ロイロイブログ

いま地球が面白い。かつてこれほど興味深い時代が人類の歴史の中であったのだろうか。

妄想コラム

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写真は羊の毛から糸を紡いでいる。

友人の紹介で、機織りしている人の所へ遊びに行ってきました。

スローライフに、ただゆっくり、ゆったり、気ままな生活。
というイメージを持っている人が殆どだろうと思う。
それをスローライフとするなら、それは化石燃料と原子力にどっぷりと依存した超ハイテク生活という事になるだろう。
所謂、地球にぜんぜんやさしくない生活になる。


ごく稀に、スローライフという事を、アコースティックにこだわる生活、と捉えている人がいる。
それはつまり自然破壊度の低い、所謂、地球にやさしいローテクライフだ。
もしも、そういう生活を実践しようとすると、けっこう多忙になる。
たいていの物は自分で作り、自分でやる事になる。
知恵がなければ生きていけないかもしれない。
働かなければ生きていけない。
仕事はみな生活する事、生きる事に直結した事が優先になる。
だが、こちらにはたぶん本当は気楽さはある。

そういうローテク生活社会からみたら、今の社会の一般的な労働の大半は、
暇人の暇つぶしにしか見えないかもしれない。


白物家電をはじめハイテク化で人はみな暇になった。
だからわざわざ余計な仕事作って暇つぶししてるんだね。
ハイテク化で、空腹と、暑さ寒さを凌ぐ悩みがなくなった。
だからわざわざ余計な悩み事作って暇つぶししてるんだね。
それを忙しくなったと思い込んでいるけど、殆どは暇つぶしでしかないみたいだね。

と、宇宙人がUFOの中から地球人を眺めながら会話しているかもしれない(笑)。


もしも今後化石燃料依存による自然破壊で危機意識が増したら、ローテク化が進むかもしれない。

大昔のローテク社会とは違い、ハイテクを内包したローテク社会というのはたぶん面白い。
おそらく総合的に今より豊かな社会になるような気がする。

移動や輸送や情報ツールはハイテクで、
衣食の生産の大部分と、住居の生産のある程度をローテク化してみたらどうだ。
人手が足らなくて失業者などいっぺんになくなるんじゃないか。
シャツ一枚タオル一枚が大切になる。
おにぎり一つ、卵一つが大切になる。
ステーキは贅沢品になる。だが食べ物はみな健全な本物になる。
病気が減って医療費が激減するんじゃないかい。

どうって事はない。それだけの事でしょう。


今の社会の一般的認識は正反対で、農業の工業化と企業化を進めようとしている。
こんな事を言っているのは単なるアホだという事になっているかもしれない。
だが、ほんとのアホは一般認識の方だと、アホな私は考えている。

知人のお見舞い

昨日知人のお見舞いに行った。
50代前半のご婦人で、二週間ほど前に脳梗塞を起こして緊急入院した。
最初は集中治療室に入れられて、半身が不自由になり、しゃべるのも上手くいかなかったそうだ。
まだ二週間しかたっていないのだが、リハビリしながら、しゃべるのはほとんど聞いていて違和感ないほどに回復していた。
でもまだ左半身は不自由で、車椅子も必要だ。

最初は泣いていたそうだ。一緒に行った娘さんが言ってた。
でも今はそんな気配は微塵もない。

家族が支え、肉親が支え、親戚、友人が支え、それを純粋に受け入れることが出来る彼女は、
その事が心から嬉しくて、ありがたくて、
「かつてないほどに、今心が平和で豊かなんですよ」
「病気になってこんなに心が豊かになれるとは思わなかったわ」
「なんだか笑い上戸になっちゃって、なんでもかんでも可笑しくて仕方がなくて、笑ってばかりいるの」
と言っていた。

あんなに幸せそうな彼女を見たのも初めてだし、
あんなに幸せそうな入院患者のお見舞いに行ったのも初めてでした。


経験自体が創造である。存在する者すべてがクリエーターだ。
病気という経験を通して創造をする者もいる。
同情は湧かないし、いらない。
あるとしたら、感歎と感動と尊敬と祝福と感謝くらいなものだろう。

