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70年代、学生運動に信条もなく身を投じた主人公。セクトでの活動、愛、セックス。所属するセクトの活動が過激になり、耐え切れず、逃亡。そして行く当てもないまま精根尽き果てた公園で自分を拾い助けた男。その男との一種の軟禁的生活。飼育される彼女と飼育する彼。そこには心がときめくような愛もなく体が喜ぶような性もない。閉ざされた世界でただ生きているだけ。そして時を経て30数年後、事件の余韻も消え、平穏で満ち足りた生活を送る彼女は偶然パリで彼に再会する。そして彼女は結婚生活を捨て再びあの生活に戻っていくのだ。

彼と一緒に生活した体験は、体験を超えて本能と化した。人間の欲望や欲求って刹那的な恋や性ではなく本能に回帰する。超現実的な体験を共有する2人だけが持つ帰巣本能?あるいは犯人と被害者が共通の意識を抱くストックホルムシンドローム?

生きることの本質とは最後にはここまで行き着くのだろうか?正直、僕には理解できないが・・・・

シテュエーションは違うけど超現実的な体験を通じて生きることの本質を問うという意味では僕的には桐野夏生の『残虐記』とかぶる作品。
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心筋梗塞で急逝した親友、蘭子の不倫相手、ユアサタケヒコとの恋にのめり込んで行く主人公エリカ。男と女はいつだって求め合ったふりをしながらその実儚い束の間の夢を見ているだけ、という達観とも諦観ともいえる気持ちを引きずりながら40過ぎまで心からのめりこむような恋愛をしたことがないエリカ。死んでもいいと言えるような恋愛は幻想でありその存在を否定しながらその実そういう恋愛を求めて急速に激しい恋に落ちていく。否定しながらも恋愛とはこうあるべきというステレオタイプをこころの奥底に持っているから、観念と現実のギャップにはまり込みどんどん空虚になっていく心。結局今までの自分を変えてくれるような恋愛には辿り着けず、再生のないままこの恋は終わりを告げる。

時間の長さは人それぞれだろうが、その瞬間、死んでもいいと思う恋愛をした(あるいはしたと信じている)人は少なくないと思う。僕もそういう恋愛はあると思う。それを自分のライフスタイルや価値観や地位や立場を言い訳にして醒めた考えで否定するのはごまかしであり、逃避なのではないだろうか。

エリカはまたこの恋愛で自分自身の考えにより確信を抱き歳を取って行くのかもしれない。

エリカやタケヒコの生活様式は形式的な虚栄心を満足させるだけの薄っぺらなものに溢れていてどこか嘘っぽい。まあ江國香織の小説よりは現実感があるけれど。虚栄を飾ることにプライオリティをおいた男女の恋なんて所詮はこんなものなのかなと思ってしまった。

ついでに言うとどんなに痩せ型でもどんなにアスリートタイプでもタケヒコみたいな生活している中年は服を脱ぐと無駄な肉のない肉体の人はいないと思う。骨格がしっかりしているとか肩幅が広いというのはあると思うけど。男の体は鍛えなければはっきりと違いが現れる。そしてそういう体を持った人なら、女性との会話にもそういう話題が出るものなのだ。こういうところもなんとなく現実感がないんだよね。

結局周りから見ると「あなたみたいないい女が何やってんの!」て腹立たしくもあり、滑稽でもある恋を、エリカは宮本洸一を通して客観的に見て自分の立ち位置に気づく。洸一の無垢で無心な心だからこそエリカの薄っぺらな生活様式に惑わされない彼女の本質が見えたのか。

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舞い落ちて遊歩道に積もった白くて小さな梅の花びらが春の強い風に煽られ小さな竜巻みたいに舞っていた。映画「アメリカン・ビューティ」の一場面を思い出す。こんな情景を石田衣良ならどう表現するんだろうなとふと思ったわけですが、彼の情景描写はすごくディテールがしっかりしているよね。情景がしっかりと瞼に浮かんでくる。気のせいかもしれないけど特に空の描写が多い。そして表現がこれまた美しいくて彼の空の描写、好きです。それに登場人物が空を見ている場面も多い。東京人はあんまり空なんて仰いだりしないと思うけど、彼はいつも空を見ているような気がします。空の表現といえばオフコースの「秋の気配」。”黄昏は風を止めて、千切れた雲はまたひとつになる・・・”透明な歌声でこのフレーズを初めて聴いた時すごく感動したのを覚えている。それから空の描写にはわりとこだわっている。他にはといえばやはり小池真理子の空の描写も好きだな。

