【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

伊達政宗公

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 伊達政宗は、『人取橋の戦い』で防戦を、勝ちぬいてその余勢で一気に、父の仇のいた

二本松城を電撃的に潰してもおかしくなかったが、なぜか進軍が急にとまったので二本松城側は

不気味に感じたのである。なにしろ小浜城の大虐殺の記憶もまだ新しい状況だったので

なおさらである。

 伊達政宗が動き出したのは、年明けの天正14年(1586)になってからである。この時

政宗は、20歳の若武者であった。ではこの間政宗は何をしていたのだろうか。

実は、関東の佐竹氏を牽制するためにもう一つの関東の覇者北条氏と同盟をむすぶ交渉を

していたのである。これが完成したのである。この頃の関東では北条氏と佐竹氏は戦闘状態にあり

下手に佐竹氏が北に動くと、背後を北条氏につかれるという構図になり佐竹氏として動きにくい

わけである。この事を読んだ伊達政宗がこの同盟を完成させたことが、将来の戦いに有利に働いてしく

事に成る。

 伊達軍はいよいよ二本松城を囲みだしたのである。ちなみにこの時の二本松の城主は畠山国王丸で

まだ小童言っていいほどの子供であった。畠山氏の形成は悪くなる一方で、頼みの重臣たちも

みな伊達方に内応したのである。結局7月の初め、相馬義胤の仲介で畠山国王丸が降伏する

という約束を取り付け、伊達政宗は攻撃の中止を命じたのである。ところがその夜

密に畠山国王丸は供の者と共に、本城に火を放ち会津の蘆名方へ逃げたので、重臣の原田宗時が

色めき立ち手勢を率いて追撃しようとした時政宗は「ほうっておけ」といいさらに「国王丸はまだ子供だ」

という。宗時は「生かした置けばいずれ当家を仇として狙ってきます。」という政宗は苦笑

して「そのときは、そのときだ」と言うのである。

 伊達政宗は父を殺された時自分が泣いたように、国王丸もその父を打たれた時痛恨の涙を流した

国王丸の気持ちを思い、追うのを辞めたのである。また恐怖と力では恨みをかい決して良いことでは

ない、たとえ敵でも許すところは許すほうが結局伊達氏の為にもなることを悟ったようである。

このころから、伊達政宗は、猛将から智将に変貌していき、いよいよ「独眼竜」にふさわしい英雄

に成っていくのである。

人取橋の戦い

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 1585(天正13)年11月、政宗は阿武隈川流域の瀬戸川付近(福島県安達郡本宮町)で、

佐竹義重率いる南奥州連合軍3万の急襲を受ける。対する伊達軍は8000。後に戦場に死体が

山のように重なっていたことから「人取橋合戦」と呼ばれるこの戦いで、伊達軍は防戦一方に回り、

政宗自身も鎧に矢一筋、銃弾5発を浴び、一時は死を覚悟とたという。

 ところが夜になって状況は一変する。伊達軍を包囲していた連合軍が一斉に退去を始めた

一説には連合軍の中心だった佐竹軍の総帥・義政(義重の父)が、国元で家臣に刺殺されたという

情報が届き、それで連合諸軍が解散にいたったということらしい。

 九死に一生を得た政宗は近隣地域を平定し、4年後、南奥州制覇のための大軍を出動させる。

 小手森城の一件を知って、政宗に降状を申しでた畠山義継は、仲介してくれた政宗の父・輝宗

に礼を述べるため、小浜城(福島県岩代町)を訪れた。ところが義継は、用件が終わり見送りに

でた輝宗に突然刀を向け人質にして、遁走を図ったのだ。

 一説には、義継は城内の慌ただしさを見て「殺される」と誤解したらしい、知らせ聞いて駆け付けた

政宗は、義継が輝宗を人質に取られたまま、逃走に成功すれば面倒になると、父ともども義継の

射殺を命じたと言われている。戦国時代の残酷で非情な出来事であった。

伊達の鉄砲隊

 天正18年(1590)8月、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼした後、会津黒川城に軍を進めて

威光を奥羽の地まで誇示した。

 先の6月に秀吉に臣従した政宗は居城の黒川城を明け渡すに際し、小十郎の指揮のもと、3000騎

を集めて縦横自在の軍事教練をやってのけた。

 黒と金を基調にした伊達軍団の軍装は目がくらむほどの美しさと雄々しさに満ち、秀吉傘下の諸将

は奥州を制したその「強さ」を改めて見せつけられた思いがしたであろう。小十郎の指揮には一分の

隙もなく、彼が披露した鉄砲隊のつるべ撃ちの迫力は、諸将の度肝を抜くに十分であった。

 この時、天下人たる秀吉は、小十郎に向かって思わず、「片倉の道中活火縄(いけひなわ)勝って

たるべし」とたいへんな特例を許可してしまった。

 つまり、火縄銃に点火したまま、日本中往来してもよいとのことで、伊達一の家臣片倉小十郎景綱

に許されたのである。

 秀吉はこの特例に田村5万石をくわえて、小十郎をわが陣営に誘い込む腹づもりであったが

小十郎は応じなかった。しかし、「道中火縄勝手」の特例だけは、ありがたく拝受したという。

 なお、小十郎はこの鉄砲隊に一段と訓練と工夫を重ね、彼らを馬上で鉄砲を放つ「騎馬鉄砲隊」に

仕上げた。鉄砲隊の破壊力と騎馬隊の機動力をそれぞれ取り入れたもので、鉄砲は馬上でも

扱えるようになっていた。

 この片倉の鉄砲隊は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、大坂方の豪傑・後藤又兵衛を

討ち取るなど、その威力を発揮し、政宗を喜ばせた。

 

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