タイムトラベルできるということは、今まで過ごしてきた貴重な日々の記憶が、今でもそこに現実として存在している。ということになる。

過ぎ去った遠い日の記憶、あの懐かしい日々。今はもうない故郷のあの家で過ごした日々。
幼い頃にばあちゃんと、弟を乳母車に乗せ、隣町の親戚まで田舎道を歩いた記憶。その時の雲雀のさえずり。子供の頃の家族と過ごしたあのかけがえのない日々。

私が過ごしてきた日々の一瞬一瞬のすべてが、この宇宙の記憶の中で、今でも現実としてそこに在るということになる。

この世は無常だが、儚くはなかったのだ。

私のすべての経験の一瞬一瞬は、この宇宙の記憶として常に在り、宇宙がある限りそのデータベースは消える事はなく、私の過ごした日々は常に現実として輝き続けているのだ。

あの懐かしい日々は、この広大な宇宙のデータベースの中で、常に現実としてそこで輝き続けているのだ。


経験自体が創造なのだ。
存在しているということ自体が素晴らしい創造なのだ。
個々の経験の違いに良いも悪いも無く、優劣も無い。
どの存在も宇宙の創造のかけがえのない一部なのだ。

タイムトラベル

隔月誌の「風の旅人」(ユーラシア旅行社)の2008年2月刊、VOL30を今日読みました。その中に茂木健一郎氏の「孤独ではない」という随筆がありました。それを読んでの私の想像です。
以下一部を要約して抜粋します。

物理学者はタイムトラベルの理論的可能性を考えはする。アインシュタインの特殊相対性理論で未来へのタイムトラベルは比較的容易である。

問題は過去へのタイムトラベルである。四次元の時空間の中で、ある存在の変化は「世界線」とよばれる線によって表される。ある存在が過去に戻るということは、つまりは、「閉じた世界線」のループが描かれるということである。過去への時間旅行が可能かどうかは、アインシュタインの一般相対性理論の時空において「閉じた世界線」を描くことが可能かどうかという問題に帰着する。

数学基礎論における金字塔「不完全性定理」を証明したクルト・ゲーテルが1949年に発表した論文の中で、「閉じた世界線」が理論的に可能であることを示唆した。もし「閉じた世界線」が存在するのならば、過去へと旅することが可能になる。

ゲーテルの開拓者的な仕事に刺激されて、さまざまな「タイムトラベル」の方法が議論されてきた。四次元時空の中で、二つの領域を結ぶ「近道」となる「ワームホール」を用いるとタイムトラベルが可能だという提案が、その一つである。さまざまな「エキゾティック」な位相幾何学上の議論を駆使すれば、あたかもタイムトラベルが可能であるかのようなモデルを組み立てることはできる。そのようなモデルの中では、過去へのタイムトラベルがあたかも可能であるかのようにも見える。

以上に対しての茂木氏の考察は、
しかし、本当に過去へのタイムトラベルが許容されるのか、それとも自然法則は何らかの理由で過去へのタイムトラベルを禁止しているのか、この点については最終的な理論的結論は未だ導かれていない。もし過去へのタイムトラベルができるとなると、様々な矛盾が生じる可能性がある。例えば、過去に旅して、結婚する前の自分の父親を殺してしまったらどうなるのか(「父殺し」のパラドックス)。自分は生まれていないことになって、矛盾する。

過去へのタイムトラベルがもたらす潜在的な矛盾を解消するためには、「父殺し」のようなパラドックスをもたらす世界の時間発展はあり得ず、そのような成り行きを避けて世界は変化して行くのだと考えるしかない。だが、そうなると、今度は私たち人間が素朴に抱いている「自由意志」という直感と矛盾する。
〔以上茂木氏の要約〕


私は数学とは甚だ縁のない人間であります。小学生レベルの算数さえも怪しいかもしれない。
世界線、ゲーテルなどチンプンカンプンなのであります。
そういうド素人に言わせて貰うと、茂木氏の考察の中の、「自由意志」という直感と矛盾する。
という疑問は腑に落ちません。