あっと、前置きが長すぎた。今回は石田衣良の直木賞受賞作『フォーティーン』。この本の表紙が主要登場人物の4人が月島から見ているであろう「空」。やっぱり石田衣良は空が好きに違いない。

この作品、僕には「池袋」シリーズとすごくカブる。池袋と月島、成年と少年という違いはあるにしても。

主人公テツロ−とその仲間達の周辺で起こるいろんな出来事をオムニバス形式で語るのであるが、「不治の病」「援交」「拒過食症」「同性愛」「介護」「DV」「少年犯罪」「未成年の性」などなどの社会問題が、そのエピソードの周辺に今の世相を移す社会現象や風俗が鏤められながら語られていくのである。

登場人物は主人公を除くとそれぞれ特徴的でそれぞれが悩みを持っている。ダイなんて中学卒業したら絶対「相撲部屋」からスカウトくるよだって180センチ、100キロだもん。高校ラグビーやったらスターだね、間違いなく。

で、主人公はというと平凡で特に特技があるわけでもなくこれといった悩みもなく。でも一つ言えるのはこんな人いないよ。どこがというと「すごく人に暖かい」んだよね。でこの本読んでると「人に優しくあり続ける」っているのは中途半端じゃできないねってことが判る。腹据わってなきゃできない。それくらいパワー使うってことだよね。それって本当はすごい個性だと思った。そしてそういう「人に優しい」テツローを、がけっぷちから落ちそうな友達を「しっかり支えてやれ」なんていうこれまたさりげないけどすごくいい親父が支えているんだよね。

この作品で一番心に残ったのは同性愛者カズヤの言葉。「不思議なのは、みんなにどれほど悪く言われても、ぼくにはそれがぜんぜん悪いことに感じられないってことなんだ。(中略)誰かを好きになるのは、とても素敵なことだ。それに男とか女とか関係あるのかな」そうだよね、男が男を好きになるのって世の中の一般常識からは外れているかもしれないけど、確かに誰がそんなこと決めたんだろうかって。もちろん、僕は同性愛者じゃない(と思う)けど、男から見たって惚れ惚れするような男もいるし、女から見たって好きになりそうなかっこいい女だっているわけだからね。今の社会常識ってよくよく考えて見れば???てなこと結構ある。

テツローみたいな友達、現実には居そうにないけど、居るときっと自分の心も強くて澄んでくるような気がした。
本書の小池真理子の解説文の感想を書いたのでせっかくだからということで本文の感想も書くことにした。

この小説を読むといつもバンバンの「いちご白書をもう一度」とブレッド&バターの「あの頃のまま」という曲を思い出してしまう。いちご白書・・・の「就職が決まって髪を切ってきた時にもう若くないさと君に言い訳したね・・・」とあの頃のままの「人生の一節未だ卒業したくない僕と他愛ない夢なんかとっくに切り捨てた君・・・」のフレーズがいつもよみがえってくるこの作品。

僕と君という一人と二人称で綴られるこの物語、ストーリーを要約すれば、僕と君が恋に落ち、心と体がひとつになったときから、お互いが離れ始め、そして別れ、僕の心は死んでしまった、そして今も死んだまま・・・この物語は離れて行った君への問いかけでもあり、精神的に死んだ自分へのレクイエムでもある。

