もうろく爺ぃの悪あがき

手に取らで、枯れるの待ちゃいいレンゲ草。 か?

壬戌紀行から

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 岐蘇路之記と違い、原文が手元にありませんので、大田南畝全集から引用しています。
 折に触れ、岐蘇路之記を読み併せながら進めてみたいと思います。
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 江戸に入りますと、途中で友人ですとか親族縁者、お孫さんらの出迎えがあります。三月二十一日に大坂を発ち、今日は、翌月の七日でした。


『 七日 天気よし 明はてぬまにやどりを出て 元蕨をこえ堤村をへて 戸田の川を舟にてわたる 此川上は入間川にして末は隅田川なり 志村のあたりにて男俶 井上 鈴木などの迎ふるに行あひぬ

 弟栄名 甥野村氏 聟伊藤鋼達もまた来れり うれしなどはよのつねなり おのおの一年恙なかりしよろこびをのべつゝ 板橋の駅につく 橋をわたりて左なる酒家にいこひて もろ人酒くみかはしつ 紀の国の守の通らせ給ふほど過して 庚申塚のかたの道にいり池袋村をすぎて護国寺の門前にいこふ 去年神無月の比生まれしときゝしうまご抱きて媳なるもの来れり 

近くすめる孫女二人もともに来れる見るに わづかひとゝせのほどゝはいへど たけ高く生ひたちたる心地す 音羽町より改代町をへ 江戸川をすぎ 小石川のわたり官長の庁事に告げて家にかへれり

 僮僕よろこびむかへ 稚子門にまつといひけん 親戚の情話はかきもつくさじ 庭の櫻はちりはてゝ青葉になりしかど 石楠草さきのこりて 小百合葉の苔なつかしげなり

 先かはらけとりどりに したしき友どちいり来りて 日のくるゝもしらず そこともわかぬ酔心地に なをも旅寐の心地なるべし 

   壬戌紀行二巻浄写畢 時享和二年季夏十日也  杏花園 』



 なお、本文の後に、享和二年秋八月十一日の日付で附録を清晨したとあり、文末に次の歌が記されています。

   たちかへるきその麻衣あさからぬめぐみやひるの錦ならまし


 中山道の日本橋は、東海道五拾三次とは別な位置から描かれています。

 

 壬戌紀行のご紹介は、今回を以って最終回といたします。

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 とにかく、この辺りは幕府直轄地の多い所で、蕨の駅は岸本何某というお代官が預かっていたようです。

 直次郎(南畝)さんの一行は、明日は江戸ということで、髪を直したり身支度を整えたりと大忙しです。


『 中山道蕨宿岸本弥三郎支配所といへる榜示あり 右に法花寺あり 今宵は蔦屋庄左衛門といへる宿にやどれり あすは故郷にかへるまうけとて 従者も髪ゆひ頂そりなどしてさはぎあへるに

 御代官岸本氏に属せるもの手附須永軍次郎来りて あすは紀の国の守のとの明六時に邸中を出させ給ひ 四時すぐる比は此駅を通らせ給ふべしといふにぞ あすはとく起出て戸田の川をわたり板橋の駅をこえなば

 昼の比にはやどりにかへりぬべしなど とりどりに物語るに 江戸より相しれるもの二人三人来れりと聞くも嬉しく 酒肴をさへ携へたれば もろともに酒くみかはしつゝ 一年のうさをはらしぬ 』



 蕨に駅の右側に在ったという「法花寺(ほっけじ=法華寺)」というお寺とは、「三学院」のことを指しているのでしょうか。当時の海道は、道筋が異なっていたのでしょうか。何れにせよ、よく分りません。

 時刻の記述がありましたので、当時の「刻・時」について、若干ふれておきましょう。

 本文中、紀州様が「明六つ」に出立して、「四つ」過ぎに蕨の駅を通ると言っていますので、当時は「不定時法」による時の概念でしたから、現在ですと、朝の日の出五時半ごろに発って10時近くということになります。


