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三島由紀夫は私の中で消化が難しい作家の一人です。多分、余り性に合っていない気がします・・・初めて読んだのは、中学生の時の「潮騒」。これが好きだったので、他のも読んでみたわけですが、家にあった「金閣寺」や「憂国」などには辟易としてしまいました。結局、「豊饒の海」シリーズ以外は、「三島由紀夫は一応読んでおかねば」という使命感だけで読んでいたような気がします。つまり、一般ウケするような作品しか気に入らなかったのです。 もう、今後、好んで三島由紀夫の作品を読むことは無いかなーと思っていたのですが、昨年、「真夏の死」という短編集を久しぶりに読み、三島由紀夫の作家としての力量を改めて実感した気がしました。 それ以来、またぽつぽつと思い出したように読んでいるわけです。で、今回の「愛の渇き」ですが・・・ ストーリーを簡単にご紹介すると、主人公の悦子は、すさまじい嫉妬による闘いの果てに、若くして夫を腸チフスで亡くす。で、よるべない彼女は夫の実父が引退後の道楽で住んでいる田舎の大きな農園に身を寄せ、そのまま抵抗も無しに舅に身を任せる。舅の公認の愛人となった悦子は、屋敷に住み込んでいる二十歳に満たない年齢の三郎に熱烈に愛情を寄せ、叶わぬ想いに身を焦がす。そして、ある晩、遂に想いの丈を告白するが、様々な葛藤のうちに、最後には悦子の誘惑に応じて彼女に襲いかかった三郎をその手で殺してしまう・・・ この作品は、主人公の女性による徹頭徹尾「ひとりよがり」の物語です。この主人公の女性は本当に怖い。夫への実体の掴めない凄まじい嫉妬心、死に逝く夫を独り占めすることに覚える深い満足感、あっさり舅に身を任せる無関心さ、そして、少年への一方的な偏愛と想いが成就することを恐れる苦悩への執着とも言うべき自己矛盾、最後に、何の罪もない少年の頭を桑で叩き割る激情・・・エゴ、エゴ、そしてエゴ。 それにしても、この物語に自分を同化させていくのがとても難しかった。何て言うか、私にとっては、三島由紀夫のこういう作品は、余りに技巧的過ぎる気がしてしまうのです。今回の「愛の渇き」も、人間の究極的なエゴを描き出す為に、極めて特殊な状況設定と人物設定をしています。悦子という女性は、言わば「純粋に幸福を追求する」ことができる女性で、全く他人の想念や社会の道徳規範に惑わされない。そして、また、他者と殆ど関わりが無く、社会的な活動にも全く従事していない、田舎に引っ込んだ無産階級者として描かれています。勿論、小説は、主題を一番効果的に描く舞台設定を自由にして良いわけですが、ここまで技巧的に特殊な環境をつくりだされると、当然ながらどうしても感情移入できない。読み手が、一生懸命、フィクションの世界についていこうと息せき切って走らなければいけないような錯覚に陥ります。 こんなに純粋バイオ的な状況設定、そして物語に、自分の心を合わせていくのはとても難しい。三島由紀夫という人は、本当に純粋な人だったんだろうな、と改めて思います。神は勿論のこと、神としての天皇も、命を賭して守るべき「家」も「国家」も無いことを当たり前の前提として、なぜか生きていることができる現代の日本人の私には、この苛烈な純粋さは、どこか息苦しい。なぜ生きていられるのか、と問い詰められて、なぜ生きていられないのか、と反問するような、ボタンのかけ違ったやりとり、とでも言うのか・・・そして、エゴ、エゴ、エゴというのはわかるんだけれど、もっと凡庸な曖昧さの中で生きていける私にとっては、純粋にエゴだけ切り離して考えることも難しい。西欧の文学が、神を失った後にどれほど葛藤したか、それを想像することはとても興味深いのに・・・なぜ、三島由紀夫のこの純粋さには共感がもてないのか、考えてみれば不思議でもあります。 それにしても、以前から思っていたのですが、三島由紀夫は、肉体の病と健康美について語らせたら天下一品ですね。彼の「病」というものの描写は、とても真に迫っていて、暗いところもドラマティックなところも日常的なところも、余すところなく伝わって来る気がします。「愛の渇き」でも、悦子が夫の最期を看取る生々しい病との闘いの日々の描写、そして、若い三郎の溌剌とした(あまりに溌剌としているがゆえにどこか怪しくさえ思える)肉体と健康美を愛でる描写には、知らずに惹きつけられるものがありました。 うーん、三島由紀夫、また読むかしら・・・いや、また暫くしたらきっと読むだろうと思います。ボタンのかけ違ったやりとりだとわかっていても、なぜか求めてしまうことって、あるんですよねえ。
