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SYMPHONY X『UNDERWORLD』(2015)のコンセプトになったのがこのダンテ・アリギエーリ『神曲』である。あらかじめ断っておくが、キリスト教と結びついたコンセプトではあるものの決してキリスト教を広めるためではない。
始まりは私が大学時代に聖書についての科目が有ったので取ってみたのだが、最初は面白そうでもなく、いまいちよく分からない。なんでこんな難しい科目を取ってしまったんだろうな〜と思ったのと、実際、社会の役に立たないことこの上ないのである。大学を卒業した人ならば一度はそういう経験があるだろう。
しかし私がSYMPHONY X『UNDERWORLD』に出会ってもう一度『神曲』を読み返してみると…なんだそういうことか、なかなか面白いではないか。後になってからでないと分からないことはよくあることです。大学では取りあえず勉強しておかないと単位が取れないので嫌々やっていることも少なくない。でも『神曲』に関してははまさに興奮を促す一大叙事詩だったのだ。
まず主人公がダンテ。このダンテがキリスト教で考えられている死後の世界「地獄」「煉獄(島・地上)」「天国」を旅する三部作に渡る物語がこの『神曲』である。まずダンテが人生半ば(35歳ぐらい)にして暗黒の森に迷い込む「地獄」からスタート。
自分は罪なんておかしていないよ、という人はなんてことはない。動物や植物を犠牲にして肉や野菜として食しているから立派な罪・罪人である。実は仏教にもよく似た考えがあり、僧侶が黙って食事をするのは動植物の命を犠牲にしているから笑えない出来事なのである。それで黙ってもくもくと食べるのである。
↑ (食欲の罪)
そして物語は、アウグスティヌスは「罪を犯したら地獄から永遠と出られない」としているが、古代ローマ詩人ウェルギリウスに導かれて海を渡り(地獄から出る)、罪を告白し、贖罪の途にいる数々の魂と出会い、叱咤激励を受けながら山頂を目指す。ついに地球の対極点にあたる煉獄山に到達する。そして、その煉獄山を登った山頂から天上への入り口を捉えるのである。
天国の入り口「地上の楽園(アダムとイヴで有名なエデンの園)」ではダンテが9歳の時に恋した永遠の淑女ベアトリーチェと出会い、彼女の導きによって昇天する。天国の中では祖父カッチャグイーダの魂とも出会い、そして祖父カッチャグイーダによって地上で待ち受けた追放と流浪の運命を知ることになる。
いわゆるローマ十字軍によるエルサレム遠征(2004年にリリースされたANGRA『TEMPLE OF SHADOWS』のコンセプトにも登場)、カエサルやプラトンの出現、教皇のバビロン捕囚、シャルル7世の戴冠など、中世ヨーロッパにおける人々の罪の歴史がよく見える(たぶん空の上だからよく見えるのだろう)。
そしてついに神の姿を捉えた。私的に神とは創造主のことであって決して輪っかを乗せた人ではないと思っている。創造主と天照大御神をはき違えてはいけない。ここは自然のことだと思うし、こういうハッキリした答えがないところに文学の本当の面白さがある(神学・スコラ哲学ともいう)。
地球の自転・公転は必ず決まっているし、地震や火山の噴火も止めることは不可能である。また数学と音楽は学問的に密接な関係を持っていて、例えば「1+1=1」でも「1+1=3」でも決して間違いではないのだが、あえて「1+1=2」としておかないと先へ進めない。音楽も「4・8・16」の拍数の基本が分からないといつまでたっても楽譜を読めないし作曲もできるわけがないのである。こういう決まりきった規則に従って進行する科目を自然科学(数学・物理・音楽など)と呼ぶ。
このように自然・社会は規則に従って動いており、人間の感情や行動で変えるのはいっさい不可能である。ただし街が出来るのは人間の欲というか脳の中の思い付きであり、自然とはかけ離れた真逆の物だが、いったん壊してまた建て替えられるので壊れたものは必ず戻るろいう脳の錯覚に陥るのである。
このような罪は告白し、祈りを捧げる(十字を切ってあぁぁめぇぇん!と言えばよい)ことによって救われるのである。そして讃美歌を歌い、聖母マリアを讃える「アヴェ・マリア」(アヴェは幸あれ!という意味)ならなお良い。
作曲:シューベルト
オペラ歌手:ルチアーノ・パヴァロッティ
こうしてみるとかなり当たり前のことを述べており、なぜ「殺すことがいけない」のかは「元に戻すことが出来ないから」であり、私はそれを本気で信じて蚊を叩かなくなったから夏場の痒さは尋常ではない。私も迷える子羊の一人である。紛れもなく悩みや苦悩を持って生きている”ただの人”なのだ。
<補足>
英語の「Good-Bye」は「God-by」から来ているという一説をご存知だろうか。あえて日本人は「さようなら」と訳しているが、英語圏では「神のご加護を」と思っているとするなら本来は「道中無事でありますように」という感覚なのである。こういった言語もキリスト教的な思想から来ており、運命は神に託すものなのである。
神(創造主)は目に見えない自然的なものなので、結局は運命という方向へ脳が働くのである(これを英語脳という)。日本人にはこの感覚がないので必死に訳しながらフーフー言って英文を読んでいる人があとを絶たないのだが、読んでいるのは英語なので、本来は素直に左から右に読んで意味を取るだけである。
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