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「あなたって時々おもしろいこと言うのね」
彼女は鼻に皺を寄せてクスクスと笑った。
「でもさ、自分が正常だって言い切れる人間て、この世の中に何人くらいいるのかな?」
僕は天井いっぱいに描かれたラッセンだか何だかの絵を見ながら言った。
碧い地球をバックに鯨の親子が戯れる雄大な絵だ。いかにも彼の作品らしい。
「さあ…。それは、みんながそうなんじゃない?よく分かんないけど」
彼女は少し間を置いてそう答えた。
「そうゆうもんかなぁ」
「そうゆうものよ」
彼女と出会ったのは大学二回の頃だった。
その日僕は寝坊して慌ててバイクを走らせた。
今日の一限目は、始まって10分後に出席カードが配られる。
急げばまだ何とかなりそうな時間帯だった。
友人にメールで代返を頼もうかとも思ったが、
その教授はカードに細工をしていることで有名だった。
つまり、不正が行われないよう日替わりで、隅にこっそり印をつけているのだ。
学生には内緒のつもりらしい。
このカードは今日配ったカードではありません!出席にはなりませんよ!
以前鬼の首でも獲ったかのように学生に詰め寄る姿を見たことがある。
全く嫌な性格だ。
そんなことを思いながらも僕は、スピードをあげた。
守衛に挨拶し駐輪場にバイクを停めた頃には既に20分が過ぎようとしていた。
今日はサボろう。
僕は腕時計を見て完全に諦めた。
近くのコンビニで朝食用のパンとカフェオレを買いゆっくりと坂道を上った。
校舎の裏側にあるベンチを目指す。
そこはレンガ造りの吹き抜けになっていて、木が等間隔に植えつけられている。
何故か人も滅多に見かけない。読書をするにはもってこいの場所だった。
秘密の場所を見つけて以来、僕のお気に入りとなった。
あ…。既に先客がいる。
遠目からベンチに人影が見えた。
ため息混じりにドアを開けると、すぐに僕の目は釘付けになった。
そこにはあまりに美しい光景が待ち構えていた。
誰がそれを予測できただろう。
木漏れ日の中に彼女はいた。
透き通るような白い肌。長い黒髪。
その視線は手元の本に落とされているようだった。
僕は思わず見とれてしまった。
ドガッ!
大きな音を立て
勢いよく入ってすぐのベンチに蹴っつまずいた。
前のめりに転げそうになる。
キョトンとした彼女と目が合った。
僕は一瞬で舞い上がってしまった。
音の割には全然痛くなかったが、
大袈裟に痛そうなゼスチャーをしてみせた。
何故そうしたのかは分からない。
クスクス、彼女が笑った。
僕は照れくさそうにおじぎをした。
「ねぇ!ちょっと!聞いてるの?」
彼女の声で僕は我に返った。
「ん?・・あぁ、聞いてるよ。人間て、ちっぽけだよね」
聞いてなかった。
だが話の見当は付いた。
彼女がこういう時決まって夢中になる話の一つに、地球の話があった。
何度も聞かされた内容だったので僕は嫌でも覚えていた。
地球は太陽の周りを秒速三十キロで疾走している。
時速に直せば十万八千キロだか何だかで
太陽系はさらに銀河系の周りを秒速三百キロ、
つまり時速百八万キロだか何だかで回っている。
さらにその銀河系は他の銀河系に対して秒速五千六百キロで…みたいな話だった。
宇宙は絶えず高速で動いている。ほら、こうしてボーッとしてる間にも。
彼女は僕の生返事が気に入らなかったようで、
がるる、と言って肩を噛んだ。
「痛い、痛い!犬か!」
「犬よ」
僕を睨みつける。
「あなたっていつもそう」
ぷいっと横を向く。
そんな彼女が僕はどうしようもなく可愛いと思う。
「俺、もし生まれ変わるとしたら今度は鯨になりたいなぁ。鯨はいいだろうなぁ」
彼女は黙ったまま返事をしない。
「怒ってるの?」
僕は彼女の顔を覗き込んだ。
シーツでサッと顔を隠す。
「なぁ。怒ってるの?」
僕は無理やりシーツを剥ぎ取ってもう一度訊いた。
あははは、彼女が吹き出す。
僕も笑う。
僕は彼女の笑顔が好きだ。
どんな時もこの笑顔に支えられてきた。
唇を頬に強く押し当ててもう一度笑う。
「あなたって不思議ね。それに…」
可笑しいわ、と付け加えた。
僕は夢中で彼女の唇を吸った。
まるで別の生き物のようなそれは、僕の中で溶けていった。
彼女には少し変なところがあった。
風邪で高熱が出ると決まって、抱いて、と言った。
最初はさすがに僕も心配した。それどころじゃないだろうって。
でも特に断わる理由も見当たらない。
今回も僕は彼女に呼びつけられた。
彼女を抱き寄せると、病気の匂いがした。
でも決して嫌じゃなかった。
躰をくねらせるたびにシーツの合間から生温い空気がこぼれた。
高熱で火照った躰は、ほんのりピンクがかっていて
彼女の魅力を一層際立たせているようにも思えた。
僕は彼女のことが恐ろしくなる時がある。
ちょっと力を加えたらへし折れそうなきゃしゃな躰。
全てを見透かされてるような強い眼差し。
「じゃ、俺バイトあるから。行くわ」
彼女はコクリと頷いた。
「病院、一緒に行ってやれずにごめんな」
2番目のシャツのボタンを留ながら、カーテンの隙間から外を眺めた。
人々が忙しそうに行ったり来たりしている。
あと数分後には僕もあの中、か。
ぼんやりとそんなことを思った。
「行けよ、必ず」
彼女は上半身を壁にもたれさせたまま動かない。
返事はなかった。
「後で電話する」
机の上の鍵束を乱暴に取ると、僕は部屋を出た。
ザッザッ
渇いた音が月のない森に響き渡る。
カキンッ
時折シャベルの金属音が突き刺さる。
僕は目を見開いたまま彼女を見上げていた。
変な角度に折れ曲がった僕の躰には、この小さな穴は少し窮屈だった。
ヘッドライトに照らされた彼女の白い顔が浮き上がる。
あぁ、こんな時でも彼女は美しいと思った。
ここはどこだろう、以前二人で見つけた森かな。
一本だけ、珍しい熱帯の木が生えてたな。
彼女、得意になって教えてくれた、えっと、名前、何だっけ。
彼女は僕のあげたジッポーライターをポイっと穴に投げ入れた。
それは僕のおでこに当たってカシャリと音をたてた。
限定もので裏にシリアルナンバーが入ったものだ。高かったな。
長い髪が顔を覆っていてよく分からなかったが
少し笑っているようにも見えた。
続いて大きな黒い塊が、僕の視界を遮った。
僕は彼女に殺される。
近い将来。
あの少し変わった木の下に、
僕は埋められる。
それも悪くないな、と思った。
ランプが2、3度点滅し、エレベーターが音もなく開いた。
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