開ける。
「座れって。火、持ってねえだろ……煙草、はじめてか……ならいいじゃねえか、遠慮すんな、ほら、肺の奥までぐっと吸い込んでみな」
 言われるがままに煙草をくわえ、煙を吸い込む。フィルターなしの煙草だったから、ちょっと喉に刺激があったが、咳き込むことはなかった。男の言葉のままに、肺の奥まで煙を入れる。静けさが、今まで経験したことのない類の澄み切った静けさが、肺から体全体に広がっていった。体のなかで沸き立っていたものが、みるまに鎮まっていった。夜の空気の冷涼さに、高志は初めて気づいた。何ヶ月も閉ざされていた窓という窓が一斉に開かれ、閉じこもっていた部屋の中に新鮮な外気が流れ込むように感じた。深い開放感と安堵感とともに、ゆっくりと煙を吐き出した。煙は上にはたなびいていかず、さっき、男が鞄からとりだした瓶の中に、残らず吸い込まれていった。それは在り得ざる事象のはずだったが、高志は気にしなかった。男が言った理性と調和の感覚、それに深く深く浸っていた。
 男は瓶の蓋を手早く締め、ラベルに何か書き込むと鞄の中にしまった。並べていたほかの瓶も、道具もしまいはじめる。
「じゃあな、兄さん。もうすぐ終電だぜ、兄さんも帰らなきゃいけないんじゃないのかい」
 そう言われて、我に返った。
「あ、待ってください。お金をまだ……」
「貰うもんは、もう貰ったよ。その一本は特別製だ。中毒になったりはしないが、体に長いこと残る。俺の国にある特別な葉っぱなんだ」
「ありがとうございます。なんだか悪い夢から醒めたみたいで、今、すごく言い気分です。ほんとにお金はいらないんですか」
「俺はある種のコレクターでね、コレクションのためにこの国に来てるんだ。まだ、しばらくはこのへんにいる。また欲しくなったら探してくれ、そのときは、相応の代価をいただくがね」
 高志が不思議に思ったのは、男に外国人らしい様子が少しも無いところだった。顔にもなんら特徴的なところがなく、話す言葉もなめらかだった。
「じゃあまたな、兄さん。きっとまた会えるぜ」
 男は大きな荷物を肩に背負うと、煙草を吹かしながら歩き去って行った。高志はその背中をぼんやり見送っていた。
 今まで自分は何にとらわれていたのだろう。
 男に出会う直前までの自分が、別人のように思えてならなかった。ふと、男の言った言葉を思い出した。
 もうすぐ終電だぜ。
 腕時計に目をやる。
「うわ、やべえ」
 高志は微笑を浮かべ、駅に向かい走り出した。走ることが、夜の大気が、街の明かりが、すべてが心地よかった。
 POPE。
 理性と調和。
 良い人に出会えて良かった。
 その時は、そう思った。
                                      
