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受け継がれる魂

「友の会」は
たとえロマン・ロランと立場を異にする人といえども、
ロランを自分の大きさだけの範囲に限定しない人を、
ロランの精神のうちで自分の思想と一致しない部分を否定したり
抹殺したりしない人を、真の友として迎える。
これはロランが愛していた
ヘラクレイトスの次の言葉の精神にも合致する。
「最も美しい和音は不協和音でつくられる」(P5)


本誌は「日本・ロマン・ロランの友の会」の会報第1号である。1949年9月に出た。

ロマン・ロランは1944年12月30日午後11時、78歳で亡くなった。翌1945年の春、未亡人のマリー・ロラン夫人が中心となって発足したのが「ロマン・ロラン友の会」(Association des Amis de Romain Rolland)である。会長はポール・クローデル、副会長はジャン・リシャール・ブロックとシャルル・ヴィルドラックが務め、理事としてルイ・アラゴンやジョルジュ・デュアメルらが参加した。アンドレ・マルローやアルベール・カミュ、フルトヴェングラー、ヴィルヘルム・ケンプなども入会している。

1946年8月に出た本家友の会の会報第1号(筆者所有)

フランスで友の会が設立されると世界各国に同様の動きが広がった。米国ではシュテファン・ツヴァイクの遺族が旗振り役となり、友の会の発起委員としてアインシュタインやパール・バック、ブルーノ・ワルターなどが名を連ねた。ロラン研究やイベントも相次ぎ、本誌に取り上げられているだけでも25を超える国や地域で活動が盛り上がりをみせた。あらためてロランの影響力におどろかされる。

「ロマン・ロランは
あらゆる人びとにとって普遍的な精神である。
彼はゲーテのように
自国民のみならず他国民の不幸をも痛ましく感じていた。
彼は常に諸民族の結合と平和とのために働き、
自他民族の不正に対して男々しく戦った。
『ジャン・クリストフ』こそ独仏両国民の友愛の物語であるが、
ロランはやがてその域を越えて、すべての民族が、
一つの人類に結合することを目指した。
一九二八年にロランはドイツをどう思うかという問に答えて、
『私はフランスとドイツとの正しい人びと、
偉大な精神たちを共に愛する。
私は両国の、またすべての国々の、
正しくない人や狂信者や無智な人々を嫌う。
フランスとドイツとのまたすべての国々の国家主義者たちが、
私を敵としているのはその為である。
彼等の市に別れを告げた者が敵だとすれば、
彼等の云うことは尤もである。然し私はもう
≪神の市民権≫だけしか認めなくなっている』と云っている。
各自の祖国を忘れず、祖国から遊離もせずに、
而もその神の市民の結合に加わろうとする『ドイツの友たち』は、
われわれの人類の大きな家族へ喜んで迎えられる」
(ロラン夫人によるドイツ人への手紙 P9)

日本での動きはどうであったか。本誌によれば、ロラン夫人は片山敏彦や上田秋夫に手紙を寄せ、友の会に入会して協力するよう求めたという。それ以来、日本における友の会設立が準備され、1949年6月に「日本・ロマン・ロランの友の会」が発足。片山敏彦を委員長、宮本正清を副委員長とし、上田秋夫やみすず書房創業者の小尾俊人らが委員を、河盛好蔵や丸山眞男、松尾邦之助、尾崎喜八らが評議員を務めた。顧問には宮本百合子や武者小路実篤らの名前も見える。

日本・ロマン・ロランの友の会は、機関誌「ユニテ」の発行を軸に講演会や演奏会、展覧会を開催した。全国各地に支部が発足するなど規模を拡大したが、東京本部は1960年前後に活動を終え、京都支部のみが存続した。

現在では京都支部を前身とする「ロマン・ロラン研究所」が友の会の流れを受け継いでおり、ロランの作品を輪読する読書会や識者を招いての講演会、プロの音楽家による演奏会などを開催している。機関誌「ユニテ」は年1回発行しており、会員でなくとも研究所のホームページで全文読める。本誌の全文も「『日本・ロマン・ロランの友の会』と財団法人ロマン・ロラン研究所 60年の歩み」のP5〜22に収録されている。


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