ここから本文です

書庫ユニテ

記事検索
検索

全1ページ

[1]


正視眼で自分自身を生きる

どうでもよいようなものは何も書かない、
ということは芸術上の大切な法則のように思われます。
けれどもこの法則ほど守られていないものはありません。
…私は遊びをする人間になりたくはありませんが、
それ以上にお説教をする人間になりたくもありません。
私は至るところに生命と光とを探し求めます
(ロマン・ロランが23〜24歳頃の手紙 P18)


本誌は「日本・ロマン・ロランの友の会」の機関誌「UNITE(ユニテ)」第1号である。編集者は蛯原徳夫、発行者は小尾俊人で、友の会発足から1年余りが経過した1950年11月に出た。発行の抱負が「あとがき」に記されている。

「種々の経済的事情や色々の障害によって、
われわれの抱いている理想的な形は実現することができなかった。
しかし小さな形でも、それをいかに充実してゆくかは
われわれ自身の努力によるのである(中略)
われわれのこの小さな『ユニテ』が、
この世界の闇と嵐の中に輝いている
ロマン・ロラン的な精神に向って開けられた
ひとつのかわらない窓であることを希っている(中略)
パリの友の会との相互の連絡によって、
その会報の紹介や、ロマン・ロランの
未だ日本で発表されていない原稿や書簡などを
努めて発表してゆくつもりである」(P41)

第1号にはロランの「螺旋形に登りゆく道(片山敏彦訳)」「マルヴィダ・フォン・マイゼンブーク宛の書簡(蛯原徳夫訳)」のほか、クローデルとアンリ・プティによるロラン批評、日本と世界の友の会の活動報告、ロランに関する国内外の新刊情報を収録している。

「螺旋形に登りゆく道」は第1次大戦中の1916年、ジュネーブの「カルメル」誌に発表したものである。

【ロラン「螺旋形に登りゆく道」から】
「たしかに現在の様相は、
人間理性に対する信頼を見失うためには
おあつらえ向きのものである。
進歩への信仰の上にのうのうと安住して
眠りこけていた多数の人々にとって、
この覚醒はつらいものであった。
彼らは、怠惰な一つのオプティミズムからいきなり、
底なしの悲観の酔い心地の中に飛び込んだ。
彼らは、生を、手すりへ寄りかからずに観ることに馴れていなかった。
自分にとって好都合な
いろいろな迷夢によってでき上がっている一つの壁が、
空無を目のあたり見ることを彼らにさまたげていた。
この空無の上高く、巌に添い、人間性(ユマニテ)の細道が、
まがりくねって続いている。壁はところどころでくずれ落ち、
大地はまことに不安定である。
しかし歩きつづけなければならぬ」(P1)

「人間は自分の安息を擾(みだ)す
不快な状態のことを思い出したがらないことは事実である。
しかし、世界の歴史の中で、平静は稀であった。
そして最大の魂らは平静から生み出されたのではない。
猛り狂う潮が流れてゆくのを、恐れず見つめよう。
歴史のリズムを聴くことのできる者にとっては、
一切は――最善のことも、最悪のことも、
同じ仕事に従事している(中略)
少しも前進することを望みもせず、できもしない人々もまた
盲目な力に押されて、吼える動物の群のように進んでいるのだ――
『一致(ユニテ)』という目標に向って」(P2〜3)

「一八八七年に、私がルナンと話し合ったとき、
あの賢者は私に次のようなことを予言した――
『大きな反動の時期がやがて来るのをあなた方は見るでしょう。
そのとき、われわれの今擁護している一切のものが
打ちくだかれたかのように見えるでしょう。
しかし、そのとき落胆してはいけません。
人類の進む道は、山道のかたちです。
それは螺旋状をなして登ります。
ときとして後戻りをしているように思われる。
しかしやっぱり登っているのです』」(P3)

