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ケンポンの通う小学校の給食の献立表が我が家の冷蔵庫に 貼ってある。 どんなものかと見てみると 牛乳と冷凍ミカンは、昔から越谷の小学校では当たり前だったのですが かつおの土佐煮・・かつお?贅沢だな。 麦ごはん・・今は栄養摂り過ぎな子供もいるからこれでいいんだよな。 昔は刑務所くらいか。 明日は? わかめごはん・・今でもこのメニューあるんだ・・ この、わかめご飯は私が小学校の頃からありました。 あまり旨いものではなかった記憶が・・ 冬瓜汁・・こういうのも出るんだ、へぇ〜 おれ、これは食えないな。 アーモンド??つまみか? この給食シリーズもつづけようかな?
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コシガヤ〜ゼに憧れて・・・越谷市
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越谷近郊の戦争遺産・1 http://blogs.yahoo.co.jp/rose669166/55540347.html 越谷近郊の戦争遺産・2 http://blogs.yahoo.co.jp/rose669166/55540454.html 今の滑走路跡地の航空写真と、戦後2年経った滑走路跡地の航空写真です。 上が現在の跡地です こちらが昭和22年の滑走路跡地です。 滑走路跡地だけでなく、戦闘機の誘導路跡地も歩いてみました。 滑走路最南端から誘導路入口 砂利道となっています。 所々コンクリートのようなのが出てますが、これも当時の物なのでしょうか? 緩いカーブを描いています。 大きな飛行機を誘導するわけですから、やはり緩いカーブでないと 誘導に支障が出るのでしょう。 誘導路から滑走路方向を眺める。 誘導路脇にあった樹木 この木は、空港建設時からあったのでしょうか? 誘導路も北部へ移動すると、小さな工場や作業場が建っています。 誘導路北部は舗装されていました。 かつては樹木がある場所も貫通して誘導路があったのですが しらこばと運動公園建設に伴い、誘導路跡は消滅してしました。 後日教えていただいたのですが、この滑走路の路盤で使用していたコンクリート片で 記念碑を作って建っているとの情報をいただきまして、早速現地へ向かいました。 場所はさいたま市岩槻区の西福寺の隣にある稲荷神社の入り口にありました。 目立たないので、車で捜しに行ったのですが通り過ぎてしまいました。 興農の碑として作られたようです。 数少ない飛行場の遺構でもあります。 碑の脇にあったこの2点も、滑走路のコンクリートで作ったものでしょうか? いろいろ探し、歩いてみましたが戦争が終わってすでに63年になるので全くと言っていいほど 手がかりになる遺構や情報がありませんでした。 この飛行場建設に携わっていた方々が今の時代のように夏休みが無い時代 暑いなか早朝から夜遅くまで「お国のため」と思い、日本が戦争に勝つと信じ また心の中で「早く戦争おわってくれ!」とさまざまな思いで戦いのために働かされた人たちが いたと言うことを今夏休みで好きなことをして過ごした終戦の日に考えなくてはと 思いました。 今回の記事に関しては、いろいろな方のご協力があって書くことができました。 去年のこちらの記事に http://blogs.yahoo.co.jp/rose669166/49488555.html コメントを頂いた h18cw5w様のおじい様がこの飛行場建設時の事を知っていて お話を聞いて頂いたこと。 遺構や飛行場に纏わる事をお教えいただいたことでいろいろ判ることができました。 そして、初回の探索にお付き合いしていただいた月男様 強風の中、あっちへこっちへ振り回すかのようにお付き合いいただきました。 ご協力、本当にありがとうございました。 またこの記事に関して「こう言う事もあった」や「ちょっと違う」等のご意見がありましたら
コメントに残していただければ幸いです。 |
