|
幸村は永禄10年(1567)武田信玄の武将真田喜兵衛昌幸の二男として生まれた。
母は山之手殿、頼忠の女ともいう。幼名弁丸、のち源次郎と改名した。昌幸は真田幸隆の三男で、
信玄の近侍となり、甲斐の名門の姓をあたえられて武藤としょうしたが、天正3年(1575)、
武田勝頼が三河長篠で織田・徳川連合軍に大敗した時、長兄・次兄が戦死してしまったので
真田の家督を継いだ。
武田氏が滅び、昌幸は自立したが、上杉、北条、徳川の諸強豪のあいだにはさまれて苦しい立場
に立たされた。はじめは北条氏に属し、次に徳川氏に属したが、三転して上杉景勝に臣従し、
天正13年(1585),19歳の幸村を人質として春日山に送り、上杉氏の援助を得て、徳川家康
の軍を上田城外に迎え撃って、大いにこれを破った。のち、秀吉に送り、幸村を大坂城に出仕
させ、また、家康と和睦し、長子信幸(信之)を家康に出仕させた。文録元年(1592)、
幸村は秀吉の馬廻りとして名護屋城に在陣、豊臣家の奉行大谷吉継の女を娶り、文録3年
(1594)、従五位下左衛門佐に任ぜられ、豊臣の姓を許された。
関ヶ原では、父の昌幸とともに豊臣方に付き、敗れたために高野山の宿院蓮華定院に
移り後に、山麓の九度山に移り浪人生活を送る。そのさなか慶長16年(1611)、昌幸が
67歳で九度山で没したのである。
慶長19年(1614)10月、秀頼の使者は幸村の大坂入城をすすめ、黄金200枚、銀30貫
を贈った。幸村はその身辺を去らなかった家来と家族を連れて入城した。紀州の浅野長晟(ながあきら)
は、かねて幸村の動向に気をつけるよう九度山あたりの名主、年寄に命じておいた。
幸村は一計を安じ、近郷近在の名主・年寄ら数百人を集めて大盤振る舞いをし、連中が
酔いつぶれているすきに、上下100人ばかりの人数で入城したという。
冬の陣・夏の陣における幸村の活躍はめざましく、しばしば和睦の間に幸村が郷里の人々に送った
いくつかの手紙は今も人の心をうつ、そこには、死を決した人間の清々しさがある。
「我等、籠城の上は、必死に相極め申し候」といい、「我々事など、浮世にあるものとはおぼしめし
候」といいきりその言葉どおり最後を遂げた。
幸村の奮戦をたたえたのは、皮肉にも徳川方の武将たちであった。
「真田左衛門佐、合戦場に於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越後宰相殿鉄砲頭取り申し
候。さりながら、手負い候ひてくたびれ伏して居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候。
7日の合戦に、この方歴々の人数持(部将)、逃げざるは稀に候。笑止なる取り沙汰にて候。人により
平野・久宝寺。飯守まで逃げたる者もこれある由に候」
これは、夏の陣最後の決戦の直後、攻撃方の将の一人細川忠興が国元へ送った書状の一節である。
要するに、幸村の突撃で徳川の旗本が3kmから5km逃げた醜態をののしるために、幸村の活躍を
いっそう強調しているのである。これは細川だけではない、あの伊達政宗も幸村を追撃するように
家康から命じられたが行っていない。また黒田長政は屏風に合戦の悲惨さを残した。
これはすべて、徳川に対する反発があったといえる。そしてそれぞれの方法で幸村を
たたえているのである。
幸村は普段はとても温厚で、物静で言葉も少ないことだったようである。
|