「生を、手すりへ寄りかからずに観ること」に慣れていないのは、現代のわれわれも同じだろう。正視眼で生死を見つめられる機会の訪れは、往々にして悲劇的なものだ。「迷夢」からの目覚めは痛みを伴う。本誌に収録されているロランのマルヴィーダ宛の書簡では、自分自身を生きる覚悟と、その勇気を支える内面の確信を伝えている。ロランが30歳前後の時期に書かれた手紙である。

【ロラン「マルヴィダ・フォン・マイゼンブーク宛の書簡」から】
「私にとっては眼に見えないものの方が
眼に見えるものよりも確かなものに見え、
永遠的なものの方が現実的なものよりも
親しいものに思えるのです(中略)
生とはなんと面白いものでしょう。
そして死とはなんと心を鎮めるものでしょう。
生きていればなんと為すべきことが沢山あることでしょう。
またたとえその前に死んだとしても、
なんと心が鎮まることでしょう」
(1895年7月 P6)

「私は世の中の頽廃ぶりや低俗さについて
毎日ご想像も及ばないほど悩んでいます。
いかに幸福になる理由があろうとも、
私は幸福ではなく、また幸福にはなれないのです。
現代思想の平板な現実主義や、個人的享楽への激しい追求や、
ヨーロッパ社会に見られる快楽への渇望などを思うと、
身も痛むほどなのです(中略)
あなたは私のことを伝道師だと仰有います。
私にはたしかにその方が芸術家というよりも當(あた)っています。
芸術は思想の道具でないかぎり私には厭わしいものです。
思想は神に奉仕しないかぎり私には怖(おぞ)ましいのです」
(1895年12月23日付 P7〜8)

「世の中はあまりにも陋劣(ろうれつ)で非道です。
なんらかの武器を持つ者は誰でも断然闘わなければなりません」
(1896年12月3日付 P8)

「私は自分が正しいと思っていることを云ったのですし、
それで憎むのなら憎ませておきます。憎しみなど恐れはしません。
私は抑えきれないほどの闘争力を自分の衷(うち)に感じています。
今や闘いは始まったのです。私がその口火を切ったのです。
これからいくらでも、どんな危険な闘いでも、
戦ってゆきます。闘うことは仕合せです」
(1896年5月22日付 P11〜12)

「私は年をとるにつれてますます
唯一のものが大切であるとの確信が強まってきます。
その唯一のものとは生命であり、生命の力および誠実さです。
形式は何ものでもありません。すべての偉大な人や偉大な民族は、
なんらかの宗教的あるいは政治的な衣装を着つつ偉大であるのです」
(1898年11月 P13)

生に対するロランの誠実・真摯な姿勢は、後を歩む人々を勇気づける。本誌には日本の友の会の動静として、宮本正清がロラン夫人に宛てた手紙の抜粋が掲載されている。

「長い戦争の年月のあいだ、理想主義的で人間的な
すべての運動も信念も全く窒息させられましたが、
それによって私の気持もロマン・ロランに対する尊敬の念も
少しも影響をうけませんでした。それどころか
戦争は私の人間主義や平和主義に対する確信をますます強めたのでした。
そしてその暗い年月のあいだに
私は『魅せられたる魂』や『ラマクリシュナの生涯』や
『コラ・ブルニョン』を翻訳したのでした。
そういう仕事は、狂気と残忍さとの世界に
私が毎日見出していた唯一の慰めでもあり、
また唯一の激励でもありました。
然し私はその為に正当な理由もない禁錮と、
この上もない非人道的な取扱いとを受けたのでした」
(P25〜26)

機関誌「ユニテ」の発行は1958年の第15号で一時中断。1964年から1966年の間に第2期4冊が出され、ロマン・ロラン研究所の設立後は現在まで刊行が続いている。


この記事に


受け継がれる魂

「友の会」は
たとえロマン・ロランと立場を異にする人といえども、
ロランを自分の大きさだけの範囲に限定しない人を、
ロランの精神のうちで自分の思想と一致しない部分を否定したり
抹殺したりしない人を、真の友として迎える。
これはロランが愛していた
ヘラクレイトスの次の言葉の精神にも合致する。
「最も美しい和音は不協和音でつくられる」(P5)