 最終日の七日には、板橋の駅を過ぎ、江戸へ到着します。一足早く、板橋の駅をご紹介しておきましょう。


   
 海道最後の宿場は、板橋の駅です。駅の名称になった板橋とは、宿場を流れていた石神井川に架かっていた板橋がそのまま駅の名になったといいます。

 絵の中央に階段があり、段丘状の畑の中へと上っていく道があります。さらに、なにやら石柱のように見えますのが道路案内を示した標識(庚申塔)です。

 これは、王子へと抜ける道の標識で、正面が「青面金剛」、右側に「右王子道」と書かれていました。

 描かれた風景は、木曾海道続き絵としては、日本橋に継ぐ二番目のものです。

 様々な旅装束とか行き交う人々、駕籠を勧める駕籠舁、さらに、当時、宿外れに在った茶屋の様子、そこで一休みする旅人と木の陰の向こうに見える茶屋女、その手前では馬の草鞋を取替え中の馬子など日常の様子をさりげなく紹介しています。

 茶屋は、旅籠との住み分けがあり、絵の様に宿外れの位置付けになっていて、これは約束どおり描かれています。

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『 こゝに紀伊殿休といへる札をたつ 御昼のものまいらせらるるなるべし 左に若葉の林しげりあひて 林の陰に茶屋の床几などみゆ 月の宮廿三夜堂なりとぞ 左右ともに畑ある所をゆけば 

 右に武州足立郡岸村早川八郎左衛門支配()といへる榜示たてり 左に自是北南紀伊殿鷹場と書る榜示あり 人家あり 右なる大和屋といへる家に 本家しつの御薬といへる札を出せり 』



 「月の宮廿三夜堂」といいますのは、さいたま市岸町に現存する「調(つき)神社」のことで、調(つき)とは、禁中や伊勢神宮への調物(みつぎもの)のことをいいます。

 その昔、武蔵国の調はここに集められ、東山道(あずまのやまつみち)を経て禁中や伊勢神宮に届けられましたが、宝亀二年(771年)、武蔵国の行政区分が東海道(あずまのうみつみち)に編入されると、その役目を終えました。

 その後、江戸時代になって調神社は、月の宮、二十三夜堂として月神信仰と結びついて二十三夜講などもできたうえ、ウサギが眷属神(けんぞくしん=小神格)となったために、狛犬の代わりにウサギが祀られるようになったのは、万延二年(1861年)のことです。


『 右に社あり 少し坂を下れば焼米をうる家あり よりて焼米坂といへど本名は浦和坂也 左右の田の中をゆきて土橋をわたれば右に社あり 辻村の立場をすぎ一里塚をこえて蕨手村をすぎ蕨の駅につく 』

   
 板橋の宿と蕨の宿のあいだに、戸田川(現在の荒川)がありました。旅人達や近隣の住民は志村から戸田村までを舟で往来しました。この渡しを「戸田の渡し」といいました。

 絵の向こう岸が戸田村です。船着場の向かいに見える粗末な小屋は船頭小屋のようです。船着場には役人が駐在しており、この絵では馬も旅人も一緒ですが、戸田の渡し場には馬舟、平田舟、伝馬舟など十数艘の舟が常備されていました。
  
 ところで、この戸田川という川ですが、普段は川の幅はおよそ100メートル(約55間)程度でしたが、増水時には4キロにもなって渡しは運休となり、川上の岩淵または下手の千住へ迂回したといいます。

 戸田宿には、川留めに備えて本陣が二軒置かれていたそうです。また、この辺りは眺めが良い場所で、富士山を望むことができたといいます。



 今宵の宿は、蕨の駅です。中山道の旅も江戸まで残り一日となりました。



  () 前回にて紹介したお代官です。

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 代官という役職は、勘定奉行配下の小禄の幕僚で知行は五十石程度と申し上げましたが、お役目を大事にし、しかも預かる支配地の民の信望を集めたお代官もいました。

 早川八郎左衛門正紀という人は、元文四年(1739年)江戸で生まれたといいます。明和六年(1769年)幕府御勘定役、天明元年(1781年)出羽国尾花沢の代官となり、次いで天明七年(1787年)に久世の代官となっています。