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今回は去年この飛行場跡道路の記事を書いたときに、コメントでいろいろ こちらの飛行場の事を教えていただいた方のお話を元に記事を書きます。 こちらの跡地付近をいろいろ歩いてみました。 滑走路があるということは、格納庫や通信司令室?やその他建物もあったと思うのです。 なので道路のまわり、田圃を歩いてみました。 田圃を歩いていたら、何やら?なコンクリートの道のようなのが出てきました。 よく見ると、無数の穴が開いています。 上に乗って一体何なのか見てみようと思いましたが、割れて落ちたらどうしようなんて 考えてしまって写真だけ撮りました。 水が流れてる様子でもないようで、田圃にこんな蓋をした用水路て見たことないと 思っていましたが、何なのかがわかりました。 当時飛行場で使われてた側溝だそうです。 コメント欄でいろいろお教え頂いた方のおじい様がその側溝の事を知っており 立ったまま歩けるくらいの深さだったそうです。 また、水田跡の為水気が多かったので、せっかく芝刈りをして整備した場所が、直後の大雨で側溝のキャパを 超えてしまい水が溢れて芝が枯れてしまった事もあったそうです。 また、やはり水の関係なのですが、水田跡地で水気が多いため、元荒川の末田須賀堰が空けられなくなり、 越谷の谷中あたりの農家は大変だったらしいです。 一応、軍のほうで対処方法として飛行場の南にある池に大型のポンプ&モーターを設置して対処したらしいです。 その池というのが、今の国道463号バイパスの横にありました。 今ではほとんど埋め立てられてしまいましたが、若干残っています。 土が盛られている所も以前は池でした。 ここの飛行場建設にかかわった人は、近所の日本人だけではなく朝鮮の方々も駆り出されたそうです。 その方々は、今の岩槻区の新和小学校の近くの変電所のある鉄塔辺りにあった宿舎に住まわされていて 食料もあまり良い物は食べさせていなかったらしく、真っ黒な麦飯を与えられていたそうです。 精製すると量が減ってしまう為、ほとんど精製しないので黒っぽかったそうです。 そして、多くの兵隊さんも建設に加わりました。 当時食糧難から、正月に兵隊の数人が餅を食べさせてくれと依頼があったということです。 だがそこの農家もやはり食料(餅)が沢山あったわけでもないのでとりあえず1日目だけ食べさせたようです。 兵隊さんたちも空腹状態だったので、結構食べていったそうです。 農家の方々ももう食料は無いと言ったのにも関わらず、次の日も食べさせてくれとやって来たそうです。 そんな食糧事情だったことで、軍の方が備蓄の米を横流しをしていたそうです。 横流しがばれないよう、倉庫の真ん中の位置から徐々に米を取っていたということです。 何日かして、軍の責任者が米の在庫を確認したところ、数が合わないことが発覚し 横流しの事実が判明したそうです。 その軍のお偉いさんは、部下の取った行動に責任を感じ、自殺したということです。 そして、この飛行場が完成しました。 完成後、1回だけ離陸及び着陸が行われています。 その際、着陸時に事故があり、一式戦闘機が、大破操縦士死亡の事故も起きているそうです。 すでに戦争末期、戦闘機の数も少なくなったのか、または生産能力が低下したのか この飛行場への戦闘機の数が少なかった事で、木製のダミー戦闘機が置いてあったということです。 敵が空から偵察にきたときに「本物」の戦闘機があるように見せるためだったのではないでしょうか。 結局、この飛行場から戦地へ飛び立つという事態になる前に戦争が終わりました。 この飛行場を使うことがなかったと言うことは今となっては良かったのだと思います。 飛行場跡地に隣接する田圃を歩いていると、田んぼの中にコンクリートで出来た 飛行場の遺構らしきものがありました。 滑走路跡地から数百メートル離れた場所にあったのですが、階段のように段があって 一体何だろう?と思っていましたがいろいろお話を聞いたところ どうも格納庫跡地だったことがわかりました。 そして、さらにその格納庫跡地から南東にある4つの三角柱状の大きな石を混ぜて作った いかにも戦時中に作られたと思われる鉄塔あとも発見しました。 私は航空のことはよく解りませんが、今で言う管制塔(通信用?)の鉄塔の基礎だったのかと 思います。 この小さな橋も、飛行場建設時に作られたそうです。
この橋から一直線に伸びる砂利道は、当時トラックが砂利を積んで走ったそうです。 ただ、リヤカーを引けないくらいに、トラックが道を荒らしてしまい、農家の人は苦労したそうです。 一応、軍も道の補修の為に、トラックが空けた穴に石を入れたらしいのですが、大きな固まりの石を 入れただけだったらしく、道が凸凹になって、地元住民が、石の出っ張った所を砕くなどして ならすことになったそうです。 また、周りが水田で土が弱い為に入れた石が道から水田にはみ出す等して大変だったそうです。 今でも道を掘ると、大きな石が出てくるそうです。 |
