【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

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 黒田長政の黒田藩には、林田左門という戸田流の達人がいた。

あるとき、平時の木刀の稽古は畳の上の水練(やくにたたない稽古)でしかしないという

考えを持って剣術の稽古はしない力自慢の若者がいた。この先は要約ですが要するに

この若者、あの林田左門に木刀で挑みかかったが、見事に打ち負かされ頭に大きなタンコブ

をこさえあまりの挫折に、家にこもってしまった。恥ずかしいし自信を失ってしまったわけです。

この事が、主君の長政の耳にも入って呼び出されてのです。若者は半ば心配だったでしょう

もしかすると仮病していたことを怒られると思って仕方なくいったのです。

いよいよ長政の部屋に入り、彼の前に座ったそのとき長政から「其の方、先日左門に打たれたそうだが

家中一の使い手に勝負をいどむとは見上げた志じゃ、若い者はそうでなくてはいざっという時の

役に立たぬ。負けたことは恥ではない。左門は天下に名だたる達人、其方は素人であるから負ける

のは当たり前えじゃ。余も若いころ柳生但馬守、匹田文五朗らについて稽古したころは、我流で

立ち向かってしばしば打たれた。戦場は其方が言うとおり、必ずしも兵法の得意な者が勝ち、

不得意が首を打たるるとは限らぬ。しかしながら、兵法を修業しないのは武士の習いに背くぞ。

其方、これから左門に入門して稽古するがよい」と長政からねんごろに励まされた若者は

涙を流して感謝した。その足で左門の弟子に成り猛稽古をしたその結果その若者は

誰にも負けない武芸者になったということです。この後長政に褒められたのは言うまでも

有りません。

 黒田長政は暇さえあれば、部下と話した。それも夜話が好きだった。そういうときは、部下も

一升瓶を下げてきたり、あるいはちょっとしたつまみをもってきた。夜を徹して、酒を飲みながら

話すこともあった。

 ある雪の夜、またいつものように、五人ばかり部下が、酒を下げてやってきた。長政は

ざっくばらんな男だから、部下に奢ってもらうことをなんとも思わない。長政に対する親しみ

が増した。上司によっては、部下に奢られることを恥と思い、いつも自分が奢らなければ上司

の体面が保てない、などと考えるむきもいるが、長政は決してそんな考えのせまい男では無かった

部下から、「殿様、今晩一杯やりましょうよ。割勘でどうですか?」といいよれば

「おお、いいぞ」といった。また、「ときには、われわれに奢らせて下さい」といえば

「そうか、それでは今晩は気持ちよく御馳走になろう」と応じた。こういう点、長政は構える

ところが全くなかった。

その冬の夜、部下が持ってきたのは、豆腐だけだった。しかし長政は、「これだけのつまみが

あれば十分だ」といって、土鍋でとことこ煮た湯豆腐を一緒につつきながら、話に興じた。

が、話があまりに面白過ぎたので、やがて、すこし酔いがさめ、腹も減ってきた。

「殿様、腹が減りましたな?」部下の一人がいった。長政も、「そうだなあ、おれも腹が減って

きたなあ」と応じた。そして、「誰か、台所へいって見てこい。何か残りがあるかも知れない

飯でも残っていたら、握り飯にしてこい」といいつけた。

「殿様、こんな鯛が残ってましたよ!焼いて食っちまいましょう」といった。しかし長政は

「よせ、その鯛はおれのものではない。料理番が、あした父上の如水様に届けるといっていた品だ

 恐れ多いからやめろ」といった。部下は、惜しそうな顔をしながら、鯛を見つめていたが、

やがてうなずいて、もう一度台所へ戻した。長政がそのあとでいうのには、

「あの鯛を食べてしまっても、父はなんとも言わないだろう。俺が毎日こうやってお前たちと

話してい合っているいることをよくご存知だからな。おれがあの鯛を台所へ戻させたのは、

父の事を心配したのではない。料理番のことを心配したのだ。あしたの朝出勤した料理番は鯛が

無くなっていることを知って真っ青になるだろう。もちろんおれが食ったといえばそれで済むが

それにしても、一時的にも料理番のきもをひやさせるのは、忍びない。わかってくれるな?」

聞いていた部下たちは、一様にうなずいた。

「殿様の、そういうところにみんな参っちゃうんですね。殿様は、本当に人に気を使うのが

うまいよ」と大笑いした。


     童門冬二著 『人心掌握の天才たち』(戦国武将に学ぶリーダーの条件) PHP文庫 より

朝鮮出兵の開始

  日本軍の朝鮮侵略は1592年(文録元年、宣祖25)4月13日(明暦14日)から始まった。

一番隊である小西行長・宗義智(よしとも)たちの率いる1万8700人は、700隻余りの軍船

に分譲し対馬を出港、朝鮮釜山浦(プサンポ)(港)に向かった。行長・義智は義理の父子関係で

両者とも比較的朝鮮や海外の事情に明るかった。行長の年齢は、40歳前後ぐらいで

義智の年齢は25歳の青年武将である。

 4月12日、釜山チョム使(守備隊長・従三品)チョンバルは、絶影島(チョンド)で猟していたが

夕刻、対馬海域に海を覆うような大船団を発見した。仰天したかれは、城内の防備を固め、

各地に日本軍侵略の伝令を飛ばしたのである。極力戦争を避けたい小西行長は、朝鮮に道を借りて

明に侵入するという「仮道入明」を朝鮮側に求めたが拒否され、ここに7年間にわたる戦争の

火ぶたが切られた。

日本軍は13日未明、釜山城目指して一斉攻撃にかかり、鉄砲隊は西門外の高地から、城内へ

猛烈な射撃を浴びせた。鉄砲の号音をはじめて聞いた朝鮮軍は、驚愕し戦意を喪失する。

その動揺に乗じて、日本軍は北壁から城内に突入し、正午ごろチョンバルは戦死し、1000人

の守備兵もほとんど討たれ、釜山城は陥落した。
 
 

朝鮮出兵の原因

 九州征伐が完了し天下統一した秀吉は、その目を朝鮮へと向ける。ただし朝鮮はその先

明への足がかりとしようとしたのだ。そこで対馬の宗氏を介して朝鮮に入貢と国王の参勤を命令した。

だが、宗氏は朝鮮を恐れていたため本気で交渉を行わなかった。その結果、秀吉の元に来たのが

国王ではなく、通信使だったために激昂。その後の調整もつかず、朝鮮出兵さなった。

日本を統一し、さらに大きな力を得ようとした秀吉の成り上がり精神だったのかもしれない。

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