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文学・小説(日本)
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海外文学作品の翻訳調の文体が続いたので、少し対照的なものが読みたくなりました。 平凡社ライブラリーのこの文庫には、宇野千代の「人形師天狗屋久吉」「日露の戦聞書」「おはん」の3作品が収められています。全て、主人公の「語り」のスタイルをとった作品です。 宇野千代は、4,5年前に実家の本棚にある古い「おはん」の文庫を何気なく読んでみて、「これはすごい」と思いました。「おはん」が衝撃的でしたので、その後読んだ「色ざんげ」や「薄墨の桜」といった作品はさほど印象に残りませんでしたが、気になる作家の一人です。 今回は、「おはん」に似た西国なまりの柔らかいやまとことばによる「語り」の文体の作品を集めた一冊ということで、期待してAMAZONで購入。 やはり再読した「おはん」が一番素晴らしかったですが、「人形師天狗屋久吉」も「日露の戦聞書」も、思わずひきつけられる語り口調が見事です。 「人形師天狗屋久吉」は、70年間浄瑠璃人形をつくり続けた実在の名人人形師が、自分の半生と人形づくりへの想いを語る、というもの。3人目の娘のことを「ああ、名前も忘れて了うた」とか、死んだ妻のことを「さあ、いつ時分に死んだのであったのやら」とか言う、のんびりとしたおじいさんの語り口調は、日本文学にありがちな、ストイックで頑固な職人的イメージを、ある種破壊するものです。それでも、70年間一日も休まず人形をつくり続ける人形師の職人根性は凄まじい。その凄まじさをストレートには感じさせないところが、「語り」のミソのような気がしました。 日本文学にありがちなイメージを壊す、という意味では、「日露の戦聞書」という作品も同じ。こちらはタイトル通り、日露戦争に軍医として従軍した舅への聞き語りを綴った作品です。戦争ものにありがちな悲惨さや残酷さ、或いは政治的・歴史的省察などがこの作品には一切ありません。極めて卑近で、生活感があって人間的な戦争の様子が、至極飄々としたある種ユーモラスな口調で語られています。兵士たちが、何を食べ、何を喜び、いかにわけがわからないままドタバタしながら従軍し、戦争が進んでいったか。そして、暗く重たい言い方はしていないのだけれど、その合間に確かに人は死んでいく。これも、ある意味戦争というもののありのままの姿だなあ、と、ちょっと目から鱗が落ちるような気持ちになる作品です。 そして、「おはん」は語りの美しさと柔らかさが秀逸で、結末を知っていながらも語りに引き込まれて最後まで読んでしまいました。前妻おはんと、その妻を捨てる原因となった元芸者のおかよとの間で揺れるどうしようもない男の話。単なるだらしない二股男の問わず語りなんだけれど、それが不思議に哀れで切なく、人間の情念の深さ、おろかさがしみじみと感じられて、胸が苦しくなる。 それにしても、初めて読んだ時にも、おはんというただただ哀れな女には、なぜか不憫な気持ちよりも、気味が悪いような印象をもったことを覚えていますが、今回もやっぱりどこか不気味な女だな、と思いました。自分を捨てた男に再びいそいそと抱かれに行き、元々はれっきとした妻であり実の子供までいながら愛人のような立場にじっと耐え、男のはかない約束を一途に信じてついてきた挙句、息子を死なせ、男にも騙されて黙って去って行く。 主人公の男も、おはんから男を奪ったおかよも、どうしようもなく業の深い人間なのですが、なぜだか私にはおはんが一番業深い女に感じられる。