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日々に目越よろこ (前回からの続き。) ハし無行人寸く那くして徃來末禮奈れ者道乃中いそ可ハし加ら須心志津可奈里又人馬のち可ら徒与起故竹輿の内馬鞍能上於多や可尓して安やう加ら須只十一二月正二月盤雪ふ可くして行可多し和連江戸爾行こと十二度皆東海道を由幾可へ里しにのち能可へ累さに老の身ハ堂
ひ衣又幾ぬへき多の三なくてはしめて此道をと本利侍へ利し丹於毛ひ可け春与起道と志利奴其時日々に見聞をし所越いさゝ可後乃思ひ天尓世んとて道由幾ふ利に人爾堂つ年天書志類し侍へる我一人の見聞ハ多の三加多介礼ハ毛連多留事た可ひ多留事於本可
らんハうら免し後の三無人彼道乃こと越志礼らハ曾能於ち多留越於幾奈ひ堂可へ累をた春け給へ
寶永六年人日
貝原篤信書
(画像を拡大すると、原本に近いサイズになります。) 日々に目をよろこ (前回からの続き。) ばしむ 行人すくなくして徃來まれなれば 道の中 いそがはしからず心しずかなり 又人馬のちからつよき故 竹輿の内馬鞍の上おだやかにしてあやうからず
只十一二月 正二月は雪ふかくして行がたし われ江戸に行こと十二度 皆東海道をゆきかへりしに のちのかへるさに 老の身はた
び衣又きぬべきたのみなくて はじめて此の道をとほり侍べりしに おもひかけずよき道としりぬ 其時日々に見聞せし所を いさゝか後の思ひでにせんとて 道ゆきぶりに人にたつねて書しるし侍へる 我一人の見聞はたのみがたければ もれたる事たがひたる事おほか
らんはうらめし 後のみむ人 彼道のことをしれらば そのおちたるをおぎなひ たがへるをたすけ給へ
寶永六年人日
貝原篤信書
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(筆者のメモ)
今回がこのシリーズの最後の項になります。 この紀行書に特別な思い入れなどはありませんでしたが、文体が平易で読み易かったものですから紐解いてブログに再度の投稿をしてみました。
同様の中山道の紀行物としては、江戸期以前の老の木曾越は別にして、以前ご紹介しました大田直次郎(南畝)ですとか近似の時代では旗本飯塚正重の「木曾路記?行藤波記」が知られるところですが、この両書に比べますとその内容には些かの物足りなさを感じます。
この作者は、大和本草など多くの著書があり、その内容においては実証主義を実践したことでも評価されておりますが、本紀行においては前後の項に伝聞とか他の紀行書などから引用したらしい記述もあり、それが故か、序文及び後叙において重ねて補筆を要請するやの一文を加えています。
その姿勢を褒めそやす向きもありますが、筆者は賛同し兼ねております。
ま、その様なことはどうでもよろしいのですが、一世紀の後、大阪銅座御用の帰路を中山道を経由して壬戌紀行に記した大田直次郎(南畝)でさえ、文才として事物の描写に優るにもかかわらず、晩唐の詩人「雍陶」の詩、西歸出斜谷詩を益軒の木曾路記からちょいと借りてきたらしいような引用にふれますと感慨深いものがあります。
さて、貝原益軒という人物は、その多くの著書を50歳を過ぎてから残したそうですが、このシリーズ冒頭でもご紹介しましたように、中山道を旅した頃といいますと貞享二年(1685年)のことで、「天和の飢饉」の直後で当時、54歳でした。
当時は黒田家の家臣でまだ宮仕えでしたから江戸へはお役向きの公務出張だろうとは思いますが、その辺りの事は分りません。 35歳には京都在番が解かれ筑紫黒田家へ戻っていて、以降は江戸勤番や京師など長期の公務は無かったようです。
ただ、この人物は39歳の時に17歳のお初という女性と夫婦となり、まだ旅が庶民の娯楽としては馴染まなかった時代に連れ立って随分あちこち出歩いたそうで、「諸州巡覧記」などという旅物を遺しています。
