【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

戦国時代とその時代

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 日本各地で甲冑が作られるようになるのは江戸時代以降に大大名が京・小田原の甲冑師を引き抜いた

結果であり、それまでは奈良・京都の春田派工房に注文していた。これの特徴は張懸け技法である

この事で色々と形が作れ変り兜が出来るようになる。そして軽量化も進んだ。これが近畿の特徴

である。

 一方関東は、小田原北条氏が関東で勢力が及んでから、上野国白井近辺(群馬県子持村)から

小田原に移り、小田原鉢が作られるようになる。関東はだいたいが筋兜し言ったオーソドックス

なものが多く近畿の様な変り兜は存在しない。また重量もとても重く鉄砲で撃ち抜かれないように

出来ている。この手法は武田氏、上杉氏、伊達氏等で採用されている。実際伊達政宗が

鉄砲で撃たれあともう少しで、撃ち抜かれるところを助かったことがある。その時は

さすがの独眼竜も肝を冷やしたという、もし彼が近畿の軽い鎧を着けていたらそこで死んでいた

であろう。

 日本は、何事も関東と関西では違いがあるが、こうした甲冑にもこれだけの違いがある。

これはお互い風土の違い、文化の違いがそのまま出ているのであろう。 



前田利家の兜は近畿特有の兜で、伊達政宗の兜が関東特有の兜である。
 

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 父は景親。宇喜多秀家の家臣。守重・掃部(かもん)と称した。キリシタンとして洗礼を受け

キリシタン名はジュバンニ・ジュスト

 慶長4年(1599)宇喜多家の内紛の結果、譜代の家来のあとを継いで政務の実際を行った。

 関ヶ原の戦いでは、決選の前日、島左近が杭瀬川で東軍に奇襲をかけ、深追いしてきた東軍に

向って今度は全登が一斉に銃撃を加えた。このため敵は多数倒れ西軍の士気は大いに高まった。

 小早川秀秋が、関ヶ原決選の半ばで東軍に寝返ったことを宇喜多秀家は激怒した。

されば秀秋と刺し違えて恨みを晴らすし取り乱すのを全登が抑え、西軍副大将として然るべき

お振舞いをと諌めたが、秀家は、毛利輝元は出馬せず、毛利秀元、吉川広家も変心した。

もはや太閤の恩に報いるために本日討死にすべしと言い張ったが全登が必死でおしとどめながら、

たてえ大老、奉行がすべて東軍に下ったとしても、秀頼公を守って天下の危機を救うべきである

と訴えたため、ついに秀家も納得してあとはまかせたと言い残し、伊吹山方面へと逃走した。

 全登は、主君が出来るだけ遠くまで逃げられるよう20人ばかりの兵で奮戦したがたちまち

全滅させられた。ただし全登自信は戦場を脱出し、黒田配下の者を頼っている。

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 はじめ大和の筒井順慶の家来であったが、順慶の死後筒井家を去り、秀吉の弟秀長に仕えた。

 文録元年(1592)の朝鮮出兵では、秀長の子、秀保(ひでやす)に従って渡海して戦功を

たてている。しかし、同年4月秀保が死去したため出家しようとしていたところ、石田三成に

招かれて家臣になった。

 石田三成は有能な武将を破格の待遇で召し抱えたと言われる。左近に4万石の三成が2万石を

与えたといわれ、この話をきいた秀吉が「君臣の禄が同じだということは昔から聞いたことがな

何ともその志がなくては、よもや汝には仕えまい」
       
とひどく感心して左近を呼び出して羽織を与えたという話が伝わっている。

 しかしこの話の頃の三成は、近江佐和山20万石余の大名であったのであるから、これは

いわゆる名将伝説のひとつと考えられる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、戦いの前日の14日に西軍の士気を鼓舞する前哨戦

として500兵をもって杭瀬川で東軍をおびき出したところで宇喜多秀家の家臣、明石全登(てるずみ)

率いる一隊がいっせいに銃撃をあびせ打撃を与えている。

 9月15日の戦闘では、石田三成隊は最も激しく攻撃を受けたが、その先頭にあって黒田長政

の隊と銃撃戦をし、次いで白兵戦を挑んでいる。この時左近は、黒田隊の中央へと突き進んだが、

左側面を高所から銃撃され、さらに新たな攻撃も加わったため潰滅的状況で退却せざるをえなかった。

その後、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの軍勢がなだれをうって押し寄せてくると、左近は

銃撃受けた重傷の身体で、再び敢然と立ち上がりよろめきながら血槍を振るった。

 しかし、東軍の怒涛の勢いには勝てず、遂に戦場の露と消えて果てた。
 
 当時の俗謡に「三成に過ぎたるが二つある島の左近と佐和山の城」と詠われたという。

 黒田の猛者たちは、左近の「かかれ!かかれ!」の掛け声が後まで忘れなかったという。

それだけ島左近の攻めは、猛烈だったが分かりさすがの黒田長政も肝を冷やしたようである。

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 関ヶ原の戦いで、西軍につきいまだに動かない一団がある。島津隊である。
 