間接的とは言え、両親のごたごたのせいで小さな命を落とした息子についても、「亡うなりましたあの子供、死んで両親の切ない心を拭うてしもうてくれたのや思うてますのでござります」とさらっと言ってしまう怖さ。 最後に、全く恨み言を言わず、自分は身を隠して二度と男に会わない決心を告げるおはんの手紙に、男が一瞬「逆恨みに打って打って打ちすえてやったらば」というほど怒りを感じる気持ちが、なんとなくわかります。おはんのその行為によって、男は自分一人が一生抜けられない、業深い世界に取り残されたような気がしたのではないでしょうか。おはんの柔らかい体と細い目となよなよとした態度に魅せられて、情欲の深い泥の中にもろとも身を沈めていた男であったのに・・・と、これはちょっと男を弁護しすぎでしょうか。どうしようもない男のこころの弱さを、女の読者にまで体感させ納得させてしまう、これが「語り」の感情移入のすごさなのかもしれません。
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高樹のぶ子は、「百年の預言」と「光抱く友よ」の2作品を読んだだけですが、男女の性の違いというものをすごく掘り下げて、的確に書いているので、興味を持ちました。この作品は、中年男女の燃え上がるような恋と性愛を描いて、谷崎潤一郎賞を受賞したことで有名な作品です。 がしかし。 私はどうしても、こういう中年男女の、消え入る前の火が最後の燃え盛りを見せるような性愛、みたいなものを主題とした作品にある種のうさんくささ、と言うか、欺瞞みたいなものを感じてしまうのです。それはやっぱりまだ私が若いからなんでしょうか・・・ ストーリー。25年ぶりに再会した千桐と郷は、お互いに家庭や子供もある身でありながら、激しい恋に燃え上がる。始めはそんな燃えるように純粋な恋の想いをお互いに認められず、子連れで出戻り、父親の看病に金策に苦労している千桐にお金を工面する見返りとして、肉体関係を持っているかのように振舞う。互いに自分の気持ちに素直になり、次第に心を許していく二人だが、そのような関係も束の間、郷は癌に冒され、迫り来る死を前に、二人は分かち難く身体を重ね合わせる。郷が逝った後の千桐は、郷と同化して失った身体の右半分が痛むと言い、いつしか正気を失い、最後まで恋に溺れた女として晩年を過ごす。 中年男女の燃え上がる恋は、いつも後ろに控えた死と共に描かれます。そして、未来がなくて、実務的な世間のしがらみ(あの人と結婚するだろうかとか、今後の生活はどうするんだろうか、とか)が無い分、そこにはある意味で性愛の純的姿が浮かびあがる。死を意識して、それでも生きることの孤独を埋めようとして、あるいはもっと動物的に、一瞬の生きる瞬間を確かめたいがだめだけに、男と女が交わる姿は孤独で悲しい。だからこそ、そういうシチュエーションが必要なのだ、という作家の意図はよくわかります。大きな声では言えないけれど、私も40過ぎの、しかもこの先そんなに長くは生きられそうもないような男の人と、真剣に恋愛したことがあって、性と生の灯火が尽きる前に、どんなに男がそれに固執するか、というのは何となく想像できる、、 でも、なんだかそういう性愛の姿を、「至高の愛」のように美化するのはどうなんだろう、という気がしてしまうのです。 燃え上がる恋、死を前にして純粋に凝縮された「性」と言う割には、主人公たちは東京と金沢で、それぞれの家族や仕事と日常の生活を続けながら、束の間の逢瀬に身を焦がしているだけ。癌に冒され、余命いくばくもないと自覚した郷は、手術を受ければ多少は生きながらえるかもしれないが、性機能に障害が残る危険性があるために、敢えて手術を受けない、という選択をします。しかし、そんな命とひきかえに恋を選ぶような人間が、何もかも捨てて女の元に走るのでもなく、東京で普通の日常生活を続けている気持ちが全く想像できない、、、と言うのは、若者の性急さでございましょうか。 いや、ただ単に美化しているのではなく、肉欲の悲しみも生きる孤独も描いているのだ、と作者は反論するのかもしれませんが、その割に掘り下げ方が足りないのでは、というもやもやした気持ちが残ります・・・特に釈然としないのは、主人公たちが共に生きてきた子供やパートナーの姿が十分に描かれていないこと。