                                    続く

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 土曜の午後、ひかりは苦労してステラの店を探し当てた。
 流木の看板、白いペンキで、STERAの文字。かすかに流れ出るタンゴのメロディ。きしむドアを開け、店の中に踏み込んだ。
「いらっしゃい」
 びくん、と身体が震えた。
 まったく思いがけず、男の低い声を浴びせられたからだ。振り向くと、ドアのすぐ影に、キャッシャーがあった。その後ろに、ひかりより年上の感じの少年が立っていた。ステラと同じ茶色い肌、でも、髪も目も黒い。背が高くて、肩幅が広くて、ラグビーでもやってそうな身体だけれど、目は静かで、知的な光をたたえていた。
 少年の姿に見入っている自分に気づき、恥ずかしさで顔が赤くなった。きょろきょろと店の中を捜すが、ステラの姿はない。
「何かお探しですか」
 少年は手にしていた本を閉じ、ひかりに話しかけてきた。
 ひかりは少年に見つめられて動きが止まってしまった。顔が赤くなっていくのを感じながらどうすることもできず、何も言えない。
 困り果てた末に、無言で小瓶を突き出した。
 少年は眉をあげて、粉々になったラ・ステラ・フエソを見た。
「返品、ですか」
 探るように問いかけてくる。
 ぶるんぶるんと首を振って否定。一つ深呼吸して、思い切って言った。
「ステラさん、いませんか」
 大声になってしまった。少年は困惑の表情を浮かべながらも微笑し、
「婆ちゃんなら、部屋で寝てるよ。婆ちゃんが売っちまったんだな、不良品を。ごめんな、店には出るなって言ってるんだが……返品でいい?」
「あの」言いかけて、もう一度深呼吸。「返品じゃないんです。これ、ステラさんからいただいてしまったんです。いただいたときは、丸い珠の形をしてたのに、一晩明けて見てみたら、こんな、粉々になってて……願い事がかなうって、ステラさん言ってて、強い力持ってるって、気をつけろって……それで、だから……あの……」
 自分の願いのせいで母が倒れたのかもしれない。それを口にできず、口ごもるうちに、目に涙が浮かんできた。
「ラ・ステラ・フエソ。婆ちゃん、そう言わなかった」
 問われて、無言で頷いた。
「ただの骨だよ。水死した人の骨が、何十年も波に洗われて、丸くなっただけのもんだ。願い事が叶うかどうかは俺にはわからない。でも、一つ質問していい?」
 少年は手を伸ばし、ひかりの髪に触れた。息が止まるほどの優しい声で、こう言った。
「どうして泣いてるの」
 そんなことをされたから、ひかりは大泣きしてしまった。ひとしきり泣いてから、何度もしゃくりあげながら、途切れ途切れに事情を説明した。
 事情といっても、たいした内容はないのだと気づいた。
 事実としてあるのは、母が倒れたこと、ラ・ステラ・フエソが砕けたこと、それだけだ。
その両方がひかりの願い事のせいだと示す根拠は、何ひとつない。
「ごめんなさい、私、なんかバカみたい」
「そんなことはない」
 少年は静かに言った。
「俺は婆ちゃんが信じてる魔法の力とか、そういうことに関しては分からない。ノーコメントだ。でも、俺はこう思う。何かを願うということは、たくさんの可能性の中からひとつの未来を選択し、引き寄せること、その未来の中にある全てを受け容れることだ。願うことで、自分自身が変わる、そのことによって周囲も変化する。願いが叶う、っていうのは、そういうことだと思う」
 彼の言葉は、ゆっくりとひかりの中に染み込んでいった。ひかりは思った。
 私はそんなふうに何かを願ったことがあっただろうか。身の回りの不満や不安から逃げ出したいと、漠然と夢想に浸っていただけじゃないだろうか。
「馬鹿みたいって、思わないんですか」
 彼は優しく微笑んだ。
「願いが役に立たないなら、人間に一体何ができる? 願うことから全てが始まるんだ」
 彼の笑みが大きくなった。それでひかりは、自分が微笑を浮かべてたことに気づいた。
「君が自分を責めることはない。たとえ君のせいだったとしてもだ。大切なのは、今から君が何を願うかだ。そうじゃないか」
 また涙が出そうになった。こくりとうなずき、そのまま、あごを胸にうずめたまま、顔を上げられなくなった。
「俺は、海野ホセ。邦星って書く。変な名前だろ」
 ひかりは涙目のまま顔を上げた。
「君は?」
「ひかり」
「また来る?」
「え?」
「また、会えるかい」
 首から上が真っ赤になるのを感じた。小さく頷き、あわてて店を飛び出した。
「さよなら、ルシア」
 邦星の声が、背中にそっと触れた。

 ひかりは帰りのバスに揺られながら、自分の心の内を見つめていた。私は何を望んでいるだろう。一体、何を望むべきだろう。
 母の手術は月曜の朝、早くに行われる。帰ったとき、母は目を覚ましているだろうか。
手術までに、意識を回復することがあるだろうか。
 母に話さなければならない。ごめんなさいの一言でもいい、母と向き合って、母の目を見て、自分の言葉で話さなければならない。
自分自身の人生のために何を願えばいいのか、ひかりにはまだわからない。でも、確かな願いがひとつだけある。
 母と話したい。
 今までずっと話すことのなかった、たくさんのことを。
 だから、今夜は願おう。
 そう決めた。
 母の枕もとに座って、ラ・ステラ・フエソの小瓶を握りしめて、手術が上手くいくようにと、ひたすら願おう。夜が明けるまででも、願いつづけよう。町の明かりが残らず消えた真夜中の闇の中でも、星は、きっと光をなげてくれるから。
 願いつづけよう。
               
                                   終り

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