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鍋島氏の家臣

鍋島家 家臣団
 
 
  鍋島清久 (?〜?)
 鍋島清房の父。直茂の祖父。享禄三年、田子畷にて大内勢を破る。
 
 
  鍋島清房 (?〜?)
 鍋島清久の子。直茂、忠茂の父。享禄三年、田手畷合戦で苦戦する龍造寺家兼を支援。その際、鍋島勢は赤熊の面をかぶり、大内軍に突撃。これを機に戦局は龍造寺勢が有利となり、遂に合戦に勝利した。家兼は大いに喜び、清久、清房父子を家臣に取り立て、特に清房には孫娘を娶らせている。
 
 
  鍋島信房 (?〜?)
 鍋島直茂の叔父。隼人佐。家系は家老職として神代四千四百十石を知行した。
 
 
  鍋島忠茂 (?〜?)
 鍋島直茂の次男。勝茂の弟。鹿島藩主。鹿島城主。慶長六年、徳川家への人質となる。秀忠に仕え、下総矢作五千石を賜る。また、父から藤津一万石を与えられ、計一万五千石を領した。慶長十三年、病のため江戸から戻り、蓮池城にて療養。
 
 
  鍋島元茂 (1602〜?)
 鍋島勝茂の長男。慶長七年、蓮池城にて生まれる。側室の子であったため、家督を継ぐことはなかった。小城蕃主七万三千二百五十石。
 
 
  鍋島忠直 (?〜?)
 鍋島勝茂の次男。
 
 
  鍋島直澄 (?〜?)
 鍋島勝茂の三男。寛永十六年、支蕃として蓮池藩を興す。
 
 
  鍋島家良 (?〜?)
 鍋島直茂の甥。天正七年、神代長良の養子になる。
 
 
  鍋島生三 (?〜?)
 鍋島家家老。慶長六年三月、勝茂から蓮池城の天守の修理を命じられる。天守は雨漏りをしており、勝茂は材木の傷みを気にかけ、漆喰を塗り直すことを命じた。その際、漆喰に関しては黒田家に人を遣わせ、よく学ぶようにとも命じている。元和元年、一国一城令が出されると、蒲池城の破却を行う。鍋島勝茂は蓮池城の天守や櫓は佐賀城に移築するため、資材を無くさないよう厳命している。
 
 
  鍋島信房 (?〜?)
 鍋島一門。天正四年、鍋島直茂らと共に有馬氏と争う。神代に移封。
 
 
  鍋島茂里 (?〜?)
 鍋島一門。主水。天正十八年、蓮池城の天守を名護屋城の大手櫓に移す際に奉行となる。加藤清正から工事についての意見を記した書状を送られる。他に甲斐弥右衛門、久納市右衛門らも奉行となった。
 
 
  田尻家種 (?〜?)
 田尻鑑種の子。父は大友家から龍造寺家に寝返っている。鍋島家臣となった。
 
 
  石井孫右衛門 (?〜?)
 石井氏は鍋島直茂の妻陽泰院の生家。慶長十六年、蓮池城城番。本丸を守る。
 
 
  石井壱岐守 (?〜?)
 慶長十六年、蓮池城城番。
 
 
  石井五郎右衛門 (?〜?)
 慶長十六年、蓮池城城番。
 
 
  石井又左衛門 (?〜?)
 慶長十六年、蓮池城城番。
 
 
  犬塚鎮家 (?〜?)
 蒲田江城主。天正四年、横造城攻めで功があった。
 
 
  嬉野与右衛門尉 (?〜?)
 鷲ノ巣城主。
 
 
  陣内十兵衛 (?〜?)
 船大将。文禄元年五月二十八日、朝鮮水軍との合戦で功があった。
 
 
  薗田孫三郎 (?〜?)
 船大将。文禄元年五月二十八日、朝鮮水軍との合戦で功があった。
 
 
  北原作助 (?〜?)
 文禄元年七月、袈裟丸利右衛門と共に朝鮮咸鏡道南部の村々を統治。
 
 
  美濃部金太夫 (?〜?)
 文禄元年七月頃、咸鏡道で金官という朝鮮人が高札を立て、朝鮮国王は明に向けて逃走したと伝えた。清正の命で金太夫はこの高札を読み伝え、大いに清正を喜ばせた。
 