それはまるで「無視されても仕方のない人たち」のように、すごくあっさりとストーリーから遠ざけられてしまっているのです。郷の妻と子供についてはほとんど言及されないし、千桐の娘、眉に至っては、恋に狂って老いていく母を理解できず「本当の恋を知らない女」として物語の最後に姿を現すだけ。 千桐は右手で自分の右耳を撫でるようにしながら、なまめいた震える声で呟き続けている。 「あなたのこの右耳は、僕の耳・・・右の乳房は僕の右胸・・・」 聞き間違いではなく、確かに、僕の耳僕の右胸と言った、そうわかったとき眉は、何か名状しがたい不快なものと、哀れみと、羨望のようなものを覚えて立ちすくんだ。眉には母親が、どんな妄想に摑まっているのか見当もつかなかったが、自分とは無縁の、自分には一生味わえそうもない大きな幸福を、その毀れかけた体に閉じ込めているような気がしたのである。 性愛の悲しみや本当に生きる孤独は、中年の男女に、生活や人生の時間を共に分け合った人間がいながらも、「なぜ、この人たちでは死を前にした孤独という問題を解決できなかったのか、「なぜ、この人たちよりもそのはかない性愛を選ばねばならなかったのか」というところを突き詰める過程で描かれるのではないでしょうか・・・究極的な男と女の性愛の姿は、究極的に孤独でエゴイズムに満ちた人間の姿でもあり、それだからこそ悲しいし真実でもあるのだけれど、エゴイズムの方に余り焦点をあてず、二人の男女の想いだけを純粋なもののように描くのは、なんだか片手落ちのような気がしてしまいます。 とは言いつつも、この手の作品が人びとの共感を呼び、なんだかやたらともてはやされているような気がしてしまうのは、やっぱり私が若過ぎるからなのかしら・・・?こういう作品を読むと、14歳の頃、名作だと言われている本を読んだのに、ちっとも良さがわからなくて、「これは自分が子供過ぎて良さがわからないんだろうか」と思わず不安に感じた時に似た気持ちを、覚えてしまう私なのでした。
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田辺聖子の本はあまり読んだことがありません。 ものすごい偏見かもしれませんが、あんまり「多作の現代作家」というのに良いイメージを持っていません。(決して五木○之や森○子や林○理子なんかを批判しているわけではない)あまりに多作だと、なんかやたら自己主張が前面に出ているというか、書き散らしている感じがしてしまって・・・で、田辺聖子はさらに関西の「おしゃべりなおばさん」というイメージを勝手に持っていて、あまり読んでみたいと思いませんでした。 しかし、数年前に映画化もされて話題になった「ジョゼと虎と魚たち」を読んでイメージが一変。なんとも胸にぽっこりと何かが残るようなせつなさと面映さがあって、すごく好きな感じ。と言ってもストーリーは殆ど忘れてしまい、とにかく「良かった」ってことだけ覚えてるんですけど。それから、光文社文庫日本ペンクラブ編・唯川恵撰の「恋愛アンソロジー こんなにも恋はせつない」に、「おそすぎますか?」という短編が載っていたのですが、これもハッピーエンドではないちょっとせつないお話で、印象に残りました。 余談ですが、私はこの光文社文庫の、有名作家がお気に入りの短編(いろんな作家の)を選んだアンソロジーシリーズが大好きです。やっぱり江國香織や川上弘美のように、自分の好きな作家が選んだ短編というのはどれも素敵。(ちなみに、小池真理子&藤田吉永撰はイマイチだった・・・やっぱり作家の趣味が合う合わないがあるなーと思いました。)色々な作家のアンソロジーって意外と無いんですよね。出版社が人気作家を集めて無理やり一つのテーマで短編をつくらせる、とかいうのはあるんですが、そういうのはいかにも間に合わせでつくった短編なので、質が低いです。海外の作家やクラシックなものからも幅広く印象的な短編を選んで、アンソロジーをつくってもらうと嬉しいんですが。でも、選ぶ人のセンス&読書量が試されるので大変だとは思います。そうそう、山田詠美の「せつない話」シリーズも好きでした。 