新☆たきこセンター

なんて暑苦しいアバター。少し脱げっ!

2011.3.11忘れないために

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こんばんは、たきこです。
 
深夜に更新のマイブログ。
 
彼氏の歯ぎしりに耐えかねて起きてきました。
 
キリキリいってんじゃないよ〜!もう〜!
 
 
昨日から陸前高田の実家に帰省し、本日の夕方に
 
内陸の一関のアパートに帰ってきました。
 
陸前高田は内陸より涼しかった〜。
 
 
さて、陸前高田も少しづつ変わってきてました。
 
瓦礫の撤去も進み、本当に「何も無い」風景に近づいてきています。
 
それはそれで、なんだか切ないような気もしますが・・・
 
撤去しなければ前に進めませんしね!
 
キャンプ場「モビリア」には、イオンの仮設店舗が出来ていましたよ〜。
 
仮設住宅も建っていました。
 
 
「モビリア」では震災直後から、たくさんの方が避難生活をおくっていました。
 
電気が復旧せず、ラジオで情報を得ていた震災後3日目あたりに、
 
「モビリアでは布団も食料も足りずに、
 
一日の食事はおにぎりが一個、もしくは何も食べられないこともある・・・」
 
という話がラジオから流れていて、
 
食料に若干の余裕があった我が家から、少しでも食べ物を届けよう!と思い立ち、
 
翌日、弟と二人で瓦礫でいっぱいの道なき道を車で向かったのでした。
 
布団、毛布、お米、パン、お菓子、風邪薬、マスク、消毒液、電池、ラジオなど、
 
どれも本当に少しづつでしたが、あれば何かの役に立つだろうと思い届けました。
 
 
到着すると、玄関付近の椅子に沢山の方がもたれかかるように座っていて、
 
子供たちも憔悴しきった様子でうなだれていました。
 
泣く元気さえないように見えました。
 
雪の舞う日だったのに、衣類も不足しているためか
 
薄着で丸くなっている方も多く、
 
「早く救援物資が届きますように」と願わずにはいられませんでした。
 
 
今日、仮設住宅の付近では子供たちが元気に遊んでいました。
 
やっぱり子供は元気に駆け回っているほうがいい!
 
子供たちにはもう二度と、
 
泣く気力さえ失ってしまうような思いをさせたくはないですね。
 
そのためには今、わたしたちの世代が頑張らなくては!と思います。
 
すぐに町の復興ができるわけではなく、
 
次の世代、また次の世代・・・と受け継ぎながら、
 
少しづつ「懐かしくて新しい、陸前高田」になったらいいなと感じています。

頼もしいじゃないの!

イメージ 1
 
上の写真は、5月下旬に実家の陸前高田に帰省した際に撮影しました。
お米の苗ですね。^^
 
奥に見える横に走っている道路は、国道45号線です。
左が大船渡方面、右が気仙沼方面に向かいます。
この国道45号線は津波によって一部が押し流され、県道の上を交差して橋のようになっていた部分が無くなってしまいました。
 
そして、この田んぼの付近でも何体もの遺体が見つかっています。
たきこも、震災直後にこの付近で瓦礫に間から右足が出ているのを見つけて、
あわてて消防団のお兄さんに報告しました。
 
この田んぼも津波の被害を受け、約1ヶ月前までは瓦礫が散乱している状態でした。
写真奥の右側には、まだ瓦礫が残ってみえます。
そのすぐ後ろにある、家のように見えている建物は、農業試験場でした。
この付近は水田が多く、秋の刈入れ時期になると一面黄金色に見えてきれいです。
 
でも、今年はどこの田んぼも田植えは出来ないだろうな・・・と思っていました。
瓦礫は撤去されても海水の塩分が残っていますし、
遺体が見つかった場所で水田を再開することに
抵抗を感じている方も多いようだと聞いていましたしね。
 
だから、この田んぼを見たときはすごく驚きましたね〜。^^
でも、嬉しかった!  
「負けずにがんばろう!」と思っているお宅があるんだと知って、元気がでました。
 
この写真を撮った翌日に田んぼを見にいくと、
おじさんが一人で隅っこの残っている部分を手で田植えしていました。
「おんちゃん、この田んぼは塩害とか大丈夫だんたんですか?」
と聞いてみたら、
「なんだが分がんにゃけんともよ〜、やってみるしかにゃ〜べもんな〜。
 こういう時は、馬鹿なやづがいねばなんねんだ〜。」
と言って笑ってました。
 
このおじさんが言った「馬鹿な奴がいなきゃならない」っていうのはきっと、
「先陣きって前に進む人が必要なんだ」ってコトかな〜と思います。
 
たきこ、このおじさんをリスペクト!
イメージ 2
もう一つ画像があったみたいなので載せました。↑
同じ田んぼを少し違う角度から撮影したものですね。
この画像には写っていませんが、
右手側には上の画像にあった国道45号線が走っています。
この画像の道路、今はきれいですが震災当時は瓦礫で通れませんでした。
道路すぐの後ろの右側のものは、どこからか流されてきたトラックの荷台です。
左のトラックは、たまたま停まっていた復興支援のトラックです。
一番奥には山が見えていて、海から近いようには見えませんが、
ここまで、家の二階部分や車、高田松原の松、電信柱などが流れ着いていました。
こんにちは。^^たきこ復活です。
 
今、実家のある陸前高田市を離れ、
内陸の一関の婚約者のアパートで暮らしています。
 
 
地元の陸前高田市の約8割の家が被災したなかで、
たきこ家は無事でした。家族も無事でした。
 
たくさんの人が亡くなりました。
 
たくさんの人が行方不明です。
 
悲しいことの多い2ヶ月でした。
 
親戚は2名死亡、3名が行方不明です。
 
幼稚園から中学まで一緒だった同級生が亡くなりました。
 
幼稚園から中学まで一緒で、仲良しだった同級生がいまだ行方不明です。
 
母校である高田高校は被災して、高校生が何人も亡くなりました。
 
変われるものならば変わってあげたい。
 
若い子たちが亡くなったことが、すごく辛い。
 
 
陸前高田市は小さな町でした。
 
だから、みんなが顔見知りだった。
 
みんなが悲しいし、悔しいし、苦しくて、辛い。
 
だけど、
 
だからこそみんなで支えあって助け合う。
 
 
今、たくさんの人たちの力によって、わたしたちの生活が支えられています。
 
義援金や自衛隊の方々やボランティアの方々や災害派遣の方々。
 
毎日、さまざまな県や国から来てくれて
 
さまざまなかたちで助けてくれています。
 
 
わたしたちは今、自分の生活を守るのに必死です。
 
家も家族も仕事も車も、何もかも奪われた人が多い。
 
電気がまだきていない家もあります。
 
水道も復旧していません。
 
仕事がなくなった人はお給料もなく、貯金を切り崩しての生活です。
 
義援金は、まだほんの少数の人たちにしかいきわたっていません。
 
あんなにたくさんの好意が集まっているのに。
 
 
多くの人たちは一日を過ごすのに精一杯で
 
身体的にも精神的にも余裕がありません。
 
 
だから、もうしばらく力を貸して下さい。
 
わたしも、この場所から何が出来るかを考えています。
 
 
そうしていつか、
 
「恐ろしい海」ではなく「美しい海」を
 
陸前高田に観に来てください。
 

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