|
賤ヶ岳七本槍の一人。嘉明の父・教明は松平氏に仕えていたが、三河を離れて諸国を歩き、
やがて秀吉に仕えた。嘉明も早くから秀吉に従い、賤ヶ岳で華々しい活躍をして3000石を
賜っている。
天正14年(1586)に淡路志知城(しち)1万5千石を与えられ、水軍の指揮を任された。
以後四国・九州攻めに参加、小田原の陣では伊豆下田城を陥落させ、海上から小田原城に向けて
艦砲射撃を見舞っている。
朝鮮出兵では李舜臣率いる朝鮮水軍相手に苦戦を強いられたが、三道水軍統制使・元均を
敗死させるなどの殊勲をあげた。また、名護屋城の本陣に送られた生け捕りの虎が暴れだした時、
1人悠然と居眠りをし、事が収まってから「何が起きたのか」と尋ねたという豪気な逸話も残っている。
これらの武勲によって文録3年(1594)には伊予松山6万石に封じられ、秀吉没後は家康に接近、
三成暗殺計画にも加わっている。
慶長5年(1600)、家康が会津討伐の軍を起こすとこれに同行、岐阜城攻めに参加し、関ヶ原
でも3000の兵を率いて最前列に陣し果敢に戦った。宇喜多隊の横腹に突撃して押されていた
僚友福島正則を救ったが、正則は感謝するどころか「嘉明め、我が先陣を盗むつもりか!」と逆に
激怒した。これを聞いた嘉明、さすがに腹を立てたらしく「なら勝手にしろ」といわんばかりに
さっさと兵をまとめ、攻撃目標を石田隊に変更している。西軍の敗走が始まると、東軍諸将は争って
追撃したが、嘉明隊だけは「追討無用」と一糸乱れぬ陣形を保った。それを見た家康は、「嘉明は
何事につけ巧者である」と称えたという。戦後は20万石に加増された。
大坂の陣では江戸の留守を預り、夏の陣に従軍して勇戦した。元和8年(1622)には家光
の鎧初めの式を取り仕切り、寛永4年(1627)、陸奥会津40万石を賜った。ちなみに
この時推薦したのは、永年なかの悪かった藤堂高虎である。
その死後、子息・明成が徐封されるが、孫の明友が大名に取り立てられ、近江水口藩にその系統
を伝えた。
|