話がそれましたが、そんなこんなで、田辺聖子の短編はなかなか良い印象があったので、この間実家に帰った時に母親の本棚に埋もれていたこの本を拝借してきました。田辺聖子のほんとに初期の短編作品が5編収められています。時代設定はさすがにかなり古いです。 今まで読んだものもそうなんですが、表面的には結構からっとしているのに、最後に胸にせつないわだかまりが残るような、そういう話が多い。そのわだかまりは嫌な暗い感じではないんだけれど、なんだか心にぽかっとしたものが残ってしまう。そういう意味では、全然「しゃべりすぎ」な感じがなくて、むしろ「あれっ?」と淡い期待を裏切られるようなさらっとした終わり方をしています。でも良い短編というのは、多かれ少なかれ、そういう裏切られ方がどこか心地よくて、かえって心に残るものです。 表題作の「うたかた」は、難波のチンピラが偶然出会った普通のお嬢様っぽい女の子と一瞬だけ夢のような恋をする話。女は突然姿を消し、チンピラの主人公は、夢のような湖岸ホテルで過ごした一夜が忘れられなくて、懸命に彼女を探すが見つからない。その後、偶然彼女の姿を発見し、喜んで声をかけた主人公に対し、彼女はまるで別人のように接し、脅されるのではないかと心配している始末。主人公は傷つき、女を罵って姿を消します。 ナベちゃんよ、 これで俺の話は終りだ。 俺はただ、あの詩のことをいいたかっただけだ。 身をうたかたと 思うとも うたかたならじ わが思い げに卑しかるわれながら うれいは清し 君ゆえに やっぱりこの詩はウソじゃない、この先生はウソつきじゃない。なあ、あの夜、湖岸ホテルの夜の幸福はやっぱりうたかたではなかった気がする。 チンピラは、難波の汚れた町に帰ってきて、ヤクザ仲間に入った少年や、17歳で売春して病気になった少女との日々がまた始まる。最後に、突然ぽっと主人公が呟きます。 人間なんてうたかたみたいなもんだ。−−−−−−ただ、恋したときだけ、その思いが人間自身より、生きているようだ。 この文のところに、なぜか赤えんぴつで線がひいてありました。若い頃の母親が引いた線かしら、と思うと、ちょっぴりこそばゆいような、歯がゆいような気持ちになりました。 田辺聖子先生は、なかなかココロニクイお話を書きはります。
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「空中ブランコ」で直木賞を受賞し話題になった奥田英朗。家の本棚にも、BOOKOFFで買った「空中ブランコ」があるものの、結局一度も読んでいないまま時が経ち、、、ふと本屋で見かけた短篇集「ガール」を手にしました。 いや〜、おもしろかった。5人の働く女子を主人公とした短篇集です。どれもこれも面白かったですが、一番良かったのはやっぱり表題作でしょうか。 由紀子は大手広告代理店に勤める32歳。花形の業界で仕事をしていて、お洒落も大好き、合コン、サークル、クラブにナンパ、と華やかな毎日。でも、時折思う、「もうガールじゃいられない」 残りのコーヒーを飲み干し、洟をひとつすする。 もうガールじゃない、か。由紀子は小さくため息をついた。わかっている。三十二といえば、若さが売りにできる歳ではない。男はともかく、女はそうだ。 由紀子自身、近年特典が減っていくことを肌で感じていた。十人並み以上のルックスに恵まれたおかげで、学生時代からずっと「おいしい」思いをしてきた。(略)それ以上に、おじさんたちからちやほやされた。世の中全体から構われた。要するに、祝福された存在だったのだ。その特典が今、手の中から次々とこぼれようとしている。 由紀子の不安は、同じ職場の、「三十二の自分ですら「CLASSY.」なのに」未だに「Cancam」までチェックし、「可愛い系」を死守しようと奮闘する38歳の先輩「お光」の姿を見る度に、ますます膨らんでいきます。しかも、由紀子とお光の共同プロジェクトの前に、クライアントとして、おかた〜い百貨店の女性社員・安西博子が立ちはだかる。紆余曲折あるものの、クライマックスでは、お光の機転により、博子がひょんなことからファッションショーのモデルに担ぎ出され、ピンチを凌ぎ、ショーは大成功に終わります。 