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秀吉はいつごろから朝鮮・明(中国)侵略を考えていたのだろうか。堀杏庵(ほりきょうあん)
の『朝鮮征伐記』では、1577年(天正5、宣祖10)、信長配下の時代にその意志を持っていたと
書いてある。秀吉は主君の信長に「中国(日本国内)・九州平定は物の数でまない。次にそのへ氏と
九州の一年分のる年貢を私にいただければ、兵糧・兵船を整え朝鮮に攻め入りたい。そこを
攻略すれば、次は大明国を征伐しましょう。三国を手に入れることなど容易い(たやすい)ことです」
と言ってのけた。さすがの信長も秀吉の気宇壮大(きうそうだい)なのには驚嘆したというが、
これはそのまま信じられない。秀吉の出世物語によくある調子のいい作り話だろうと思う。
ただ、当時の支配者たちの目が国内統一、大航海時代という世界的な動きを反映し、海のかなたに
向けていたことが推察できる。
もう少し確かなのは、1585年、腹心のひとり一柳末安(ひとつやなぎすえやす)(美濃竹鼻城主)
に「日本国は言うまでもなく、唐国(明)まで征伐する」と口にしたのが最初である。
この年、秀吉は紀州・四国平定を成しとけ゜、関白に任官され、全国制覇を目前にしていた時期だった。
翌年、秀吉は、イエズス会の宣教師スパール・クェリョを落成したばかりの、大坂城に招待し、
同様の事を話している。この時期の会見の様子をクェリョは、本国に送った通信で
「秀吉は日本国全国統一し、最高の地位に昇り、所領も金銀も十分もっているので、何も望んで
いない。ただ死後、名前と評判がの残るのを望むだけである。私は日本を豊臣秀次に譲り
自分は朝鮮・中国を征伐するため渡航することにした。そのため二千隻の船を作り、大軍を
出兵させるつもりで、秀吉が私たちに要求したのは、艤装(ぎそう)した大きな帆船(軍艦)二席
である」と述べている。このはつげんは側近に軽く洩らしたのではなく、公式の場所のものであるから
海外侵略を内外に公表したものといってよい。事実、これははるか遠くのローマ教皇にまで
届いている。
1587年には、毛利輝元・黒田孝高たちに、九州平定に努めるとともに、次の挑戦渡海の準備
を告げ、対馬の宗義調(そうよししげ)にはを命じた。秀吉の対外政策は、朝鮮だけでなく他の
国に対しても強圧的で、琉球の服属を強制し、高山国(台湾)・ルソン国(フィリピン)・
天竺国(インド)には使節の来日を要求している。
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