【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

戦国時代とその時代

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 「絵本太閤記」では矢矧橋(やはぎばし)での秀吉しの出会いが知られているが。もとより

事実ではない。

 一説には母方の在所であった江南市付近に居住して、木曾川筋の流通に従事する川並衆(かわなみ

しゅう)を束ねる蜂須賀党を指揮した。美濃の斎藤道三、尾張犬山・岩倉の各織田氏に仕えた後、

清にあった信長の手に属したとされる。永禄7年(1564)以降は木下(後の豊臣)秀吉に従ったが、

川並衆の機動力とプレハブ工法を駆使した秀吉の墨俣城(すのまたじょう)で真価を発揮したことが

知られる。物流のノウハウを活かした正勝は、その後、武功のみならず、信長の安土城本丸の

石垣、秀吉の備中高松城水攻めの際の築堤無普請、大坂築城の縄張り差配などにも尽力した。

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 天正12年(1584)3月、徳川家康・織田信雄(のぶかつ)が羽柴秀吉との戦闘に踏み切ると、

「秀吉憎し」の一念に固まっていた佐々成政も北陸で挙兵。秀吉方の前田利家と戦った。

 しかし、織田信雄は秀吉と単独講和。家康もまた兵を引いてしまう。焦った成政は、家康を翻意を

促すべく説得を決意。同年の11月、越中富山城から三河の浜松城に向かった。厳冬期のアルプス越え

歴史上に名高い「ザラ峠(さらさら峠)越え」である。

 だが、苦労惨憺(ころうさんたん)の末に浜松城に到着したが、家康の説得には失敗。成政は失意

のまま再び、アルプスを越えて富山に帰国。剃髪して秀吉に降伏した。成政は秀吉打倒には

失敗したが、日本登山史には不朽の足跡を残した。

 小早川隆景の同僚に黒田如水という武将がいた。決断力と鋭い情報の分析力で有名だった。

ある時この如水が隆景に訊いた。「私は決断力は早いが、後で後悔することが多い。みていると

あなたにはそういうことが少ない。なぜだろうか?」隆景はこう答た。「あなたは才智がはなはだ

鋭く、一を知れば十を知る。そこへいくと私は愚鈍で、一を聞いてもその一にひっかかる。

決断する前には、長く思案をする。が、決断した思案を重ねたうえのことなので、二度と

後戻りすることもない。同時に決めた事を後悔することもない」隆景は自分のやり方を、

「長く思案して、遅く決断する」そう言った。同時に「長く思案するとは、このことを行った

時に、他人に対して果して仁と愛が貫けるのだろうか、ということを物差しにする。仁愛の道に

背くような決断は、決して良い決断ではない。黒田殿が後悔なさるのも、おそらくいったん決め

られたことが、仁愛の道に違うのではないかという疑いが枠からだろう」これを聞いた如水は、

「まさしくそのとうりだ」と頷いたという。

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 秀吉は結束のかたい毛利の巨大勢力にてこずり備中・高松城を歴史に名高い水攻めに

するまでに5年を要した。
 
 このときの毛利家の当主は元就の長兄・隆元の嫡男・輝元でその甥を次兄・吉川元春と

小早川隆景とが補佐していた。なかでも隆景は秀吉方との交渉という重要な役目をになっていた。。

 兵糧が秀吉の懐柔をがんとしてはねつけ必死に持ちこたえていた清水宗治(城主)と城兵たち

の命を助けるため隆景は和睦策を打ちだした。条件は備中・美作(みまさか)・伯耆(ほうき)

三国の割譲である。秀吉が拒否するとさらに2国を加えた。

 一見弱腰外交のように思うがそうではない。覇者の動きを見つめつづけてきた隆景は秀吉が

大器だと見抜いていた。その予測が宗治らを助けたいという思いと交錯して5国割譲という

条件になった。

 そこに届いたのが信長のしの報せである。いち早く和睦を結びたい秀吉は宗治の切腹

を条件とし、宗治も毛利家が安泰であるならと応じた。もはや隆景もとどめることは

できない。宗治こそ忠臣であると号泣したという。

 毛利家が本能寺の変を知ったのは和睦の翌日だった。当時追撃する案が毛利家で持ちあがった。

 しかし隆景は反対した。たしかに追撃すけば打撃をあたやられる。しかし秀吉を打ち取る

わけでもない。それより無傷で帰して明智光秀と戦わせるのが肝要だ。もし秀吉が天下を取れは゛

毛利家に感謝するだろうと呼んだ。

 予想は的中した。明智軍を撃破して天下を掌中におさめた秀吉が感謝したのはいうまでもなく、

その後長く毛利家を厚遇することになる。


 わけても隆景は五大老のひとりに加えられ何かと耳をかたむけた。しかし隆景は秀吉に気を

許さなかった。秀吉の恐ろしさをわきまえていた。

 子供のいない輝元へ正室ねねの兄の息子・秀秋をおくる案を秀吉が考えついた。それは毛利家が

豊臣家に牛耳られることを意味するばかりでなく凡庸の秀秋によって毛利家の土台が揺らぐ

のは目に見えている。隆景は機先を制して小早川家の養子に迎えたいと願いでた。

 毛利家を守るには小早川家を犠牲にするしかないと決断したのである。

 死の床についた隆景は輝元に「分をわきまえ野心を抱いてはならぬ」言い遺した。だが

輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられて敗戦のあとに待ち受けていたのは、

大減封だった。隆景の危惧はまたも的中したのである。


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