【自由な城】

そろそろ、寒くなってきました。風邪には注意しましょうね。〔伊達政宗〕

徳川四天王

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 酒井家は、徳川家と血縁関係にあった名門であった。酒井忠次は、家康が今川家の人質になった

ころから仕え、三河の一向一揆の鎮圧に尽力した。譜代家老として内政・外交に活躍し、多くの戦いで

軍功をたてている。

 ところが、天正18年徳川家康が関八州の太守となったが、酒井家は下総臼井で3万石しか

与えなかった。他の四天王に比べても少ない。この時、忠次はすでに家督を家次に譲っていたが

胃を決して、わが子の増封を家康に願い出た。すると、「お前でも息子が可愛いか」と家康は

一言。忠次はハッとする。

 天正7年、家康の嫡男信康が信長から武田方へ内通した疑いをかけられたとき、弁明の使者

に立ったのが忠次であった。信長の問いを糾すと、事実を認めただけでなく、信康の暴虐ぶりを

吐露してしまう。これにより信康を処刑せねばならなくなったのだ。

 わが子の加増を願い出た忠次は大いに恥入り、次の言葉がでなかったという。

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 天正12〔1584〕徳川家康・織田信雄の連合軍は、羽柴秀吉軍と武力衝突する。

戦国史上に名高い「小牧・長久手の合戦」である。このとき徳川四天王のひとり榊原康政は、秀吉方

の士気を喪失させるために、「秀吉は野人の子。信長公に拾ってもらったからこそ織田家の武将

として立身出来たのに、今、信長公の恩義を忘れ、織田家を衰退させようとしている。大義は我等

にこそある。」と記した檄文を敵味方にばらまいた。秀吉は激怒し、康政の首に賞金をかけた。

 しかし、和議成立後、秀吉は康政の忠節ぶりをほめ、康政を従五位下式部大輔に叙任してやった。

これにより康政は、徳川家中で一段と重きを為すことになった。

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 久しぶりに、戦国武将について書きます。

 本多忠勝は、幼少のころから家康に仕え、色々と武功をあげた。

 15歳のおり、戦場で敵をたたき伏せた叔父が忠勝に対して「さあ、首を取れ」というと、「人の力

を借りてまで武功は要らぬ」といい、敵仲に飛び込んで、自ら首級を挙げたと言う。

 三方が原の戦いのおり、忠勝の戦いっぷりをみた武田勢に、「家康に過ぎたるものは二つあり。

唐の頭と本多平八(忠勝)」と言うしめたほど、とにかく忠勝は戦に強かった。

 本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行ととともに堺に滞在はていたが、家康が

京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行ったと言う。

 その他、長篠の戦や関ヶ原の戦い等で武功をあげている。
 
忠勝が、三方が原で戦っていた時、激戦のあげくに主君の家康とはぐれとしまい急行していた時

その道中、あるかっぷくのいい武将が「ちょっとまて、お主が本多平八郎か」と尋ねてきたので

忠勝は、「そうです」と答えるとその武将「やはりそうか、お主の事は我らの方でも評判だ」と言った

そこで忠勝が「ところで、貴方様は何方ですか」と聞いたのでその武将が「そうだ、まだ名乗ってい

無かったな、わしは武田の家臣馬場美濃守信春だ」とと答えたので忠勝も驚いて「さようでしたか」

と言うと、馬場が「お主、今主君のところに行くのであろう、ならば速く行けお主はまだ若い

こんなところで死ぬことは無い、それに急がないと武田の大軍がここに来る」と忠勝に言われた。

忠勝も遠慮なく通る事が出来た、そして忠勝も馬場に対して「このたびの事は一生忘れません」等と

申上げた。馬場も「良いから、速く行け」とさとした。この事で忠勝は家康と合流出来たのである。

 私は、異常の様なエピソードがあったと記憶している。

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 関ヶ原の戦いの戦場で、とにかく目立つ軍団がいました。それは井伊直政が率いる

「赤備え」です。もともとは武田軍の「赤備え」を引き継いで誕生した少し特異な軍団です。

 もともと、井伊家は遠江の独立した一族でしたが、桶狭間の戦いで今川氏に属し

祖父・直盛は戦死した。父・直親は織田・徳川方に通じ謀反のありと言う事を今川家老に讒言

されたため、今川氏に打たれたのである。したがって直政は身一つの状態であった。

15歳の時に、家康に召抱えられ、父祖のち井伊谷に2000石をたまわったのである。

 実は徳川家康は、井伊家の事情を知り同情したと言われている。

 その後、家康が高天神城の戦いで、武田氏を滅ぼした。そしてその時残った武田の遺臣達を

そのまま、直政につけたのである。これが後に「井伊の赤備え」になっていくのである。
  
 井伊直政はいつも徳川軍の先陣を務めた。そしてデビューがあの、秀吉と太戦った小牧・長久手の戦い

である。そして赤備えの武名があがったのである。そののち小田原平定後徳川家康が関東に入るののに

したがって、井伊家も関東上野国の箕輪城に入りその後和田に移り、高埼城を気づき拠点にしている。

 そして、関ヶ原の戦いでは軍艦として参加している。そして本来、福島正則が今回の先陣

出会ったが直政は、これが不満であった。「この戦いは、徳川の戦いだしたがって先陣は、自分が勤め

るべきだ」と思っていた。そこで家康が直政を、松平忠吉(家康の四男)の後見役につけたのだ。

この事により、井伊直政は福島隊の前を通過しようとしたが、足止めをされたが忠吉の名前を

出したとたん、相手もひれ伏したのですかさず直政は、通過したそして敵陣の宇喜多隊に向けて

鉄砲を撃ちかけた。そしてすぐさまその場を離れその場から消えたのである。これにより

戦いが始まったのである。

 この戦いで、島津隊が敵中突破をしかけたそれをやり過ごした、徳川軍もその後追撃した。

その一番手が井伊直政である。しかし敵の鉄砲に狙撃され直政は負傷した。実はこの時の傷が悪化

して、二年後死去している。

 直政の戦う姿は、いつも誰よりも先に突っ込み自ら一番槍を、目指して戦っていた。

普段はとても寡黙なのに、鎧を着ると鬼になったのである。それは直政があの上杉謙信公を尊敬し

自らまねた事によると思われる。とにかく生傷が絶えない人生であった。


 

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