【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

戦国時代とその時代

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全18ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

真田幸村

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 幸村は永禄10年(1567)武田信玄の武将真田喜兵衛昌幸の二男として生まれた。

母は山之手殿、頼忠の女ともいう。幼名弁丸、のち源次郎と改名した。昌幸は真田幸隆の三男で、

信玄の近侍となり、甲斐の名門の姓をあたえられて武藤としょうしたが、天正3年(1575)、

武田勝頼が三河長篠で織田・徳川連合軍に大敗した時、長兄・次兄が戦死してしまったので

真田の家督を継いだ。

 武田氏が滅び、昌幸は自立したが、上杉、北条、徳川の諸強豪のあいだにはさまれて苦しい立場

に立たされた。はじめは北条氏に属し、次に徳川氏に属したが、三転して上杉景勝に臣従し、

 天正13年(1585),19歳の幸村を人質として春日山に送り、上杉氏の援助を得て、徳川家康

の軍を上田城外に迎え撃って、大いにこれを破った。のち、秀吉に送り、幸村を大坂城に出仕

させ、また、家康と和睦し、長子信幸(信之)を家康に出仕させた。文録元年(1592)、

幸村は秀吉の馬廻りとして名護屋城に在陣、豊臣家の奉行大谷吉継の女を娶り、文録3年

(1594)、従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣の姓を許された。

 関ヶ原では、父の昌幸とともに豊臣方に付き、敗れたために高野山の宿院蓮華定院に

移り後に、山麓の九度山に移り浪人生活を送る。そのさなか慶長16年(1611)、昌幸が

67歳で九度山で没したのである。

 慶長19年(1614)10月、秀頼の使者は幸村の大坂入城をすすめ、黄金200枚、銀30貫

を贈った。幸村はその身辺を去らなかった家来と家族を連れて入城した。紀州の浅野長晟(ながあきら)

は、かねて幸村の動向に気をつけるよう九度山あたりの名主、年寄に命じておいた。

幸村は一計を安じ、近郷近在の名主・年寄ら数百人を集めて大盤振る舞いをし、連中が

酔いつぶれているすきに、上下100人ばかりの人数で入城したという。

 冬の陣・夏の陣における幸村の活躍はめざましく、しばしば和睦の間に幸村が郷里の人々に送った

いくつかの手紙は今も人の心をうつ、そこには、死を決した人間の清々しさがある。

「我等、籠城の上は、必死に相極め申し候」といい、「我々事など、浮世にあるものとはおぼしめし

候」といいきりその言葉どおり最後を遂げた。

 幸村の奮戦をたたえたのは、皮肉にも徳川方の武将たちであった。

「真田左衛門佐、合戦場に於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越後宰相殿鉄砲頭取り申し

候。さりながら、手負い候ひてくたびれ伏して居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候。

7日の合戦に、この方歴々の人数持(部将)、逃げざるは稀に候。笑止なる取り沙汰にて候。人により

平野・久宝寺。飯守まで逃げたる者もこれある由に候」

 これは、夏の陣最後の決戦の直後、攻撃方の将の一人細川忠興が国元へ送った書状の一節である。

要するに、幸村の突撃で徳川の旗本が3kmから5km逃げた醜態をののしるために、幸村の活躍を

いっそう強調しているのである。これは細川だけではない、あの伊達政宗も幸村を追撃するように

家康から命じられたが行っていない。また黒田長政は屏風に合戦の悲惨さを残した。

これはすべて、徳川に対する反発があったといえる。そしてそれぞれの方法で幸村を

たたえているのである。

 幸村は普段はとても温厚で、物静で言葉も少ないことだったようである。

 大坂の陣の時、徳川家康の側近がこういうこを言った。

「豊臣方では、伊勢の神人に頼んで賄賂を使って、あなたを呪詛しております。こちらも

もっと多額の賄賂を贈って神人たちに豊臣秀頼を呪詛させようではありませんか」

 家康は笑った。「馬鹿なことを言うな。賄賂で動く紳人など問題にならぬ。金で神の意思が

動くものか。つならないところにつならない金を使うな。そんなものは放っておけば、いずれは

どこかへ行ってしまう」

 そのとおりだった。大坂方の金が切れると、神人たちは呪詛を止めた。   

臆病者も使いよう

 戦国時代といえども、誰でも勇敢なわけではない。中には臆病で戦いが大嫌いという者もいた。

 あの武田信玄の部下にも、ひどい臆病ものがいた。無理やり馬に乗せて連れて行こうとすると

馬の背にしがみつき「いやだ!いやだ!」とわめいた。家臣たちは呆れて「こんなやつ解雇にした

方が良い」と言いだした。ところが信玄が、首を振った。「臆病者にも使い道はある」

 そう言ってその男に館の留守を命じた。この男は感動し、留守中に館を徹底的に掃除し、

残っているものが内緒話をしていると、信玄にそれを全て報告した。信玄は、

「お前、よくやった。これからは合戦に出るたびに留守の束ねを命じよう」と言った。

彼は感動して信玄たちが留守になるたびに、不平不満が一人もいないように、適切な管理を

したという。

加藤嘉明のこぼれ話

 加藤嘉明は中国渡来の陶器を好んで泌蔵していた。ある時賓客を招じて響応したとき、

10人前のお揃いの皿一枚を近習の者が誤って落として割ってしまった。その者主命を持って謹慎

した。嘉明はこれを聞くやすぐにそのものを呼び「気にかけることはないぞ、誰にも誤りはあるもの、

残った皿ここに全部持って来い。」といって、手許にに取り寄せて、みずから全部砕いて捨てさせた。

そして「この皿があったら、いつの年に誰がそこつをしてそうちの一枚を割ったと、なにかにつけて

お前の名が口に上がることは私の望むところではない。私は怒ってこのような振る舞いを

しておるのではない。私の非を改めようとしているのだ」といって、その後は陶器いじりを

しなくなった。

城攻めについて

 城攻めにも色々ありますが、大きな城を囲んで何か月もまつ、という持久戦がほとんどで、

激しい戦いはそんなにかいんです。しかしその持久戦も呑気なもので、ある期間包囲しても

城がびくともしない時は、諦めてさっさと帰って行きます。

 なぜなら、何か月も国を留守にしていると、そのすきに狙われるからである。

例えば、越後の上杉謙信が関東の小田原城を囲んだのですが、その時甲斐の武田信玄が

川中島付近に兵をすすめたので、謙信は急いで囲みをとき、飛んで帰って川中島に出陣

した例があります。ですから自国を空にしての、城持久戦はかなりのディスクがあります。

この矛盾に気が付いたのが、あの織田信長です。その結果兵農分離を行いまた、拠点を

移動する事により移動の距離を短くするという改革をしたのです。この事により

戦の速度が速まり天下統一も夢では無くなるのです。

全18ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

ブログバナー

[伊 達 政 宗]
[伊 達 政 宗]
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(9)
  • 馬場美濃守信春
  • ゆかティン
  • 中路正樹
  • ュリリ
  • ドナ
  • Kayo
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事