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書庫パーシー・セルッティの世界

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束縛

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セルッティは終生オーストラリアのポートシーの自然を愛したようです。美しい砂浜や砂丘、沈み行く巨大な太陽といったものが選手の人格形成に欠くことのできない薫陶を与えると信じていました。その対極として人工的に組み立てた方法論に対して尋常でない嫌悪(というか殺意に近い憎悪)を抱いていたようです。例えば時計で管理するインターバルトレーニングは上からの押し付けであり、誤った条件反射的反応しか獲得できないと切捨てていました。同様に陸上競技場のような平坦で整地されたコースでの練習も、試合以外では使用すべきではないとし、起伏のある丘や砂丘を走るファルトレクを提唱しました。彼にとって選手の創造性を奪うような強制や機械のような反復動作に、自分の<信仰>にまで高めた陸上競技が貶められる事が許せなかったのでしょう。事実、何も考えず上からの強制に唯々諾々と従う選手やコーチを、「でくの棒」呼ばわりして軽蔑していました。自然から学べ。動物の動きを見よ。幼い子供の走り方から学べ・・彼にとって都会の慣習に侵された誤った動きや考え方を一旦、虚心坦懐になって「捨てる」ことによって、まず自然から多くを学べと提言しています。今日我が日本を振り返ると、「人工的な」競技場で「人工的」なインターバルを行い、「人工的な」道路で「人工的な」タイムに縛られた駅伝競走に「条件反射的」に慣らされている事例が散見されるような気がします。最後に彼はその著で次のように言っています。「この選手、あの選手といった特定の選手を打ち負かすのが試合の目的のすべてであると考えるのは完全な誤りだ。時たま自分より強い選手を負かすことがあるが、こんなときに勝った勝ったと有頂天になるのはおろかしいかぎりである」と。(「陸上競技チャンピオンへの道」ベースボール・マガジン社より)

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挑戦者

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セルッティは45歳から再び競技者として走り始めますが、51歳で州のマラソン選手権者となりました。オーストラリアにおける50マイルおよび60マイルの最高記録保持者で24時間以内で100マイル以上を走ったりと晩成型の典型のような取り組み方をします。その辺りの経緯を陸上競技研究への3つの動機として説明しています。
(析と演繹に対する強い興味と自信。
教育、文化、政治、宗教等、あらゆる事象に対していだく深い疑念ーほかの人間が価値を認めるものほとんどすべてに対する、いよいよつのる軽蔑と嫌悪の気持ち。
E典づの専門知識を中心とするかなり高度の科学心・・セルッティは旺盛な探究心で子供や動物の動きから自然で合理的なランニングフォームとはいかなるものかを観察し、他の動物に比して非力な人間がいかにしたらパワーを引き出せるかを追求していきます。そこから導き出したのが、当時タブーと言われた筋肥大によるスピード低下を懸念された、ウエイトトレーニング信奉でした。短距離ならいざ知らず、長距離走者にもバーベルを持たせました。そのあたりの既成概念に囚われない挑戦者の発想が、大砂丘を駆け上がるトレーニングを生み、時計に縛られたインターバルトレーニングを条件反射的反復と面罵した真骨頂を生みました・・人間は年齢を重ねるにつれて保守的となり思考も硬直化するのが常道ですが、彼にはそうした一般的俗説は通用しませんでした。そればかりか自分の置かれた環境、国までも変えかねない勢いで後進の指導にあたることになって行きます・・

参考文献 「陸上競技チャンピオンへの道」ベースボールマガジン社 より

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セルッティにとって不幸であったことは、彼がルソーの「自然に還れ」を実践していた当時、米ソ冷戦時代の先触れがあり、科学万能主義の人工的トレーニングが世界中を席巻しようとしていたことです。セルッティはその書の中で、結果よりもその道筋に至る過程が重要であると何度も力説していましたが、先んじた科学力が世界を征するとした当時の風潮の前では、やや説得力を欠いていた感は否めません。世界的な大選手の成功に何度も関わっていながら、同時期のコーチャーとしての一般的評価では好敵手のニュージーランドのリディアードに分がありました。今思うとトレーニング理論の誕生が半世紀近く早かったために、正当な評価がされなかったとも言えるでしょう。また彼が孤高の立場を堅持し、そのトレーニング理論を世界的に宣伝しなかったことも、一因となっているかと思われます。ともあれ彼の残した文章には珠玉と言えるものが幾つもあります。ここにその一部を記したいと思います。
「生涯のどの瞬間をとらえても、われわれ人間は皆自己を表現し固有の価値を発揮すべき意義ある局面に立っているものである」
「重要なことは何かに成功することではなくて何かを克服することである」
 参考資料「陸上競技チャンピオンへの道」ベースボールマガジン社 より