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越谷の夏は暑い 海の無い埼玉県には、水上公園という多目的プールがある。 越谷も岩槻と跨って水上公園がある。 その水上公園は涼を求めて大勢の人が連日訪れている。 だが、この水上公園から南に向かって、戦中昭和19年から多くの人が 駆り出され、陸軍の飛行場を作ったことを知っている人は この水上公園で楽しんでいる人の中に何人いるのだろうか・・ この越谷陸軍飛行場(他に荻島飛行場や新和飛行場や論田飛行場とも呼ばれてた)が あったとの情報をいまから3年前の新聞でhttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/kikaku/040/6.htm 知りまして、あの場所に飛行場?とどうしても結びつかない気持ちがあったので いろいろ調べてみたくなりました。 ただ、当時こういう軍関係の情報なんて外へ漏れることなんてあり得ないですし、知ってる方も 殆どいないであろうと思っていたので、果たしていろいろ知ることができるかと不安にもなりました。 しらこばと水上公園の駐車場。 ここから南へ行くまっすぐな道路が滑走路跡地です。 空から見た現在の滑走路跡 今は狭い道路ですが、滑走路は約60mの幅があったそうです。 滑走路北側の先端の位置に近い場所です。 ここから延びてる真っ直ぐな道が、滑走路だった所です。 昭和19年に入ると、本格的な本土空襲が始まり飛行場や軍需工場が地方に分散するようになった。 荻島村(現越谷市小曽川)と新和村(現さいたま市岩槻区末田)に跨る建設工事は 暗号名を「ソノヒコ」工事と称され、東部軍経理部陸軍建技大尉が工場長でこの工事にあたったが その施工は主に翼賛壮年団を中心とした近村の勤労奉仕隊によって進められた。 新和村からは、勤労報国隊によって進められた。 滑走路跡の道路です。狭い道路です。 勤労報国隊の作業時間は、午前7時から午後5時までとし報酬は男子1日6円、女子は1日3円であった。 しかし、工事はなかなか進まなかったようで勤労奉仕隊の追加出動要請が出された。 作業時間はほとんど変わりないが、報酬の支払い方法が大きく変わり、1日で引率者と優秀男子が 4円30銭、一般男子が3円30銭、一般女子2円50銭に対し優秀女子3円50銭と賃金に 格差を設け、しかも日銭で支払った。 なりふり構わぬ突貫工事の様がうかがえる。 当初は昭和19年9月20日に完成予定であったが、悪天候その他で著しく工事が遅れ 翌年にわたってしまった訳である。 しかし、こうして完成した飛行場も同時に大門村(現さいたま市緑区)に建設された 燃料や爆弾の貯蔵庫とともに使用されないまま終戦を迎えた。 越谷飛行場に米軍が進駐してきた。歴戦の部隊だそうだが品位の低いえげつない態度の兵士だった。 町へ出て時折町民とゴタゴタを起こしていた。 連合軍の越谷駐留は短期間であったようである。なお現在国の天然記念物に指定されている 埼玉県の鳥「しらこばと」は、これら進駐軍などの乱獲で一時絶滅に瀕したこともあったと 言われる。 こちらは、越谷市史・岩槻市史の中から抜粋させていただきました。 恐らく戦中か終戦直後くらいのの飛行場だと思います。 滑走路跡の道路から少し離れた田んぼの用水路です。 おそらくこの辺りまで滑走路があったのではないでしょうか。 滑走路跡南端です。 この道路の周りは民家、田んぼと、目立ったのは産廃業者が多かったことです。 つづく
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2時間PC設定続けてたら、さすがに嫌になってしまいました。 で、作業すっぽかしてチャリに乗って出て行きました。 出て行った先は、またレイクタウン もうすぐオープンなんですね。 いつもの通りを通って 池に草が生えてるぞ!ビオトープなのか?? 相変わらず街は人影なく・・ 今まで建物が足場で覆ってあったので見えませんでしたが 見えてきました! しかしデカすぎで1日では回れないです・・ 駅からの入り口も予想図でしか見れませんでしたが 予想図通りでした。 下にはペットショップやミニストップも入るようです。 1年半前は空き地だったのに、建ってみると早いですね。 道路を挟んで、まだイオン。 こちらの建物、直線で500m以上あるんじゃないか?? 最近、新聞広告の求人案内からどんなお店が入るかわかってきてます。 でもお店の数多くて、求人集まるのかな?? ちょっと散歩のような感じで周ってみました
このあと、結局PC作業しませんでした・・ |