余談ですが、イタリア人でフランスに渡ってシャンソン歌手・俳優として活躍していたY・Montandなどは、75歳の時28歳と歳の差なんと47歳、しかもです、子まで生したそうですから上には上がいるものです。 ですから、モンタンさんは件の「養生訓」などはご存知なかったという訳です。
それはともかく、吾妻路記の原本も所有しておりますが木曾路記同様に面白くありませんのでご紹介しませんが、「小嶋のすさみ」をいづれと考えております。
とは申せ、糖尿病を見くびっていたところ、遂に目に来てしまいました。 近々専門医の処置を受ける羽目になってしまいましたので、いつのことやら分りません。
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木曾路の記から
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岐岨路記乃後叙
岐岨路ハ可祢天幾ゝし与利毛道け者し加ら須可け者し奈と安礼と佐本と安やう可ら須大井川阿部川奈とのこと起洪水爾てこえ可多起所乃う連ひ那く又桑名新江那とのことく那留渡海能奈や三奈しう春ひたうけ与利馬籠まて信濃の内四十七里ハ山中奈留ゆへ坂多介れと箱根のことく佐可しき所奈し山中奈留け爾や人乃心春那をにし帝ひ春加ら春゛安流しの毛てなし他方爾くらふれハまめや可尓いと安つく屋とりも器もけ可らハし加ら春山川の可多ち林木のこ多ち諸州爾すく連う流ハしくて日々に目越よろこ (以下、次回へ。) ハし無
(画像を拡大すると、原本に近いサイズになります。)
岐岨路記の後叙
岐岨路はかねてきゝしよりも道けはしからず かけはしなどあれど さほどあやうからず 大井川 阿部川などのごとき洪水にてこえがたき所のうれひなく 又桑名 新江などのごとくなる渡海のなやみなし
うすひたうげより馬籠まで 信濃の内四十七里は山中なるゆへ坂多けれど 箱根のごとくさかしき所なし 山中なるげにや 人の心すなをにしてひすからず あるじのもてなし他方にくらふればまめやかにいとあつく 屋とりも器もけがらはしからず
山川のかたち林木のこたち諸州にすぐれうるはしくて 日々に目をよろこ (以下、次回へ。) はしむ
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(筆者のメモ)
その頃の書き物の多くは、「乾坤」とか「上下」に分割したり、「序」とか「後叙或いは後序」を添えることが書式としての通例であったようですし、この紀行文もまたその様式を踏襲しています。
一般庶民の遊山の旅などといった事などは殆ど稀であった頃、東海道を十数回往来した益軒さんは、序文の中で述べていますように、これが最後の東下りであろうからと日光詣でを行い、さらには中山道を経由して都へ戻ったのですが、初めての中山道を旅慣れた東海道とは随分印象深く記憶に留めたようですし、とにかく好印象を以って事物を紹介しています。
聞いていたよりは道程が安らかと書き始めておりますが、当時はともかく、その後に民の旅が比較的多くなった頃に海道を旅した女性たちの多くは大川を渡らずにすむ中山道を通ったことは他の旅物でも紹介されるところです。
とにかく絶賛とも言えるような好印象ですが、「山中奈留け爾や人乃心春那をにし帝ひ春加ら春゛安流しの毛てなし他方爾くらふれハまめや可尓いと安つく屋とりも器もけ可らハし加ら春 (山の中故なのだろうか、いかにも人は純真でずるいところなどないし、旅籠の主の接待も他所に比べてこまやかで丁重だし、宿の趣やら食器の類も清潔である)」 と述べています。 それを聞いたあの和倉の加賀屋もビックリしたとか。
