|
昭和17年にもんぺで結婚式を挙げた祖父母。 しかし、戦争さなかのこの新婚夫婦は、結婚後は東京で生活していました。 (実は祖父は、皇○警察官でした。祖父は太平洋戦争が始まってからは、運良く国外で兵隊として召集されることはありませんでした。これは、当時は皇○警察官だと海外での兵役を免除されていたらしかったです) 祖母の話によると、和七さんは、フィリピンへ物資を運ぶ輸送船に乗っていたのですが、その輸送船が爆撃されて、帰らぬ人となってしまいました。 祖母は生前の祖父によく言ったそうです。「和七が生きていたら、3人でいろいろな思い出を作れたのに……」 昭和20年になりました。東京大空襲の前には祖母は「東京は危険」とのことで、千葉の実家に避難していました。一方祖父は召集されて、内地(久能山の辺りだったらしいです)で働かされていました。 祖母は実家で、毎日祖父の身を案じていたそうです。一日千秋の思いで、毎日、毎日……。 藁にすがるような思いで、祖父の帰りを待っていました。 和七さんをはじめ、無数の兵隊や市民の命を奪った戦争がようやく終わったのです。 祖父にも2つ年下の異母弟がいましたが、昭和17年に戦死しています。
私の隣の家のSおじいさん(祖父の従弟)には、兄が3人いたのですが、3人とも戦死しました。 祖父母の世代には、男のきょうだいに戦死者がいてもおかしくない時代でした。 戦死したのは、当時はまだ20代の、前途ある若者たちばかりでした。 祖母には和七さん以外にも弟がいました。二番目の弟はトラック島で九死に一生を得て、祖母の一番下の弟はアリュシャン諸島にかり出されてました。 「どんなに苦しいことがあっても、戦争がないだけ、恵まれている」 仲が良かった弟を戦争で亡くした祖母が、小さい頃の私によく語った言葉です。 最後に、戦争で命を失った数多くの人たちが、国籍を問わず、あの世で幸せで過ごしてほしいと願っております。
|
祖父母のこと
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
これは、戦前、戦時中に青春時代を過ごした大正5年生まれの一女性(私の祖母)の物語です。 祖父母の出会いの話をUPするのが遅くなってすみません。 若き日の祖母(1) からの続きです。 20代前半だった祖母が結核手術後の療養のために草津に住んでいたのは日中戦争中で、祖母と仲が良かった弟の和七さんは、兵役で中国に召集されていました。 そして和七さんと同じ部隊にいたのが、祖父でした。 「和七は優しくていい弟だった」と祖母は私に話していました。そんな和七さんは、同じ部隊の中でも祖父と友達同士でした。 筆まめな祖母は当時中国にいた弟に、頻繁に手紙を出していました。 祖母の話によると、兵役で中国に召集された人たちの間では、日本(当時の人は「内地」と呼んでいた)の家族からの手紙を恋しがっていて、部隊の中で手紙を回し読みするのが普通だったそうです。 もちろん、祖母が和七さんに送った手紙を祖父は読んでいました。 和七さんが祖父に「姉さんは頭が良くていい人だ」という風に褒めちぎったそうです。 当時 結婚適齢期で独身だった祖父は、親しい友人の和七さんの姉に非常に興味をもち、 祖母は当時の結婚適齢期を少し過ぎていた上、結核以外にも病気をしたことがあって結婚を諦めていたそうです。 そして、祖母の弟の友人である青年時代の祖父が草津を訪れ、祖母と会話を交わした後、 20代前半だった祖父は、若い時の祖母に「ビビビ」ときたらしく 二度目に祖父が若き日の祖母の元を訪れた時に、 祖母は戸惑ったらしく「私の方がおばあさん(年上)だから」と最初は断ったのですが、 祖父のことを誠実で良い人と判断して、プロポーズを引き受けました。 祖父母が結婚したのは昭和17年。祖母が25歳、祖父が24歳の時でした。 もう太平洋戦争が始まっていて「贅沢は敵だ」と言われていた時代だったので、もんぺで結婚式を挙げました。 |
|
夏ですね。早いもので、今年でもう終戦から61年目です。 家族の中で、私に一番大きな影響を与えた人は祖母でした。 祖母は大正5年生まれ。戦時中の苦労話や、若かった時のことを、私に何度も話してくれました。 祖母から聞いた戦時中の話を風化させたくなくて、祖父との出会いの話を公表したいと思いました。