本誌は「日本・ロマン・ロランの友の会」の会報第1号である。1949年9月に出た。

ロマン・ロランは1944年12月30日午後11時、78歳で亡くなった。翌1945年の春、未亡人のマリー・ロラン夫人が中心となって発足したのが「ロマン・ロラン友の会」(Association des Amis de Romain Rolland)である。会長はポール・クローデル、副会長はジャン・リシャール・ブロックとシャルル・ヴィルドラックが務め、理事としてルイ・アラゴンやジョルジュ・デュアメルらが参加した。アンドレ・マルローやアルベール・カミュ、フルトヴェングラー、ヴィルヘルム・ケンプなども入会している。

1946年8月に出た本家友の会の会報第1号(筆者所有)

フランスで友の会が設立されると世界各国に同様の動きが広がった。米国ではシュテファン・ツヴァイクの遺族が旗振り役となり、友の会の発起委員としてアインシュタインやパール・バック、ブルーノ・ワルターなどが名を連ねた。ロラン研究やイベントも相次ぎ、本誌に取り上げられているだけでも25を超える国や地域で活動が盛り上がりをみせた。あらためてロランの影響力におどろかされる。

「ロマン・ロランは
あらゆる人びとにとって普遍的な精神である。
彼はゲーテのように
自国民のみならず他国民の不幸をも痛ましく感じていた。
彼は常に諸民族の結合と平和とのために働き、
自他民族の不正に対して男々しく戦った。
『ジャン・クリストフ』こそ独仏両国民の友愛の物語であるが、
ロランはやがてその域を越えて、すべての民族が、
一つの人類に結合することを目指した。
一九二八年にロランはドイツをどう思うかという問に答えて、
『私はフランスとドイツとの正しい人びと、
偉大な精神たちを共に愛する。
私は両国の、またすべての国々の、
正しくない人や狂信者や無智な人々を嫌う。
フランスとドイツとのまたすべての国々の国家主義者たちが、
私を敵としているのはその為である。
彼等の市に別れを告げた者が敵だとすれば、
彼等の云うことは尤もである。然し私はもう
≪神の市民権≫だけしか認めなくなっている』と云っている。
各自の祖国を忘れず、祖国から遊離もせずに、
而もその神の市民の結合に加わろうとする『ドイツの友たち』は、
われわれの人類の大きな家族へ喜んで迎えられる」
(ロラン夫人によるドイツ人への手紙 P9)

日本での動きはどうであったか。本誌によれば、ロラン夫人は片山敏彦や上田秋夫に手紙を寄せ、友の会に入会して協力するよう求めたという。それ以来、日本における友の会設立が準備され、1949年6月に「日本・ロマン・ロランの友の会」が発足。片山敏彦を委員長、宮本正清を副委員長とし、上田秋夫やみすず書房創業者の小尾俊人らが委員を、河盛好蔵や丸山眞男、松尾邦之助、尾崎喜八らが評議員を務めた。顧問には宮本百合子や武者小路実篤らの名前も見える。

日本・ロマン・ロランの友の会は、機関誌「ユニテ」の発行を軸に講演会や演奏会、展覧会を開催した。全国各地に支部が発足するなど規模を拡大したが、東京本部は1960年前後に活動を終え、京都支部のみが存続した。

現在では京都支部を前身とする「ロマン・ロラン研究所」が友の会の流れを受け継いでおり、ロランの作品を輪読する読書会や識者を招いての講演会、プロの音楽家による演奏会などを開催している。機関誌「ユニテ」は年1回発行しており、会員でなくとも研究所のホームページで全文読める。本誌の全文も「『日本・ロマン・ロランの友の会』と財団法人ロマン・ロラン研究所 60年の歩み」のP5〜22に収録されている。


この記事に

全1ページ

[1]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事