 このお代官もまた一任地専任ではなかったようですが、業績の評価は高く、地元民に信望があり、在任中に4度にわたる留任願いが提出されたというほど慕われていたそうです。

 直次郎(南畝)さんが壬戌紀行に書留めた前年の享和元年(1801年)から、武州の久喜・岩槻から与野辺りを預かっていました。


『 左右に檜のなみ木ありて くさぐさの木もまじれり 人家もまゝみゆ 右に足立坂東第二番観音といへるしるしあり 聖徳太子の作なりといふ 右に寺あり 二王門あれど扉をとざせり

 左に小社あり 一里塚をこゆれば浦和の駅なり 右に正一位稲荷社あり 烏犀丸うる家あり 王子月参宿と書付し札ある家をみて やうやく江戸に近づきぬる心地して先うれし 』


   
 その昔、晴れてお天気が良いときには遠く浅間山が見えたといいます。
 浦和という土地は丘段状で、この辺りは、太古の時代に浅間山の噴火による火山灰が積もった地域でもあり周りに較べますと、やや高台にありました。

 ですから、浦和宿から北方を見ますと、せいぜい一里半ぐらいでしたから、絵のように大宮宿の家並みがすぐ近くに見えたのかもしれません。
街道沿いの農家の先に見える橋は、見沼代用水に架かる橋といわれています。

 手前の荷駄の後を馬糞を集めて追う子供がいますが、昭和の20年代頃でも、さして珍しくなく、どこの地方でも見かけた風景です。


   
「足立坂東第○番観音」といいますのは、四国八十八箇所霊場や西国三十三観音霊場など霊地巡礼の「うつし巡礼」といわれるもので、“足立坂東札所”として「足立坂東三十三所」が、宝永二年(1705年)に開設されたものです。

 札所は、氷川神社境内の一番観音から三十三番の定正寺観音堂まで、蕨周辺一帯に散在していたといいます。


「烏犀丸」という漢方薬ですが、効能は、はしか・脚気・解熱・毒下しなどに効くとされていたようです。本物?は、犀の角から作られます。

   
 王子月参宿という王子権現の月参り定宿を見かけた直次郎(南畝)さんは、江戸がすぐそこに近づいている心地などと言っています。


 (付記)
 足立坂東三十三所につきましては、「岡田善休日記」によりますと、寛政十年(1798年)に、堀越村の半兵衛なるものが、寺号、院号などを調べて作ったという記述もあります。

 

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 そんな訳で、参勤交代といいますのは、大変なことだったのです。 さて、江戸までは、あと蕨の駅に一泊するだけとなりました。


『 明日は紀の国の大守江戸をたち給ひて 木曾路を過給ふとぞ 駅の中に一里塚あり 左右ともに雑木の林ある所をゆけば左に社あり 人家あり 天神橋の立場よいふ 左右ともに林多し 人家なし 時々に茶店などみゆ

 左のかたに 武蔵国一宮是より二町大門鳥居へ出ると書し札たてり ゆきて見まほしけれど 大宮の駅に入らざれば夫馬をかふるわづらひあり 力なくて見過しぬ 大宮の駅舎も又ひなびたり 商人すくなし 』
 

   
 画面の左、「青面金剛」と彫られた庚申塔に触れておきましょうか。

 青面金剛とは、庚申の夜に悪霊が村の外から入ってこないように祈念して絵のように村の境に建てあった石標のことをいいます。
 また、庚申塔や庚申塚は、ここだけではなく、当時は多くの村々で見られましたものですし、同時に、旅をする人々の道案内をしてもらう道祖神の役割もしていました。

 上尾と大宮の途中からは、遠く冨士を望むことができたといいます。



 かつての「大宮」という地名は、氷川神社の門前町であったことからといいます。関東だけでも300近い氷川神社の総社で、創建は二千年以上の昔などともいわれています。

 直次郎(南畝)さん、問屋場で伝馬継ぎをせにゃならんと、氷川神社へはお参りもせずに行過ぎてしまいました。


『 一膳飯などかける札所々にあり 左のかたに石表あり 左武蔵野国大宮氷川大明神本地正観音とゑれり これ大門なるべし これより十八町ありといふ 土橋をわたりゆけば 自是北早川八郎左衛門支配といへる榜示あり 』


 早川何某とは、この辺りを預かっていたお代官のことです。まもなく、浦和の駅に着きます。


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