【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

戦国時代とその時代

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 父は豊後国主・大友宗麟の家臣・大谷盛治と言われるが、近江出身説もある。紀之介と称して

いたがのちに吉継し改めた。

 羽柴秀吉の小姓として信任を得た。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いでは、七本槍につぐ働き

をして、同13年従五位の刑部少輔に叙任された。同15年の九州攻めでは、石田三成、長束正家

とともに兵糧米支給の兵站奉行をつとめ、同17年には越前敦賀城主として5万石を領した。

 文録元年(1592)の朝鮮出兵では、石田三成、増田長盛(ましたながもり)とともに船奉行

として船舶の調達、渡海部隊の海上運送、兵糧・武器・弾薬の補給にあたり、同年6月には

ふたたび三成、長盛とともに在朝鮮部隊の督励奉行として朝鮮にわたっている。またこの時は、

明軍との交渉にもあたった。同年3月伏見城の工事を分担。慶長2年(1597)9月14日には、

秀吉を自邸に招いて大いに饗応し、多くの贈り物をして人々を驚かせた。

 秀吉の死後は徳川家康に近づき、慶長5年7月には会津遠征軍に加わるために敦賀を発った。

途中美濃の垂井から佐和山城の三成にあてて使者を送り、三成の子・重家の同道を求めた。

ところが三成から、吉継に佐和山城に来るようにといってきたため出向くと、三成は家康打倒の

計画を打ち上げ、吉継にも参加するよう要請した。

 即ち、最近の家康の言動は秀吉の遺言に背くばかりでなく、秀頼公をも侮辱している。秀吉の

大恩うけたものとしては許しがたく、家康討滅の兵を挙げたいといったのである。突然の話に驚いた

吉継は、今の家康の家康の実力声望は高く、兵を挙げて抵抗する不利を説いたが、三成の決意の

変らないことを知り、いったん垂井の宿にもどったあと再び佐和山城を訪れ、三成と行動を

ともにすることを約束した。

 このころから吉継はかねてから患っていたハンセン病が悪化、視力はほとんどなく、足腰も立たず、

袋のような頭巾をかぶって竹輿にかつがれていたという。こうした病状の悪化も、吉継がここを先途

と心を定めた要因になったのではないかと思われる。

 吉継は、三成に対して次のように忠告した。「貴殿の態度が横柄だと、諸大名はもとより下々まで

悪口をいっている。それに比べて徳川内府殿は、家柄もよく、官位も高く、しかも日本にふたりと

いない実力の持ち主であるが、軽輩、小者に至るまで愛相よくし、慇懃にふるまうので世間の

評判はすこぶるよい。 人の上に立って事を行うには、下々の者から敬服されるくらいでないと

いけない。貴殿や拙者などはまさに小者であったが故太閤様のお取り立てがあったからこそ立身

した。これは誰もが承知のことである。だから、われわれの表面上の威光に対して尊敬している

かのようい応対するが、けっして本心からそう思ってするわけではない。このことだけはよくよく

心得たうえで、今度の大事を決行すめへきだろう。また毛利輝元と宇喜多秀家のふたりを上に立て

貴殿はその下について出しゃばらないようにすることが肝要である」

 吉継はいったん越前敦賀城に引き換えてから挙兵し、加賀小松城主丹羽長重、同大聖寺城主

山口宗永、越前北ノ庄城の青木一矩、それに援軍として参戦していた脇坂安治、朽木元綱らとともに、

加賀前田利長と小松で対峙していたが、三成の要請を受け、脇坂、朽木とともに北ノ庄を発って

9月3日関ヶ原に到着した。

 関ヶ原では、西南山中村の藤川の台に一番最初に陣を敷き、東軍の動きを監視した。また

かねてから寝返りを疑っていた小早川秀秋への押さえとして脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠

赤座吉家の諸隊を松尾山の麓に配置した。

 9月15日は、戦闘開始し同時に藤堂高虎、京極高知、寺沢広高と激突し、一進一退を繰り返した。

やがて家康に鉄砲で脅された小早川秀秋が、めざすは大谷刑部の陣なり、と東軍に寝返って

攻めてきたためため、大谷隊と小早川隊との間ですさまじい戦いがはじまった。

 一度は小早川隊を押し戻したが、この時側面から藤堂高虎、京極高知らの兵が攻め入り、さらに

予期していなかった。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座吉家の隊が小早川隊に続いて寝返って

攻め込ん出きた。これに対して平塚為広、戸田重政をはじめとする武将達が勇敢に戦ったが

遂に力尽きて大谷隊は潰滅した。

 吉継は割腹自殺をし、その首を羽織りにくるんで田んぼに埋めたという。なお、自決の前に

秀秋の陣に向って「人面獣心なり。3年の間に祟りなさん」と叫んだといい、果して秀秋は2年後

に狂乱しのすえ亡くなっている。


 

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 和泉堺の豪商であり、秀吉の側近として大膳職や軍奉行を務めた小西子隆佐の二男として

京都に生まれたと言うが。その出自についてははっきりしていない。幼名は弥九朗、

父とともにキリシタンとなり、洗礼名はアウグスチノ。

 はじめは宇喜多直家に仕えていた。中国攻略中の羽柴秀吉のところへ、直家からの講和の使者として

赴き、その役目を見事果たしたこともあって、講和の条件として直家の子の人質の介添え役

として秀吉のもとにみを寄せていた。

 高松城攻めに参戦し、山崎の合戦では秀吉の直臣として活躍している。NYBH 

 行長は水軍の将として海上運送の管理運営能力にたけていたようで、天正11年(1582)には

塩飽諸島(しあく)から小豆島、堺に至る船舶の監督をする船奉行に任じられている。

同年13年には根来・雑賀討伐に参戦した。同16年には肥後国宇土12万石の領主となったが

肥後国ま後の半分は行長とそりのあわない加藤清正で、この配置は朝鮮出兵で二人を競わせよう

とした。秀吉の思惑があってのことだったという。

 朝鮮出兵では、行長は通商再開を目的としたが、清正は秀吉の意向ののままに高圧的に臨んだ

こともあり激しく対立した。

 行長は、明使との間でたびたび講和の交渉を重ねたが、外交手腕は未熟でだまされることが

多かったという。明との講和はなかったが、その内容は秀吉の出した条件とは全く異なって

いたため、秀吉の激昂をかい、朝鮮再出兵となった。しかし不思議な事に行長き失脚していない。

 慶長の役でも朝鮮に渡り、秀吉の死で撤退となるが、島津義弘らとともに最後まで

戦った。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは天満山麓に布陣し、東軍と激しく戦ったが、

小早川秀秋の裏切りにより敗退した。行長は自首し、10月1日三成とともに京都六条河原で

斬首された。一人息子は処刑され、宗義智(よしとも)に嫁いだ一女は離縁されてのち長崎で死に、

女婿の小西弥左衛門はマカオで客死したため、小西家の直系は絶えた。

 


 


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