この文章の中に、「ひすからず」 という表現が出てきますが、これは上方辺りで使われた方言で、平たく言いますと 「こすっからくない(ずるくない)」 といったような意味として用いられます。普通の辞書には収録されていないようですので書き留めておきます。
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(前回からの続き。) ○白川橋此川者白川与利出留也。左耳知恩院祇園清水へ行道安利
○三条の大橋是与利京へ入奈利。此川ハ加茂川乃下奈利
○日の岡能東。山科乃内丹南方へ行。又西乃方へ由幾山越越天京都五条六条へ入流道安利志留谷越と云坂安利是を苦集滅道といふ。哥能中山清閑寺清水能下をと越留
○追分与利京へ由可春゛伏見爾由くに盤。勧修寺能茶屋を通流。俗耳此所越大龜谷といふハ非奈利。茶こ可゛し奈どう累所奈利。其北乃方尓勧修寺御門跡安利御門跡の南。茶屋能北の道能可多ハらに。宮道弥益夫婦の小社安里。是延喜の帝の外祖父母奈利。此事ハ宇治物語爾見衣多利。西の坂を越行
ハ藤の森乃社の南越通利て伏見爾入流
(本文の結び。 後序に続く。)
(画像を拡大すると、原本に近いサイズになります。)
(前回からの続き。) 白川橋 此川は白川より出る也 左に知恩院 祇園 清水へ行道あり
三条の大橋 是より京へ入なり 此川は加茂川の下なり
日の岡の東 山科の内に南方へ行 又西の方へゆき 山を越て京都 五条 六条へ入る道あり しる谷越と云坂あり 是を苦集滅道といふ 哥の中山 清閑寺 清水の下をとをる
追分より京へゆかず伏見にゆくには勧修寺の茶屋を通る 俗に此所を大龜(亀)谷といふは非なり 茶こがしなどうる所なり 其北の方に勧修寺御門跡あり 御門跡の南 茶屋の北の道のかたはらに宮道弥益夫婦の小社あり 是延喜の帝の外祖父母なり 此事は宇治物語にみえたり 西の坂を越行
は藤の森の社の南を通りて伏見に入る
(筆者のメモ)
木曾路之記もいよいよ京師へ到着です。 こちらへ行けばどこそこへ、向こうの道を辿ればどこを経由して何がしへ出る、などと道案内に徹します。
見慣れた風景ですからそれほど書き留める事柄などがなかったのでしょう。 ほとんど前回で旅は終わっていたような趣ですが、「茶こがしなどうる所」 とはどの様な家並みだったのでしょうか。
「茶こがし」 とは、所謂ほうじ茶のことでしょうか。 なんでも、焙煎温度を高くして加工するようですが詳細は分りません。 どうやら、廉価な茶とでも言いましょうか庶民御用達のお茶だったような気がします。
何れにしましても、「後序」までで店じまいにしましょう。
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小関越へゆく道北丹 (前回からの続き。) 安利是与利北へ越ゆ遣ハ三井寺の南へ出留也
○山科の内爾御陵村有。北耳天智天皇能御陵安留故丹此邊の野を御廟野と云。御上洛の時京都町々の宿老ど毛皆野爾御迎爾出て拝謁し奉留
○西の坂乃上を日の岡といふたうげ有。其西能京の方へ下留坂を松阪と云
○う者゛可゛婦ところと云所昔乱世爾ハ爰にて山賊人を殺し衣財をう者゛ひしと云。其時ハ白昼爾も一両人ハ行可゛多可里しと奈ん
○松阪爾義経のけ安遣゛能水安利
○粟田口京与利東國へ出口奈り。左爾青蓮院御門跡安利。左の山上爾将軍塚有道与利ハ見衣春゛右丹南禅寺黒谷吉田白川乃方爾由く道有。粟田山ハ名所奈利。 (以下、次回へ。)
○白川橋此川者白川与利出留也。
(画像を拡大すると、原本に近いサイズになります。)
小関越へゆく道北に (前回からの続き。) あり 是より北へ越ゆけは三井寺の南へ出る也
山科の内に御陵村有 北に天智天皇の御陵ある故に 此邊の野を御廟野と云 御上洛の時 京都町々の宿老ども 皆此野に御迎に出て拝謁し奉る