私の家は静岡ですが、祖母は生まれと育ちが千葉県です。 祖母が祖父と結婚したのは太平洋戦争中。狭い地域社会での結婚がほどんどの中で、 祖父母の出会いと結婚は当時(戦時中)としては現代でいう国際結婚に該当するくらい珍しいもの でした。 祖母のきょうだいは9人で、祖母は上から五番目、兄、姉が二人ずつと弟が4人です。祖母のきょうだいで、二番目の弟と末の弟以外は、既に他界しています。 祖母は昭和初期に高等小学校を卒業しました。祖母の小学校の同級生で、女学校に進学した人は40人中たった2人だったそうです。 教育を受けたくても家庭の経済的事情で、当時の中学校や女学校に進学できない人が多い時代でした。 祖母は高等小学校を卒業後、裁縫などの家事手伝いをしてから、東京市内にあった看護学校の試験に合格して、看護学生となりました。 しかし、看護学生時代に結核を患って入院し、退学を余儀なくされました。 祖母はきっと悔しかったことと思います。 闘病中の祖母の心の支えになったのは、キリスト教でした。 当時、東京に住んでいた祖母は、青山学院にあったというプロテスタントの教会に通っていました。 (私が小さい時に、祖母は戦前の聖書をもっていました) 祖母は無事に退院した後、草津で暮らしました。草津では療養の傍ら、親のいない子どもたちの面倒を見ていたそうです。 祖母は一番上の3歳違いの弟の和七さんと仲が良かったのですが、和七さんは戦死しました。 実はこの和七さんが、祖母と祖父の出会いのきっかけとなるのです。 ※)和七さんはリアル名です。戦時中の無数の戦死者の中の1人の名をどうしても残して置きたくて、下の名だけリアル名を出すことにしました。
|
|
前回の記事では、暖かいコメントをありがとうございました。 6月30日には、一日遅れで祖父の墓参りに行ってきました。 3年前に亡くなった祖父の死因は心筋梗塞でした。亡くなる前日までは農作業をしていました。 当時は祖母が介護センターに入所していて、亡くなる2日前に、バイクで祖母の見舞いに行っていました。 祖父が亡くなった翌日、車椅子の祖母が急きょ、自宅に戻って祖父と悲しい対面をしました。 祖母が悲嘆にくれていたのは言うまでもありません。 祖母は足が悪くて、葬儀会館での通夜にも告別式にも主席できませんでした。 葬儀会館に、車椅子用の設備がなかったからです。3年前の葬式の時に、事情を理解できない弟が祖母にひどいことを言ってしまったこともありましたが。 もう3年も経つんだな……そんな思いです。 祖父が亡くなった後、祖母は祖父の思い出話を私によく話したものでした。 「おじいちゃんとは一度もケンカをしたことがなかった」 祖母にとって、祖父は理想の伴侶でした。 父は、祖母の実家の兄の次男坊で、家が代々農家だったため、高校を卒業してから祖父母のところに養子縁組しました。 祖母は子どもを産めなかったことを非常に気にしていました。当時(昭和20年代)は、代々農業をしている家の嫁に子どもが産まれないと、周囲からの風当たりが強かったみたいですから。 しかし、祖父は、祖母が出産できなったことを一度も責めたことがありませんでした。 そのことを祖母は非常にありがたがっていました。 そして養子に来た父が結婚して、私、妹、そして末っ子の弟の順に生まれて、 私が赤ん坊の時の写真を見ると、母と写っているものより、祖父母と写っている写真の方が多いんです。 実子がいなかった祖父母にとって、私や弟は、実の娘や息子のように大事だったのだと思います。 一方両親は、社交的でしっかり者で、頼りになるいい親ですが、どちらかというと自分の考えは正しいと思っているタイプです(祖母も「お父さんもお母さんも頑固だ」と言っていました)。 目上の人(家の中では祖父)から言われないと、考えを曲げないので、祖父に言われなければ間違いなく弟に診断を受けさせなかったと思います。 「お前は考えなくていい」というのが父の口癖です。 私が精神的にまだ未熟で定職についていないのもあるけれど、これだけは理由がわかりません。 そのことを考えると、 祖父母がいて本当に良かったです 。
|
|
今日は祖母の誕生日で、90歳になりました^^。 |
全1ページ
[1]



