【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

 今日、太田農林大臣が辞任した。今更と言いたくなる。ただこの辞任も誰のためにしたのか

良く見た方が良いだろう。また過去の大臣にも責任がある。したがって自民党の責任でもある。

ただ太田大臣が辞めたからと言って終わりになる事はない。

イメージ 1

イメージ 2

 関ヶ原の戦いで、西軍につきいまだに動かない一団がある。島津隊である。
 
その島津隊が雨中に猛然と動き出した。全面の井伊・松平隊を一気に突破した。そして

家康の本営の前を猛烈な勢いで駆け抜けて行った。あの猛将福島正則もさすがにその凄まじさに

思わず道をあけたがすぐに追撃した。島津隊は、烏頭坂(うとうさか)にさしかかるころには

半減していた。若い勇猛をうたわれる豊久は殿軍(しんがり)で奮戦した。

 この時取った戦法が「ステガマリ戦法」である。最後尾の武者が草のなかで潜んで銃で追撃者を

撃つ。弾切れになればそのまま槍で追撃者に突っ込んで戦う、武者達が死ぬまで戦って時間稼ぎをする

間に一行は逃げ延びるというものである。このとき柏木源藤という男の撃った弾が井伊直政に

傷を負わせた。直政はこの傷が悪化して2年後死去している。この時島津豊久も戦死し

多大なる犠牲をでした。しかし義弘の一団はとにかく薩摩に帰還できたことは、まさに奇跡である。

 ちなみにこの時、東軍が他の武将達からも歓声が上がったという。それだけすさまじい

事だったようである。



※ チェスト=掛声の様なものである。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 島津氏は、祖忠久の代から薩摩、大隅、日向の三国の守護で鎌倉時代以来の名門である。

戦国大名としての基盤をつくったは義弘の父、島津貴久で、その長男が16代義久、二男が18代

義弘である。

 天文14年(1586)に義珍(よしまさ)、同年15年に義弘と改名し、慶長4年(1599)

には剃髪惟新と号した。

 永禄9年(1566)貴久から家督を相続した義弘は、元亀3年(1572)に日向の伊東義祐を

木崎原(きざきばる)で大敗させ、天正5年(1577)日向から追放した。さらに翌年、大挙して

南下し強引に攻撃してきた大友宗麟・伊東連合軍を激戦の末、敗走させた(耳川の合戦)。

天正9年から10年にかけては肥後の相良氏(さがら)、阿蘇氏、合志氏を破って肥後を平定し、

さらに筑前にも進出して筑紫広門や高橋紹運(じょううん)を下したが、大友氏の訴えがあったため

豊臣秀吉が和議を勧告した。しかし、島津氏はこれを拒否して九州全域の領有を主張したため、

秀吉の九州討伐となった。

 天正15年の秀吉の戦いでは、緒戦こそ勝ったもののその後は後退し、秀吉軍22万の軍勢による

攻撃には抗しきれず5月に降状しち。同年同月、大隅一国ならびに日向真幸院を秀吉から安堵された。

翌年上洛し、7月豊臣姓羽柴氏をあたえられ、同17年8月帰国を許された。

 その後は秀吉への忠誠を示すためによく働いている。特に文録・慶長の役(朝鮮出兵)では大いに

戦功をあげ勇名も馳せたが、莫大な費用も投じている。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、1500の兵を率いて甥の島津豊久、山田有栄らとともに

大垣城を出発、小池村に鋒矢の陣形を敷いていた。

 しかし布陣したものの、戦闘が開始されても島津隊は動きがなかった。なぜ傍観を決め込んだのか、

それは二つのわけがある。一つは、義弘は西軍属したものの徳川家康にたいして敵意を抱いていなかった

からである。もう一つは、前日の大垣城での軍議で、家康の本陣に先制攻撃すべしという自分の

提案が受け入れられず自尊心を傷つけられたからであった。

 ところが事態は急変し、西軍総崩れのうちに島津隊のみが取り残され、東軍の猛攻撃を受ける

ことになってしまたのだ、ここで義弘は、常識では考えられない行動をとった。それは東軍の

真っ只中を突破し、伊勢方面に逃れるというものであった。

 東軍の攻撃で数少なくんった島津軍の一団ではあったが、奇蹟的にほとんど無償のまま関ヶ原

を走りぬけた。しかしやがて追撃してきた福島正則、小早川秀秋、本多忠勝、井伊直政の諸隊

によってつぎつぎと倒れ、遂に牧田川の手前で豊久も討ちとられた。それでも義弘は牧田川をこえて

さらに逃げた。かろうじて戦場を離れることができた。この時、戦闘開始の時に1500余りいた

兵が80人余りになっていた。

 その後、伊勢路、伊賀路、大和路を通って泉州堺に潜行し、堺の町人、入江権左衛門の助けで

船出し、摂津住吉沖で大坂から逃げてきた妻と合流し薩摩に帰った。

 帰国ごは、桜島に蟄居した。その後、井伊直政、本多正信からの家康へのとりなしによって、

同7年義弘は赦免、義久に本領安堵となり、義弘の二男・忠恒(家久)への家督相続が許された。

 島津氏は戦国には珍しく四兄弟の結束が硬かった。長男の義久を中心に二男の義弘 三男の歳久

四男の家久(忠恒とは、別人)がとにかく良く結束していた。九州全域へ破竹の勢いで侵攻した時も、

朝鮮出兵でも変わらなかった。関ヶ原の頃は歳久と家久はなく義久と義弘の二人になっていた。

 義弘は、元和元年(1619)7月21日大隅の加治木(かじき)で死去した。学問、文芸にも

優れていた。また茶の湯を愛し、千利休の弟子にもなっている。



上から、島津貴久・義弘・豊久である。それと豊久の具足である。
 
 



 
 

 汚染米の被害の広がりが、益々広がった感じである。京都の中学74校で被害にあい

また、コンビニのおにぎり10万個が愛知県をはじめ8県で販売され、在庫はないようである。

この様子では、一般の家庭の中に入り込んでいる可能性が高くなってきたと言える。

 農水省の責任はとても重い、はっきりいって何も行政を行っていない証拠であるそれどころか

悪徳業者と手を組んで、悪事を働いた事を疑いたくなるような状態である。いったいどうする

のだろうか。また自民党の滅亡に繋がる原因にもなりかねない事態である。

全1ページ

[1]


.

ブログバナー

[伊 達 政 宗]
[伊 達 政 宗]
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(9)
  • ドナ
  • 中路正樹
  • Kayo
  • ゆかティン
  • niwa.
  • ☆y-min☆
友だち一覧
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事