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長森原の戦い

長森原の戦い

越後守護の上杉民部大輔房能は関東管領山内上杉氏である上杉顕定の弟である。

永正6年(1509年)春、房能は密告を信じ、家老である長尾六郎為景(上杉謙信の父)を討とうと図った。

これを知った為景は逆心を起こし、房能に先んじて兵を起こし、房能を討ち取ってしまった。

平井でこの報を受けた顕定は、嫡子憲房(上杉憲政の父)と共に上州(群馬県)勢8千余騎を率いて出陣し、越後(新潟県)の長尾の館を攻め、為景は多くの将兵を失って越中(富山県)の西浜に落ちた。

顕定はそのまま越後で年を越しながら為景勢力の残党狩を続け、その厳しい粛清のために排他的な性格の強い越後の民心は上杉氏を離反していった。

顕定は次に、房能に恨みを持ち為景と共に房能を討った高梨摂津守を討とうとしたが、高梨摂津守は越後国内に隠れた残党と連絡を取り700騎ばかりの兵で椎谷の城に籠城して待ち構えた。

顕定はこれに対抗するために越後で兵を集めようとしたが、民心の離れてしまった上杉氏に加勢に馳せつける兵は既になく、永正7年(1510年)6月12日に手勢で攻め入ろうとした上杉勢は、城を打って出た城兵約200に手痛い反撃を受け妻有の庄まで退却した。

再度上州から兵を呼んで反撃するため評議を行っている上杉勢に、近隣の兵力千二百騎を率いて長尾、高梨が襲い掛かった。

ここに永正7年(1510年)6月20日、長森原にて激戦が開始されたのである。

戦いは500の兵で襲ってきた為景を顕定が800の兵で迎え撃つことで開始され、顕定は為景の攻撃を防ぐことに成功した。

しかし、為景との戦いの備えを立て直しているところに襲い掛かってきた高梨率いる新手700騎に側面より打ち掛かられて、顕定の備えは脆くも破られ、旗本が顕定を守る有様となってしまった。

顕定は自ら高梨と太刀打ちをしたが、やがて討ち取られてしまった。

顕定57年の生涯であった。

上杉憲房は上杉治部少輔建芳のいる白井城まで退却し、長尾為景を支援した長尾景春は沼田に進出し憲房を脅かしたという。

長森原の場所は現在はっきりしていなく、一般には顕定が永正7年6月12日に妻有に退却したことにより新潟県六日町付近であるとの見方が有力であるが、一方では群馬県利根郡月夜野町上石倉に顕定の居城である石倉城址があるが、沼田の古い記録に「永正7年6月21日、上杉民部少輔顕定とその子息憲房、越後の長尾為景と高梨摂津守等に攻め立てられ、石倉の長森原にて討死。」と記されていることから、上州兵を集めるために月夜野まで退却した顕定が陣城として石倉城に拠り、そこで討死したとも考えられている。

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