 
  九鬼四郎兵衛 (?〜?)
 文禄元年六月末、清正は九鬼四郎兵衛、粟生一郎右衛門尉を朝鮮咸鏡道端川の奉行に命じた。同地には銀山があり、清正は銀の採掘も考えていた。七月二十三日、両名は清正から銀子三十枚を飯田覚兵衛に持たせ、秀吉に献上するよう命じられた。
 
 
  不鉄桂文 (?〜?)
 野州足利学校で易学を学んだ。鍋島直茂に招かれた。
 
 
  泰長院是琢 (?〜?)
 佐賀泰長院住職。文禄元年四月二十三日、朝鮮に渡海。五月七日、釜山に着く。六月、鍋島直茂に同行するため咸鏡道に入る。同地にて加藤清正の書状の草案を作成。この書状は民衆に朝鮮国王誅殺を禁じ、即座に家に戻り農耕に勤しむよう促すものであった。
 
 
  洪浩然 (?〜?)
 鍋島家臣。朝鮮人。十二歳の時、鍋島勢に捕らえられ日本に渡る。鍋島勝茂に附けられる。佐賀藩の儒学者となった。
 
 
  李三平 (1579〜1655年 77歳没)
 朝鮮忠清道金江に生まれる。若くして多くの陶工を指揮する立場に就く。慶長元年、鍋島勢の捕虜として日本に移る。日本は名工を厚遇していたため、三平は自ら日本に移ったという説もある。朝鮮の陶工は九州でも陶器を焼いており、三平が日本に移る土壌もすでに形成されていたため、あながち根拠がないわけではない。朝鮮では陶工は卑賤視されており、それを考慮するならば自ら日本に移った朝鮮人陶工がいたとしても不思議はない。小城郡多久にて陶器を焼く。慶長七年、有田にて磁土、白磁鉱を見つける。付近に窯を作り、元和年間初期に磁器を製産。これが「有田焼」である。明暦元年八月十一日、七十七歳没。法名「月窯浄心居士」。金ヶ江三平、金ヶ江三兵衛とも呼ばれた。

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保科媛さん経由で来ました。
歴史は抜群に強いと思ってた自分も降参!!
よく鍋島家臣団を調べられてますね。傑作です。

2009/9/24(木) 午後 10:30 [ かちがらす ] 返信する

かちがらすさん はじめまして。傑作有難うございます。

褒めていただいて有難うございます。

2009/9/24(木) 午後 10:33 [筆頭・伊達政宗] 返信する

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鍋島直弘はどうでしょう?
家臣に嬉野、深堀がいますが。嬉野は系図を見ましたが嬉野与右衛門尉と元が同じ、深堀は長崎深堀鍋島と同じ紋でした。
家臣が抜擢されたようです。

2012/6/28(木) 午前 7:01 [ nor*cya**jp ] 返信する

nor*cya**ipさん 家紋が同じだと同族だと

思います。

2012/6/28(木) 午前 8:51 [筆頭・伊達政宗] 返信する

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私の曾祖母はは石丸と白石鍋島家の娘との間に生まれた娘です。
石丸は葉隠れで直弘没時の殉死禁止という、ことが書かれていて、石丸安之が本藩石丸六兵衛の家から陪臣になったようです。
この石丸六兵衛は、県図書館資料室の系図に石丸備後守と官職が付いているので不思議だったのですが、どうも竜造寺胤家の子孫で、胤家の後鎮家が備後守ということみたいです。改姓したみたいです。
深堀の紋は”鍔に小槌”紋で 戸籍を見せてもらいましたが
幕末から明治にかけての、深堀豹蔵の妻は、須古宮内2女とあり
須古西家が宮内家というらしく、白石の教育委員会資料に、深堀豹蔵のことが出ていたそうです。

2012/9/5(水) 午後 3:07 [ nor*cya**jp ] 返信する

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奇遇にも同じ白石鍋島の先祖を持つ私の家と、深堀さんの家が近くでして、宮参りの着物の紋を見せてもらったのですが、なんという紋だかご存じなく、変な紋、日の丸のようなものが付いていると言われてました。

2012/9/5(水) 午後 3:10 [ nor*cya**jp ] 返信する

nor*cya**ipさんのご先祖はかなりの名門のようですね。

家紋などをもう少し調べると詳しく解ると思います。家紋も

独特なのでご先祖の事が益々解ると思います。

2012/9/5(水) 午後 3:52 [筆頭・伊達政宗] 返信する

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