西の坂の上を日の岡といふ たうげ有 其西の京の方へ下る坂を松坂と云
うばがふところと云う所 昔乱世には爰にて山賊人を殺し衣財をうばひしと云 其時は白昼にも一両人は行がたかりしとなん
松坂に義経のけあげの水あり
粟田口 京より東國へ出口なり 左に青蓮院御門跡あり 左の山上に将軍塚有 道よりは見えず 右に南禅寺 黒谷 吉田 白川の方にゆく道有 粟田山は名所なり (以下、次回へ。)
白川橋 此川は白川より出る也
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(筆者のメモ)
松坂にあるという義経の蹴上げの謂れについて、kyotoTownmap他から引用させてもらいますと、彼の地が蹴上と呼ばれるようになったのには、二つの説があるとのことです。
先ず、その一つは、源義経がまだ牛若丸と呼ばれていた頃、と申しますと鞍馬寺で修行をしていて、後に安元三年初秋に、以前にも「武者より守山の項」でもご紹介しました金売吉次に案内されて奥州は藤原氏の平泉へ向かいますが、一行がこの地に差し掛かったとき、折しも通りかかった平家の關原輿市重治という美濃の國の住人が乗る馬が、水溜りの水を牛若丸に蹴りかけたことから両者が争い、腕に覚えの牛若丸が興市をはじめ家来らを惨殺したという伝説です。
もう一つは、蹴上の南に九条山が在って、そこにはかつて刑場があり、牢から引き出された憐れな咎人がこの山になかなか登ろうとしないのを役人が後ろから蹴り上げて登らせた、そんな説があるそうですが、どちらにしたところが取って付けたような陳腐な言い伝え、のような趣です。
昼日中でも物騒で往来も難儀を極めたという「うばがふところ」といい、蹴上げの伝説といい穏やかならざる話です。
ついでに、その「うばがふところ(姥ヶ懐)」とやらですが、名称とは大違いの物騒な場所として紹介されましたが、そもそも、このおかしな地名は前記の如く「姥ヶ懐」と記し、そこは、日当たりの良い南に傾斜した場所を意味するそうで、それはちょうど小児が乳母様の懐に抱かれているような心地よい場所という意から「うば」には、「乳母・祖母・姥」等の字が当てられたそうな。
いずれにしても同様な地名があちこちにあり、ちょっと調べただけでも、東北地方の山形県上山市姥が懐(バス停に残る。)、宮城県村田町姥が懐、福島県伊達市姥ヶ懐、茨城県ひたちなか市殿山町姥の懐(プール施設に名を留む。)、中部地方の岐阜県東海市名和町姥が懐、愛知県では瀬戸市の他にも新城市に姥が懐、さらには徳島県阿波市にも姥ヶ懐があり、類似の名称には愛知県瀬戸市には「祖母懐」と書いて「そぼかい」と読ませている所があるといいます。
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関山といふ毛相 (前回からの続き。) 坂山奈利名所也
○大津と追分能間大谷といふ所爾。者し里井とて南の方爾水能王起出留井有
○近江と山城乃境ハ大津と追分の間。追分能東一町者可利走井の西三町に安利。是西三十三ケ國東三十三ケ國の境奈利
○追分ハ京と伏木へ由くちま多也町安利
○追分与利南能方爾牛の尾山安利。音羽山と毛云。高く上利由遣ば音羽の滝安里音羽の瀧凡三所爾有。此地と清水寺と比叡山と尓安利
○山科の里ハ寸べて八郷十八村安利。東西ハ大谷与利日の岡能間一里餘有。北ハ御廟野与利南一里餘有。春べて方一里餘安利。宇治乃郡奈利
○大谷の西爾十禅師四の宮河原諸羽大明神の社安利。小関越へゆく道北丹 (以下、次回へ。) 安利
(画像を拡大すると、原本に近いサイズになります。)
関山といふも 相 (前回からの続き。) 坂山なり 名所也
大津と追分の間大谷といふ所に はしり井とて南の方に水のわき出る井有