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一瞬の輝き

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セルッティの最高傑作は何と言ってもハーブ・エリオットでしょう。不世出の天才ランナーと気難しい老人・・まるで瀬古と中村監督のようですが、確かに氏が孤高のコーチャーとしての地位を不動のものにしたのに、エリオットのローマ五輪1500m金メダルの功績が寄与していることは疑い得ないでしょう。彼ほど氏の薫陶を受けその教えを忠実に実行したアスリートはいないでしょう。また彼はその教えるところを理解し、技術を我が物にするのを常人の費やす何十分の一の時間で体得したと言います。
若干20歳で1マイル3:54.5の世界新、1500m3:36.0の世界新をマークして一躍オーストラリアの期待の星として国内が文字通り好奇の目で彼に注目するようになるのですが、それとは反対に彼自身の競技に対するモチべーションは下降していきます。翌年のこの辺の事情をセルッティは以下の如く慨嘆しています。「この年齢としては世界で今まで見たことのない、そしておそらくこれからも見ないほどの有望な将来をもつエリオットが、今陸上競技を捨てて外国に遊学しようとしている・・」
その後過剰な期待に押し潰されることなく、その年の明けた1960年のローマ五輪では2位以下を20m以上も引き離す独走で優勝しました。セルッティは門下生にフロントランナーであることを要求しました。他人の後ろに最後までくっ付いてラストスパートで勝利をものにする選手を卑怯者、寄生虫とこき下ろしました。砂丘を駆け上がるトレーニング等の人工的な競技場でのトレーニングと相反する場所で、エリオットは瞬く間に世界の頂点に登りつめましたが、五輪金メダルを手土産にレースから退いてしまいます・・彗星の如く現れ、消えたランナー・・天才とはそんなものかも知れません。
参考資料 「陸上競技チャンピオンへの道」べースボール・マガジン社
      講談社スポーツシリーズ 中長距離走 講談社

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孤高の師

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まず始めに本日のブログの内容に依るところは、ベースボールマガジン社の「陸上競技チャンピオンへの道」(おそらく絶版)が出典であることを予め申し上げます。・・さて、そもそもこの一見
、風変わりな孤高の老人の存在を私が知ったのは故高橋進氏(メキシコ五輪マラソン銀メダリスト君原の指導者)の「マラソン」(講談社スポーツシリーズ)が最初ではないかと思います。その後、山西哲郎氏がランナーズで1980年代に一般的に紹介するようになりましたが、その説くところのコーチング理論がかなり独創的(当時の世相と照らして)であったため当時も世間一般に広まることはありませんでした。現在もコーチング概念には、同時期の天才コーチャー・リディアードのヒル・トレーニングの理論は活字として存在していますが、セルッティのそれは風前の灯火のようです。彼の主唱する理念は非常に明快です。
ゞ變魯肇譟璽縫鵐阿僚斗彑を説く
⊆然を尊重し人工的なものに対する露骨な嫌悪
食事においても乳菜食主義を貫き、肉をあまり食べない
ぅ肇薀奪での練習・インターバル等を用いず、主たる練習を砂丘や砂浜等の自然の抵抗物を使う
ゥ譟璽垢砲いては先頭走者を志向し、駆け引きすることを寄生虫とこき下ろした・・
データ解析万能の時代にあって、こうしたアナログの極致のようなセルッティの生き方は今となれば、かなり斬新でもあります。切にベースボールマガジン社の再販を希望します。内容に関しても随時紹介したいと思います。これは故人の遺産を引き継いだ者の使命だと、自負しています・・

参考資料 「陸上競技チャンピオンへの道」加藤橘夫・小田海平共訳 ベースボールマガジン社

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