文中に出てくる優等生で抜け目のないIやちょっと出遅れてはいるが自分を正直に見つめることのできるTや割り切って即物的で衝動的なSはいつの時代にもいる若者のひとつのパターンなのだ。自分がどれかと問われればおそらくTと主人公の中間だろう。恋愛とセックスと生きることの意味をそれぞれがそれぞれの価値観の中で見つけ出すしかない。そういうことを、そういうことだけを人生の最も価値あることとして語れる、取り組める、それが青春なのだ。観念的として生きるのか現実に生きるのか、それは若者にとっては性を謳歌するのか忌み嫌いながらも心の中で性を希求するのか、性を性として謳歌するのか、性をあくまでも忌み嫌うべきものとして拒み続けるのか、或いはそれらの中間点で折り合いをつけていくのかという問いでもある。どれも正解はない。そしてどうい選択をしようとこれが一番正しいのだという正解がないまま、他の人生のほうが正しいのではないかという不安や猜疑や嫉妬や妬みのなかで悩み続けることもまた青春である。IとTとSと主人公と比べて誰が一番幸せかなんて誰にもわからない。どういう恋愛も甘酸っぱい余韻を残しながら成就できなければ美しい思い出が溢れた記憶となり成就すれば味気ない生活臭に満ちた現実となる。すべてを手に入れてきた者は結局満たされない味気なさで窒息しそうになっているかもしれないのだ。そういう意味でこういう恋愛のできた「僕」は幸せなのかもしれない。
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小池真理子は好きな作家である。しかしマニアではない。僕にとって彼女は生と愛と性を主要テーマとする純恋愛文学作家という位置付けである。ミステリー作家として分類される初期の作品はほとんど読んでいない。彼女の作品自体はもちろん好きだが実は解説文がもっと好きだ。そもそも小池真理子と僕の出会いは彼女の解説文なのだから(しかしその最初の出会いがどの本の解説だったのか、思い出したくてたまらないのだがいまだに思い出せない)。彼女が解説書いている本はなぜか買ってしまう。そして本文読まずに解説だけ読んで読んだ気になったりすることが結構ある。そういう意味ではかなり変わったファンではある。そして一昨年新潮文庫復刊となったこの柴田翔の「贈る言葉」もやはり小池真理子の解説ゆえに買ってしまい、(すでに過去何回か読んで入るものの今回)本文を読むことなく解説だけ読んで読んだ気になってしまったもののひとつである。

前書きが長くなってしまった。では彼女の解説文は何が良いのか?

(小池真理子風に)今ここで誤解を恐れずに正直に言えば、「生」「愛」「性」へのドクドクと脈打つ思いが激しく熱を含みながらも抑制の効いた美しい文章で綴られることに尽きるのである。そういう意味では彼女の本作品であろうが解説文であろうが僕にとってはなんら違いはないのであって、むしろ解説文のような枚数に制限のある中で表現された彼女の思いのほうがはるかにストレートに伝わってくるのである。彼女は、「生」「愛」「性」を真正面からひたむきに語れる、語ることが好きな作家だと思う。この解説文でも「愛」や「性」を「贈る言葉」という作品を通して探求する場に自分が居合わせられた喜びや高揚がストレートに伝わってくるのである。

この解説文によれば、「贈る言葉」(1969年12月25日13冊)を仙台にある県立高校2年の時に手に入れ今なおそれが手元にあるとのことで、一度読んだ本を比較的簡単に捨ててしまったりほとんど線も引かずに読む自分との違いに愕然とするのである。高校時代から知的探求心旺盛なそういう精神生活を過ごしてきた彼女とまったく対極のような自分の生活を比べると、後にならないとわかりえない種類の「後悔」をついつい感じてしまう。「あの時、あの時代、もっと豊かな精神生活を送ることもできたのに・・・」と。「贈る言葉」だけでなく高橋、倉橋、福永、北、安部、大江といった作家の作品を通して「ひたすら強烈な、刺激的な人生を求め、さまよい、誤解を恐れずに正直に言えば、その刺激の大半は、恋愛や、性的なものの中にしか、見つけられなかったように思う」と言える彼女は精神的にも知的にもそしておそらく肉体的にも、高校時代の僕と比べると一歩も二歩も三歩も四歩五歩も六歩も(しつこいってか?)先を行く大人だったに違いなく、ある意味憧れる存在でもある。

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