「やだなア。恥ずかしい」 安西博子はあれこれいいながらも、変身していく自分の顔に見とれていた。小さく向きを変え、サイドを確認したりしている。 それは彼女が初めて見せた、ガールの顔だった。由紀子はうれしくなった。なんだ、堅物のふりして。本当はガールでいたいわけじゃん−。 (略) 「光山さんって楽しい人ですね」安西博子がはにかんで言った。もはや堅物の彼女ではない。すっかり打ち解けた様子だ。 「うちの会社、ああいう人が多いんです」由紀子が口をすぼめて見せた。「生涯一ガールってタイプが多いんです」 二人で笑った。心から笑った安西博子は、本当に可愛かった。 生涯一ガール。きっと自分もその道を行くのだろうと、由紀子は思った。この先結婚しても、子供ができても。そんなの、人の勝手だ。誰にも迷惑はかけていない。 文庫版の帯には「奥田さん、どうしてこんなに女の子の気持がわかるんですか?」と書いてありましたが、まさにそう。他の短篇も、どれも「わかるわかる」の連続。強いて意地悪を言うならば、本の中の女性たちは、自分や相手(友達やライバル)に対してかなり客観的でサバサバとしていますが、本当の女はここまで潔くないですよ〜という感じ。他人や会社には鋭い洞察力を発揮できる女性でも、こと「女同士のたたかい」とか「自分の女としてのプライド(歳とか結婚とか)」となると、全く客観性を欠いた、ドロドロした思考に嵌りやすいのが、悲しいけれども真実ではないでしょうか、、、勿論、これはエンターテイメント性の高い短篇集なので、そのへんは小気味良く、すぱっとした会話&展開で、後くされなく楽しませてくれます。 あと面白かったのは、「ヒロくん」という話。バリキャリの女性総合職の聖子は、女性管理職に昇進。やる気満々で臨んだものの、年上にも関わらず、派閥争いの力学で不本意にも聖子の部下になってしまった今井は、反抗的な態度です。後輩の女性社員を教育したいという聖子の意図に逆らって、女性社員を「女の子」扱いしたまま、まともな仕事もさせない。直接対決で、ますます態度を硬化させる今井に手を焼き、上司の木原に顛末を報告するが、、、 「武田、おだてて使うっていうのも、管理職には必要な手腕だぞ」と猫撫で声で言った。 (略) 「男を立ててやれよ。男なんて単純だぜ。あなただけが頼りなの、なんて目をすれば、しゃかりきになって頑張るものさ」 耳を疑った。木原は今井を叱責するどころか、自分を懐柔しようとしている。 「そのお言葉には異議があります。どうして男だけ立てなければならないんですか?女は立ててもらえないんですか?」 「いや、だからね。あいつは運動部出身で、男女平等の観念が薄いんだよ。」 「それで許されるんですか?」聖子は目を剥いた。 (略) 木原を見損なった。なあにが男のメンツだ。そんなもの、男以外の誰も認めてなどいない。日本国憲法だって認めていない。権利のつもりでいたら大間違いだ。 現実には、「男なんて単純だから、まあ立てておくか」なんて安易な対応をすることは、職場でもしょっちゅう。でも、プライベートでは各自好きにやればいいですが、会社でそれがまかり通っているのはおかしなことです。「運動部出身だから」って何だそりゃ?と、全くその通りですが、そういう言い訳が何故か通用してしまう、おじさんたちによる、おじさんたちのための、現代ニッポンの会社組織。でも、面倒臭いからと言って、そういう安易な対応し続けるのは、今後働く女性たちのためによろしくないなあ、と我が身も反省。主人公も、自分が育てようとしている後輩女性の手前、そんなことで引くに引けない、という意気込みがあっての、この発言なのです。 男の側からは中々できないこの種の指摘。それとともに、「ガール」で見せたような、女のずるさ、甘さもきちんと描いてみせる。奥田英朗の洞察力・観察力は見事なものです。「ガール」は、働く女性にはほんとにお薦めですし、出きれば男性諸君にも読んでいただきたい一冊。 本棚に置きっぱなしの「空中ブランコ」も読んでみようかな・・・と思いました。
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