その島津隊が雨中に猛然と動き出した。全面の井伊・松平隊を一気に突破した。そして

家康の本営の前を猛烈な勢いで駆け抜けて行った。あの猛将福島正則もさすがにその凄まじさに

思わず道をあけたがすぐに追撃した。島津隊は、烏頭坂(うとうさか)にさしかかるころには

半減していた。若い勇猛をうたわれる豊久は殿軍(しんがり)で奮戦した。

 この時取った戦法が「ステガマリ戦法」である。最後尾の武者が草のなかで潜んで銃で追撃者を

撃つ。弾切れになればそのまま槍で追撃者に突っ込んで戦う、武者達が死ぬまで戦って時間稼ぎをする

間に一行は逃げ延びるというものである。このとき柏木源藤という男の撃った弾が井伊直政に

傷を負わせた。直政はこの傷が悪化して2年後死去している。この時島津豊久も戦死し

多大なる犠牲をでした。しかし義弘の一団はとにかく薩摩に帰還できたことは、まさに奇跡である。

 ちなみにこの時、東軍が他の武将達からも歓声が上がったという。それだけすさまじい

事だったようである。



※ チェスト=掛声の様なものである。

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 島津氏は、祖忠久の代から薩摩、大隅、日向の三国の守護で鎌倉時代以来の名門である。

戦国大名としての基盤をつくったは義弘の父、島津貴久で、その長男が16代義久、二男が18代

義弘である。

 天文14年(1586)に義珍(よしまさ)、同年15年に義弘と改名し、慶長4年(1599)

には剃髪惟新と号した。

 永禄9年(1566)貴久から家督を相続した義弘は、元亀3年(1572)に日向の伊東義祐を

木崎原(きざきばる)で大敗させ、天正5年(1577)日向から追放した。さらに翌年、大挙して

南下し強引に攻撃してきた大友宗麟・伊東連合軍を激戦の末、敗走させた(耳川の合戦)。

天正9年から10年にかけては肥後の相良氏(さがら)、阿蘇氏、合志氏を破って肥後を平定し、

さらに筑前にも進出して筑紫広門や高橋紹運(じょううん)を下したが、大友氏の訴えがあったため

豊臣秀吉が和議を勧告した。しかし、島津氏はこれを拒否して九州全域の領有を主張したため、

秀吉の九州討伐となった。

 天正15年の秀吉の戦いでは、緒戦こそ勝ったもののその後は後退し、秀吉軍22万の軍勢による

攻撃には抗しきれず5月に降状しち。同年同月、大隅一国ならびに日向真幸院を秀吉から安堵された。

翌年上洛し、7月豊臣姓羽柴氏をあたえられ、同17年8月帰国を許された。

 その後は秀吉への忠誠を示すためによく働いている。特に文録・慶長の役(朝鮮出兵)では大いに

戦功をあげ勇名も馳せたが、莫大な費用も投じている。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、1500の兵を率いて甥の島津豊久、山田有栄らとともに

大垣城を出発、小池村に鋒矢の陣形を敷いていた。

 しかし布陣したものの、戦闘が開始されても島津隊は動きがなかった。なぜ傍観を決め込んだのか、

それは二つのわけがある。一つは、義弘は西軍属したものの徳川家康にたいして敵意を抱いていなかった

からである。もう一つは、前日の大垣城での軍議で、家康の本陣に先制攻撃すべしという自分の

提案が受け入れられず自尊心を傷つけられたからであった。

 ところが事態は急変し、西軍総崩れのうちに島津隊のみが取り残され、東軍の猛攻撃を受ける

ことになってしまたのだ、ここで義弘は、常識では考えられない行動をとった。それは東軍の

真っ只中を突破し、伊勢方面に逃れるというものであった。

 東軍の攻撃で数少なくんった島津軍の一団ではあったが、奇蹟的にほとんど無償のまま関ヶ原

を走りぬけた。しかしやがて追撃してきた福島正則、小早川秀秋、本多忠勝、井伊直政の諸隊

によってつぎつぎと倒れ、遂に牧田川の手前で豊久も討ちとられた。それでも義弘は牧田川をこえて

さらに逃げた。かろうじて戦場を離れることができた。この時、戦闘開始の時に1500余りいた

兵が80人余りになっていた。

 その後、伊勢路、伊賀路、大和路を通って泉州堺に潜行し、堺の町人、入江権左衛門の助けで

船出し、摂津住吉沖で大坂から逃げてきた妻と合流し薩摩に帰った。

 帰国ごは、桜島に蟄居した。その後、井伊直政、本多正信からの家康へのとりなしによって、

同7年義弘は赦免、義久に本領安堵となり、義弘の二男・忠恒(家久)への家督相続が許された。

 島津氏は戦国には珍しく四兄弟の結束が硬かった。長男の義久を中心に二男の義弘 三男の歳久

四男の家久(忠恒とは、別人)がとにかく良く結束していた。九州全域へ破竹の勢いで侵攻した時も、

朝鮮出兵でも変わらなかった。関ヶ原の頃は歳久と家久はなく義久と義弘の二人になっていた。

 義弘は、元和元年(1619)7月21日大隅の加治木(かじき)で死去した。学問、文芸にも

優れていた。また茶の湯を愛し、千利休の弟子にもなっている。



上から、島津貴久・義弘・豊久である。それと豊久の具足である。
 
 



 
 


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