【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

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 私は、今回『1000コメント突破』と人気度の『☆』が黄色く1つ点灯という、2つも幸運が

一緒にやってきました。これは全て皆さんのご支援があって出来たことですし、今回

また、たくさんのお祝いのコメントと傑作ポチを頂けた事に、心から感謝しています。

とにかく、皆さんにはご迷惑も色々お掛けしてきたと思います。それなのに色々と

祝福して頂けた事は、今回得たもっとも大切な『宝物』になりました。

 私は、これからもとにかく前進して行きます。ただ少し焦って頑張りすぎてしまうところが

有りますので、焦らずにゆっくりと歩んでいきたいです。

 今回、色々と祝福して頂いた全ての皆さんに対して、心から『感謝』しております。

本当にありがとうございました。

 天正9年(1581)2月、イエズス会の巡察使バリニャーニの一行が入京した。信長の

宿舎本能寺とバテレンたちの南蛮寺は近くである。信長は馬揃えのために安土城から京都に

来ていたのである。

 23日、バリニャーニが黒人を連れて信長に謁見した。黒人は26〜7歳、見るからにたくましく

せいかんな感じで、力は10人力以上とみえる。バリニャー二は、この黒人を布教の許可を与えて

くれた信長へのお礼として献上した。

 信長は黒人をはじめて見るのである。この黒い肌が、ほんとうなのか信じられない。

信長は不思議の余り、小姓に命じた。「洗ってみよ」もちろん、色が落ちるはずがない。信長は

頷いて納得した。

 その黒人に信長は弥助と名づけ、甲洲征伐の軍旅にも伴ったという。本能寺の変のとき

弥助は付近の教会堂に逃れたという。

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 南部信直は南部家の宗家・政康の孫であり父・石川高信の側室の子として天文15年(1546)

岩手郡一方井に生まれた。南部家は甲斐源氏の流れをくむ陸奥の名族である。

 南部家24代の南部晴政に子がなく田子九朗信直が晴政の長女であったことから晴れて嗣子

となった。ところが予期せぬことが起こった。晴政に実子・鶴千代(晴継)が誕生したのである。

 当然のことながら晴政は自分の実の子に相続させたいし願った。信直はこのことで家臣が

分裂することを恐れてみずから田子城に退き晴継が25代目を継いだ。以後、家督相続の争いが

続く事になる。

 天正15年(1587)1月24日当主の晴政が死ぬとその後を追うように晴継が死んでしまった。

これは九戸政実(くのへまさざね)が暗殺を謀ったという噂も流れた。

 再び後継者争いが起こり重臣たちは3派に分かれた。田子九朗信直と九戸政実、八戸政栄が、

家督を争った。一門の実力者北信愛が鉄砲100挺の実力者で、信直を宗家に押し上げた。

このときも政実は密に刺客を送ったが失敗に終わったと言う。

 信直はただちに家臣を登城させ命に従わぬものは処罰することを布告した。信直は賢明に、

そしい家臣に公平な26代になった。

 やがて信直は鷹商人の清茂は鷹を通じて秀吉の寵愛を得ていた。そこで信直は清茂の力を借り

前田利家を介して本領安堵の朱印状を受けることができた。

 やがて信直は清茂によって秀吉の小田原城攻めしることになる。「北条氏直らはほどなく

滅ぼされ、秀吉の大軍が大挙して奥州に下向すること間違いない」(奥州永慶軍紀)一刻も早く

秀吉の元へ行かねばならぬと思いながらも今留守にすると九戸一族が反乱を起こす恐れがあった。

信直は清茂を使者として送り、秀吉への忠誠を誓った。

 天正19年(1591)秀吉の旗下となった信直はいぜんとして九戸政実との反目が続いていた。

政実が大浦為信、伊達政宗と手を結んだため信直はこれを謀反と判断して同年九戸城を攻めた。

 一進一退の攻防のなか、3月に一時攻められたものの秀吉の援軍、徳川家康、秀吉の甥・秀次

浅野長政わによってついに政実を滅亡させた。

 晩年の信直は盛岡城の築城と町造りに情熱を注ぎ、南部氏の領土は北は青森県下北半島から

南は岩手県の北上中央までひろがっていった。

仙台城

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 文治5年(1189)源頼朝の藤原討伐ののち、この地方の地頭に任ぜられた千葉胤通が

青葉山に城を築いたといわれる。天正のはじめから米沢城を本拠としてこの地方に勢力を

伸ばした伊達氏は、政宗の代になり中央に権力をもった豊臣秀吉に対し、日和見態度をとっていたが、

天正18(1590)小田原征伐中の豊臣秀吉に会い臣従したため、その拡げた領地は削られたが

58万石を安堵され天正19年米沢から岩出山城に移った。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの

のち62万石となった政宗は、岩出山城が狭小として、千葉氏の居館が有ったと言う青葉山

を新しく城地として選び、大規模な築城の工事を起こした。慶長8年に完成したので、

岩出山から城下町もここに移し、名も仙台と改めた。これは唐詩「仙台初見五城楼」より取った

と言われる。城は青葉山上に本丸を置き、その北側に段階状に中曲輪・三の丸があり

二の丸は隣接して独立した郭になってした。青葉山の下で湾曲した広瀬川を外堀とし、その規模雄大

な城郭であった。山上の本丸は山麓より60メートルの高があっり、天守台は築かれたが

天守は造られませんでした。徳川氏にたいする遠慮とも、すでに天守は不要と政宗が判断した

ともいう。伊達氏は歴代ここに居城とし明治に至った。今では城郭一対青葉山公園となり、

本丸には護国神社、三の丸に市立博物館などがある。大手門跡に隅櫓が復元されている。

 また、本丸には仙台に生まれた詩人土井晩翠の「荒城の月」の詩碑がある。

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