過去に戻るということは、すべてあらゆる条件が同じの位置に戻る事です。宇宙の隅々まで、星の配置、素粒子の一かけらまで光の光子の一粒まで同じ、当然自分の記憶、全細胞、ニューロンやシナプス接合の数と状態まで、あらゆる状態が同じ位置に戻るということです。すべて同じであれば、そこから展開する創造は同じになります。変わりようがありません。だから矛盾はあり得ません。それが過去です。

シナプス接合の数一つでも、素粒子の数や配置が一つでも違えば、それは新たな未来に行ったという事になります。例えていうなら20年前の時代という設定の未来、とでもいえばいいでしょうか。
そこから展開される創造は新たな未来です。
それをパラレルワールド・平行宇宙と呼ぶことになります。。
そして「父殺し」のパラドックスのような矛盾はあり得ないことになります。

ド素人は発想が気楽でいいのでしょうね。
数学が得意であろうが苦手であろうが、男の子はこういう「タイムトラベル」のような話題は大好きなのであります。
ド素人の気楽な発想です。ごめんなさい。

もしもコメントくださる方がおられましたら、物理・数学の素人向けの言葉でお願いします。
コメントは大歓迎であります。

これは茂木氏のこの雑誌の随筆自体に対する反論などではありません。
この随筆の趣旨はこんなことではありません。
随筆の一部を材料に、単なる言葉遊びの材料にさせていただきました。

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創造力について

この世に客観はあり得ない。主観の中に客観的という概念があるだけだ。

蝶は5原色で世界を見ているという。かなり以前だけどテレビで、5原色で撮れる特殊なカメラで蝶が舞っているところを撮影したといって、紋白蝶の群れを撮影した映像を見た。普通のカメラで撮影した映像では、数羽の紋白蝶がただランダムに舞っているように見えるだけなのだが、5原色を撮影したという特殊なカメラの映像では、一羽の紋白蝶だけ色が違い、その色違いの紋白蝶の周りを数羽の紋白蝶が取り囲むように舞っているということがよく分った。つまり色の違う蝶がメスで、そのメスの周りを数羽のオスが舞っていたのだ。

ここで5原色の映像を見ている私の脳は3原色なので、当然蝶と同じ世界を見ているわけではない。
私の中には3原色しかあり得ないのだ。
3原色の世界の中に5原色という概念があるだけだ。

この世に客観はあり得ない。ということはどういうことか。
つまり主観しかないということだ。
この世に主観しか無い。ということはどういうことか。
自分が創造主だということになる。
自分の中に宇宙があり、自分自身が創造主だということになる。

このややこしい総ての現実を創り出している創造主は自分自身だということだ。

もしも、まったく取り得の無い、何をやっても不器用で、学校のお勉強も全然苦手で、スポーツも美術も音楽も全然ダメ。人との付き合いも苦手で友達もいない。社会人なら、仕事もろくに出来ない会社のお荷物。当然異性にももてない。挙げ句の果ては不登校かニートの引きこもり。という散々な現実を創り出しているとする。

その反対に、何をやっても万能で、学校の成績もトップ、スポーツも万能で芸術的センスにも優れ、会社でも一目置かれるエリートで、明るく根も真面目で努力もするので人にも好かれる人気者。という惚れ惚れするような現実を創り出しているとする。

この二者の創造力は同等だということだ。
むしろ前者の、並の人ならちょっとゴメン蒙りたいよっていうような、散々な現実を創り出している創造者の方が、よりクリエーディブでエネルギッシュだとみることもできる。

何が言いたいのかというと、
子供の出来が悪いと嘆いているお母さんは、お前はマゾか?と子供の頭を一発引っ叩きたくなるかもしれませんが、一発引っ叩いたとしても、その子供は、実は物凄い創造を見せてくれている物凄いクリエーターなんだと気付いてあげましょう。
そしてその子は尊敬に値する祝福すべき存在ということですね。
ぜひぜひ祝福しましょう。

そして実は親御さんもなかなかのクリエーターなのですね。
そしてこれを書いている私は・・・キリがなくなるのでやめましょう。

これは屁理屈ではないよ。まぎれもない現実です。
そしてこれが平等のカラクリですね。


教会カンタータ140目覚めよと呼ぶ声がきこえ (バッハ)が聴きたい。

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