近江と山城の境は大津と追分の間 追分の東一町ばかり 走井の西三町にあり 是西三十三ヶ國 東三十三ケ國の境なり
追分は京と伏見へゆくちまた也 町あり
追分より南の方に牛の尾山あり 音羽山とも云 高く上りゆけば音羽の滝あり 音羽の瀧凡三所に有 此地と清水寺と比叡山とにあり
山科の里はすべて八郷十八村あり 東西は大谷より日の岡の間一里餘有 北は御廟野より南一里餘有 すべて方一里餘あり 宇治の郡なり
大谷の西に十禅師 四の宮河原 諸羽大明神の社あり 小関越へゆく道北に (以下、次回へ。)あり
(筆者のメモ)
大津を過ぎますと、途端に目配せとでも申しましょうか街道筋を描写する様子が変わり、関ヶ原から大津までの伝聞ですとか既発行の旅物からの借り物の記事ではなく、ご自分の目に留まった内容になります。
ですから、段落も多くなり書き留めたい記事などもいきおい多くなりますのもご覧のとおりで、趣もたいそう変わってまいります。
冒頭の「東山道西帰之記序」でもご紹介しましたように、益軒さんは江戸出立時には中山道へは出ず、日光へ参詣するため千住へと足を向けています。その時の様子は、「日光名勝記」に収められています。 一方、関ヶ原からは余呉の湖を経て越前の敦賀とか気比などを廻り琵琶湖の西岸経由で大津にて中山道へ合流しています。
また、後者の敦賀方面を辿った様子は、「続諸州めぐり巻之上」に収められております。 両書に目を通しますと双方共にご自身の耳目による記事ですし、木曾路之記を凌ぐ見聞録に仕上がっていることを書き添えておきたいと思います。
特に、興味深い件りをご紹介しますと、宿の食事については、東海道や中山道ではまったくふれられませんが、「宇都宮より徳次郎」の項では、「食物等も東海道にははるかにおとりたれとも、ともしからず」といい、さらに、「この道筋、竹木不自由なる故、宿々の民家おほくは床なし、地にむしろ敷きて座す」 などと、民の生活の一端を記しております。
あくまでも私見ですが、木曾路之記と称した紀行書は推敲に長時間を要したと伝わりますが、推敲を重ねたというよりも、自らが辿る事がなく伝聞に頼った道程の様々があまりに素朴過ぎる思いに発行を躊躇した結果であったのではなかろうか、そんな風にも感じます。
「日光名勝記」の東照宮の件りなどでは、読者が自らの印象と重ね合わせて読み進めることが出来るほど細緻にして周到な内容ですので、ご本人にしてみますと尚更といったところだったのでしょう。
それでは、これも余談ですが、「近江と山城の間は、東国と西国の境で東西ともに三十三国」 にも若干ふれておきましょうか。 (このこととは別な話ですので、誤解無きよう。)
ここでいいます三十三国とは、大名家(小生は江戸期には存在しない「藩」は使いません。)のことではなく、律令時代に置かれた三関(鈴鹿、不破、愛発)のうち、平安時代に越前の愛発(あらち)の廃止に伴い近江の逢坂に置かれた「逢坂の関」以西を「西国」、東を「東国」と称し、東国は以下の行政区分をいいました。
東海道は十五国で、伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸。 東山道は十一国で、近江、美濃、飛騨、信濃、諏方、上野、下野、陸奥、石城、石背、出羽。 北陸道は七国で、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡。 と、こんな塩梅でした。 (西国は省略。「令制国」を参照)
つまり、現在の関東と関西ではなく、その昔の日本国では「畿内」が中心でしたから、以東を「東国」、以西を「西国」としていたことを益軒さんは述べたという訳です。
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